追記 妊娠(一)

― 王国歴1030年 1月


― サンレオナール王都



「うーん……」


 アナが目を開けると見知らぬ天井が目に入ってきた。窓際の一人用の小さな寝台からそろそろと体を起こし、彼女は周りを見回す。段々と状況が理解できてくる。まずアナが寝かされていたのは貴族学院の医務室のようだった。


 アナはここ数日、少し眩暈がして何となく魔力もあまりないとは感じていた。その日の昼食時は食欲がなく、りんごを少しかじっただけで、それも良くなかったらしい。午後一番の魔術実技の授業で風を出してみるように言われ両手を前にかざした途端、目の前が真っ暗になりその場にへたり込んでしまったのである。


「アナさん?」


「ルクレールさん!」


 級友達の慌てた声が聞こえたのを最後にそのまま意識を手放してしまった。




 アナがそろそろと体を起こしていると、カーテンで区切られた寝台の向こうから女性の声がした。


「気が付いたのね。入ってもいいかしら?」


「はい」


 医科の教師で養護教師も兼任しているエリザベット・ラジュネスだった。アナも応急処置等の授業を受けたので知っている。三十代後半くらいのはきはきとした女性だ。


「気分はどう?」


「少し良くなりました。休ませていただいたおかげだと思います。あの私、授業中に気を失ってここまで運んでもらったのですよね……」


「ええ。クルティエ君がね。流石に目の前で自分の生徒が倒れたので慌てていたわ」


 入学前にアナの面接をした魔術科の教師で、今日の実技の授業を担当していたのが彼だった。


「私の体調管理がなっていないために皆さんにご迷惑を掛けてしまって……あの、ラジュネス先生もありがとうございました。お世話になりました。私、アナ=ニコル・ルクレールと申します」


「ええ、貴女のことは知っているわよ。ルクレール姓の生徒は貴女で四人目ですしね」


 アナの前の三人とはミラ王妃、ジェレミー、フロレンスに違いない。


「ラジュネス先生には弟がいつもお世話になっております。医科三回生のテオドール・ボルデュックです」


「ああ、そう言えばボルデュック君のお姉さまなのよね。すっかり忘れていたわ。貴女は編入学生の上、既婚で、しかも旦那さまはあのジェレミー・ルクレール君という印象ばかりだったから」


「えっ?」


「貴女は鳴り物入りで入学してきた有名人ですもの」


 エリザベットはいたずらっぽく微笑み、アナは目をぱちくりさせた。


「さて、倒れた時の状況だけど、お友達は貴女がそう言えば朝から顔色があまり良くなかったって言っていたわ。昨晩は良く寝て朝食はしっかり食べてきた? 熱はないみたいね」


「最近、あまり食欲がなくて今朝の食事は少ししか食べていません。昼食もほとんど……」


「そう。月のものが最後にあったのはいつ?」


「もう二か月近く前のことです。まだ私の予感に過ぎませんが、子が出来たのかもしれません。最近特にそんな気がして」


「そう。私も実はそうかなって思ったのよ。倒れたのは軽い貧血でしょうね。でもまだ妊娠の有無をはっきり断定するには早すぎるわね」


「実はまだ主人にも誰にも言ってないのです」


「分かっているわよ。ルクレール家に使いをやって迎えの馬車を寄こしてくれるようお願いしたから、もうそろそろ着くはずよ。それから今日はテネーブル教授が丁度いらしたみたいでね、すぐに王宮に瞬間移動してルクレール君にも知らせてくれたみたいよ」


「え? そんな……主人の仕事の邪魔をする程では……どうしましょう……」


 その時医務室の扉が叩かれた。エリザベットが見に行き、アナの弟テオと一緒に戻ってきた。


「姉上が倒れたと聞きました。大丈夫ですか? そう言えば最近お疲れ気味でしたね」


「ええ。でも休んだので気分は良くなりました。テオにまで心配を掛けてしまいましたね」


「勉強もあまり根を詰め過ぎると身体にも障るし、結局は何も身につきませんよ、姉上」


 その時である、医務室の扉がバタンと開き、ジェレミーの声がした。


「アナ、何処だ?」


(ジェレミーさま、もういらしたの?)


「旦那さま、こちらです」


「ちょっとルクレール君、他にも病人や怪我人がいるかもしれないのに大声出さないでよ!」


 エリザベットがカーテンから顔を出して注意する。


「あ、先生。すみません。妻は?」


「旦那さま、お仕事中断させて……」


「アナ、大丈夫か? 実技の授業中に倒れたんだって? 誰にやられた?」


 心配で焦っているジェレミーはアナの言葉もさえぎる。


(誰にやられたって? 仕込んだのはお前だろーが!)


 よほどツッコんでやりたかったエリザベットだった。テオまでが意味ありげにジェレミーの方へ目をやっている。


「落ち着きなさいったら、ルクレール君!」


「そんな、誰にも何もされておりません。私が一人で倒れただけです、旦那さま。お仕事中なのにわざわざ来て下さってありがとうございます。」


「ルクレール君もボルデュック君もあまり心配する必要ないわ。軽い貧血だから。もうお屋敷からの迎えの馬車が着いているのじゃない? アナさん荷物は?」


「私が姉上の教室に取りに行きましょう。それから直接玄関前まで持って行きますよ」


 そしてテオは医務室から去っていく。


「おいアナ、足出せ」


 ジェレミーは床に置かれていたアナのブーツを手に取ってそう言った。


「え、旦那さま?」


「靴履かせてやる」


「え、そんな私自分で履けますから!」


「俺に布団引っぺがして履かされたくないならつべこべ言うな」


「ありがとうございます……旦那さま」


 そうしてアナはそろそろと寝台から足を下ろし、床にひざまずいたジェレミーにブーツを履かせてもらっている。これにはエリザベットも目を丸くした。


(えええっ、この傲慢男が跪いてるわ……なんていう献身ぶり……)


「よし、じゃあ行くぞ」


 彼女を抱えようとするジェレミーに焦ったアナは言う。


「旦那さま、私歩けますから! あの、前回のように肩の上に担がれると……」


(この間みたいに抱えられたらお腹が圧迫されてしまうわ!)


「貧血で倒れたお前を逆さまにして運ぶわけないだろーが」


 ジェレミーは有無を言わせず、静かにアナを横抱きにした。


(あらまあ、その上お姫様抱っこ!)


「ルクレール君、ただの軽い貧血っていってもね、アナさんをあまり疲れさせたら駄目よ。夜はしっかり寝かせてあげてね」


 エリザベットは笑いを噛み殺しながらアナにウィンクした。


「はぁ? それは……分かってますよ。ありがとうございました。失礼します」


 アナは口をぱくぱくさせながら顔を真っ赤にしている。


「お、お世話になりました、先生」


「学院一の問題児が十年後の今や愛妻家とはね。私も歳をとったわね。教師として感慨深いわ」




妊娠(二)に続く




***ひとこと***

時間は遡ってアナが初めて妊娠した時の話です。アナがジェレミーにお姫様抱っこされるのを実現させたかったのです。本編第四十七条では肩の上に担がれていただけでしたから。

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