追記 御者(三)

 飲み屋に入って行かれたお二人は、四半時も経たないうちにご一緒に飲み屋から出てこられました。


「旦那さま、もう飲みに行かれてもお酒はほどほどにして下さいませ」


「はいはい、奥様」


……どこから見ても普通に仲睦まじい夫婦です。修羅場に決着がついた後だとしてもここまで仲良く出来るものでしょうか? 愛人に手切れ金を渡した、お坊ちゃまが土下座した……にしても腑に落ちません。高位の貴族の方々が考えることは時々庶民には理解出来ません。




 さて、帰りの道中お二人は何だか楽しそうに終始お喋りをしておられます。こんなことはつい最近までございませんでした。それにしてもアナ様のこの声は誰かに似ています。


 それからもお二人を乗せてあちこち送り迎えすることが良くありました。ご夫婦の仲は修復されたようで、一安心でございます。一度、お屋敷の玄関前に馬車が着いたと同時に、私が降りて扉を開けるよりも先にアナ様が中から飛び出してこられたことがありました。


「旦那さまのイジワルッ! あっヒュー、今日もありがとう!」


 彼女はそう叫んで屋敷の中に駆け込まれました。お顔は真っ赤でした。お坊ちゃまはまだ馬車の中に座っておられ、ニヤニヤされています。


 そこで私はアナ様の後姿とお坊ちゃまを交互に見比べ不思議な感覚に陥りました。以前にもこんな場面に何度か出くわしたことがある、と。


 あれは確か……もう少しで全てが繋がりそうです。そうです、私がお坊ちゃまとニッキー少年を乗せていた時にも良くあったのです。


『ジェレミーさまのイジワル! 送って下さってありがとうございました! お休みなさい!』


 あの美少年もよくそう言ってはプラトー地区の白壁の家に駆け込んで行っていました。一瞬あれはアナ様の弟君だったのかと思い、姉と弟が正に竿姉弟だなんて……という何とも不埒で不謹慎な考えが一瞬よぎりました。


 おお、神よどうかお許し下さい……私はその破廉恥なおぞましい思考を振り払い……やっと理解したのです。


 アナ様の弟ぎみは私も数回お見かけしたことがあります。彼はニッキー少年よりも背が高くすらっとしていてアナ様とはあまり似ていらっしゃいません。ニッキーは背格好も顔も声もアナ様そのものです。と言うことはアナ様がニッキー少年だった……? ええ、そうに違いありません!


「ご苦労、ヒュー。アイツの言うイジワルはもっといじめて下さいませ、っていう意味だからな」


 なんて相変わらずニヤニヤ顔でおっしゃいながら屋敷に入っていかれました。長年勤めているから分かります。お坊ちゃまのこの機嫌の良さは以前ニッキー少年ことアナ様を送って行っていた頃以来のことです。


 詳しい事情は分かりませんが、これだけは言えます。お坊ちゃまは浮気していたわけではなかったのです。


 私もミラ王妃様が少女時代、得意の変幻魔法でよく悪戯をされていたので分かります。学院の魔術科に進まれたアナ様ですから変幻なんて朝飯前でしょう。それに今から考えるとニッキーとアナ様の違いは髪と眼と肌の色だけです。屋敷裏で誤解を招くようなことを叫ばなくて本当に良かったです。ゆうゆうのんびり隠居生活の夢も消えていません。




 年も明け、春も近付いたある日のことでした。アナ様がご友人のお宅に行かれる、ということで馬車を出しました。


「プラトー地区の北の方なのですけれど、分かりますよね、ヒュー? 以前良く旦那さまのご友人を送って下さっていたリヴァール通りの一つ北の大通りで……」


 アナ様が場所を説明して下さるのですが、私は動揺を隠しきれません。彼女は私がニッキー少年の正体を知っていることをご存じで、ウィンクまでされました。


「その節は、ニッキーがお世話になりましたね、ヒュー」


「い、いえ、奥様」


 アナ様には参りました。ああ、本当に穴に向かって怪しいことをわめかなくて良かったです。




 私はその後すぐに退職し、妻と共にルクレール領の屋敷の近く、小さな小屋に越してきました。週二回お屋敷の庭の手入れをし、時々は大旦那様のアルノー様のお相手でカードやチェスをする日々です。


 年に何回か、お坊ちゃまとアナ様もいらっしゃいます。お二人はお子様達にも恵まれ、お幸せそうな御家族の様子に私も感慨深くなってしまいます。以前、御夫婦の仲を心配していたなんて遠い昔の笑い話でございます。


 アルノー様からある日、御夫婦に三人目のお子様が生まれたと聞きました。今度はお嬢様だそうです。あのお坊ちゃまが愛妻家の上に子煩悩なお父上になるなんて少し前までは想像も出来ませんでした。今となってはそれがしっくりくるので不思議なものです。


 三人目のミレイユお嬢さまが三歳くらいになられた頃に御家族が領地にいらっしゃった時のことです。お屋敷のお庭でお坊ちゃまとお子様三人が遊んでおられるのを眺めながらアナ様が私にこそっとおっしゃいました。


「ミレイユは顔立ちも私に似て、髪の毛も茶色でニッキー少年にそっくりになってきたでしょう? 旦那さまはミニニッキーなんて呼んでいるのですよ」


「そうでございますか、奥様。ええ、確かに……良く似ておいでです」


「その理由が分かる人も数人しか居ませんからね、ヒュー」


 アナ様はクスクスと笑っておいでです。御夫婦の秘密を知る数少ない人間として、私の胸にしまっておくことにしましょう。こんな素敵な秘密を共有できるのでしたら、胸も痛むどころか光栄でございます。



     ――― 御者  完 ―――




***ひとこと***

取り越し苦労で良かったですね、ヒューさん。それにしてもヒューさんでさえ自分でニッキーの正体が分かったというのに……

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