追記 妊娠(三)
「では私はまた明朝様子を伺いに参ります。奥様、お大事に」
セバスチャンはデュモン医師を見送りに彼と出て行き、寝室にはアナとジェレミーだけが残された。ニコニコしているアナに対し、ジェレミーは大きなジレンマを抱え苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
(副流煙はお腹の胎児に良くない影響を与えると言うし、用心に越したことはないわ)
(くそっ、また独り寝の日々に戻るかもしれないのか……そりゃ、俺も分かっちゃいるけどよぉ……あの医者これからはデュモンじゃなくてデーモンと呼んでやる!)
「旦那さま、そろそろご出勤のお時間ですよ、ゴホゴホ……」
「ああ、分かってる。じゃあな、ゆっくり休め」
ジェレミーは遠慮がちにアナの額に軽く口付けて部屋を出て行った。本当は唇にしたかったが、アナに『旦那さま、いやだわ、煙草臭いです。先生のおっしゃる通り当分別室ですわ!』と言われたくなかったのだ。
デュモン医師を見送り、ジェレミーもちゃんと出勤したのを見届けたセバスチャンは主寝室のアナのところへ戻ってきて驚いた。アナが寝台から抜け出て、枕を抱えてゴソゴソしているのである。
「奥様、何をなさっているのですか? 安静にしておいて下さいませ!」
「えっ? だって今日から私の寝室で休みますから引っ越しを、と思って。でも、私ほとんど着替えも何もかもあちらに置いたままですから、引っ越しなんて大袈裟なものではありませんけれど」
「それはそうですが、無理なさらないで下さい、奥様」
「だって、私が自室に戻っていれば、今晩旦那さまはお帰りになったらすぐここで煙草をお吸いになれますから」
先程のジェレミーの表情からセバスチャンが察するに、彼はアナと寝室を別にするくらいなら煙草を自由に吸えなくなっても構わないだろう。
(これは面白がっている場合ではございません……私が奥様を移したのではなく、奥様がご自分で自室に戻られたのであって……私は帰宅された旦那様に八つ当たりされたくありません……)
案の定、セバスチャンの予想通りだったのである。その夜、帰宅したジェレミーは自分の部屋にアナが居ず、寝台もきちんと整えられているのに気付くとアナの部屋に駆け込んだ。
「アナ、お前本当に部屋を移ったのか?」
丁度アナの弟テオが学院の帰りに彼女の級友たちから預かった授業のノートや宿題を届けに来ていた。
「旦那さま、お帰りなさいませ」
「こんばんは、義兄上。じゃあ私はこれで失礼いたします」
テオはすぐに出て行った。
「気分はどうだ?」
「熱は少し引いて、でも咳がまだ残っています」
「そうか、俺ちょっとお前の弟に話があるから、すぐ戻って来る」
アナの手を軽く握って離すと、ジェレミーは急いでテオを追いかけるために出て行った。テオはもう玄関前に来ていた。
「おい、
「はい、何でしょうか?」
テオは居間に通された。ジェレミーは何か言い難そうにしているが、あまりテオを引き留めても悪いと思ったのだろう、口を開いた。
「聞きたいことがある。煙草を止めたいんだ。今まで何度も止めようとしたけど挫折した。今度は何としてでも……」
テオはジェレミーが余りに真剣なので思わず吹き出しそうになったがこらえた。先程アナに部屋を移った理由を教えられていたのだ。
(僕、姉上が婚約した時から結婚当初は二人の関係のぎこちなさに気を揉んでいたけれど……昨年末に喧嘩したとかで姉上がゴダン家に戻ってきた後は何だかこちらが照れるくらい夫婦仲良くなって。それにしてもこの人ってすごく分かり易いな……)
テオは努めてごくごく真面目な顔でジェレミーに聞いた。
「一日何本くらいお吸いなのですか?」
そうしてジェレミーはテオに無理なく禁煙する方法を伝授してもらい、数週間かけて見事禁煙に成功した。アナの風邪が治ってからはまた寝室も一緒になり、夫婦別室の危機も逃れたのだがそれはまた後日詳しく述べることにする。
アナが学院で倒れて二週間ほどしたある日の夕方、アナはデュモン医師の訪問を受けた。
「奥様、体調は如何ですか? 様子を見に寄らせていただきました」
「はい、先生。風邪も治り、咳も収まりました。それに主人が禁煙する気になって、張り切っております。これもデュモン先生のお陰ですわ」
「それはよろしゅうございました」
「あの、風邪は良くなったのですが、体調は何と言うか常に体がだるくて眠くてしょうがないのです。月のものはないままですし」
「吐き気はありますか? 食欲はどうですか?」
「吐き気は少しだけあります。食欲は、そうですわね、以前より少し食べる量が減りました」
「失礼して診せて頂いてもよろしいですか?」
「はい」
「僅かですがお子様の心音が聞こえます。おめでとうございます、奥様」
「本当ですか? 嬉しいです! ありがとうございます、先生」
「ご病気ではないですが、あまり無理はなさらないように。何かあったらすぐにお呼び下さい」
アナとセバスチャンがデュモン医師を見送っている時、丁度ジェレミーが帰宅した。
「帰ったぞ……今日は全くどいつもこいつもへっぴり腰でさ……(ん? デーモン閣下が何でいるんだ?)アナ、どうした? また熱でも出したのか? 最近風邪は治ったのにあまり元気なかったもんな」
「旦那さま、お帰りなさいませ」
「ルクレール侯爵、お邪魔しております。私はこれで失礼致します」
デュモン医師はにっこり微笑んだだけでジェレミーに頭を下げ、去って行った。
「旦那さま、お疲れさまでした。デュモン先生は念のために私の様子を見に来て下さっただけなのです。私は何ともありませんわ」
アナはニコニコしながらジェレミーに告げた。そして着替えるために二階に上がるジェレミーについて行く。ジェレミーが着替え終わった後アナは切り出した。
「旦那さま、夕食の前に少しお話がございます」
「何だ?」
アナは少々
「あの、私……子が出来ました」
「えっ、何だって?」
「旦那さまのお子を身籠りました」
「本当か? でかしたぞ、アナ! 何だ、風邪が治っても調子が良さそうじゃないからまた別の病気かと思ったじゃないか」
ジェレミーはアナに近寄り、彼女のお腹を優しく撫で、額に口付けた。そしてアナを軽く抱き締め、彼女も両腕を彼の背中に回した。
「悪阻で元気がなかったんだな、お前。俺達二人とも健康で生殖機能に問題無くて良かった。だったらあれだけヤッてたから出来て当然だよな」
「もう、旦那さまは! 私、とても嬉しいです。ルクレール家のため、旦那さまのために立派なお子を産めるように体調管理に気を付けますから」
そこでジェレミーはアナの体を少し離した。彼は少々不機嫌になっている。
「お前なあ、俺だけの、ルクレール家だけの子供じゃないだろうが! 種だけで俺一人どうやって子作りしろって言うんだよ。俺とお前二人の子供で、ボルデュック家の血も引いてるだろ! 二度とそんなこと言うなよ!」
「はい。私幸せ者です。大好きです、旦那さま!」
アナはジェレミーにギュッと抱きついた。
「お、おい、アナ気を付けろ。お腹の子供が潰れるぞ!」
そしてこの日からジェレミーはやたら心配症になり、根拠も無いのにあれこれとアナに禁止事項を突きつけてくるようになったのだった。
――― 妊娠 完 ―――
***ひとこと***
ビアンカはこの年末にアナに会った時既に妊娠に気づいていたようです。(本編第五十二条)が、彼女は心の中でそっとアナのおめでたを喜んでいただけで何も言っていません。でないとデュモン医師(あだ名はデーモン!)や将来のテオ君は商売あがったりですからね。
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