追記 御者(二)

 そう言えば御婚約中はあのニッキー少年を良く馬車に乗せておりましたが、お坊ちゃまが結婚されてからはバッタリと彼の姿を見ることはなくなりました。


 しかし、お坊ちゃまはあの飲み屋に変わらず足繁く通われています。と言うことは……あの飲み屋では中で売春宿や連れ込み宿のような商売もやっているのに違いません! やはりこれはセバスチャン様に報告すべき事態ではないかと思い悩みました……




 そんなある日のことでございました。まかないの昼食を使用人控え室でとっておりました。何か今日の使用人達は雰囲気が違います。不幸でもあったのでしょうか? 何となく沈みきっております。ところで今日の昼食は珍しく一切れの焼き菓子までついています。しかもそれは特大の一切れです。不思議そうな顔をする私に下女の一人が教えてくれました。


「今日はグレッグさんやたら気合が入っていてね、セバスチャンさまに言われて超美味しい焼き菓子を作っているらしいの。彼の高尚な判断基準に満たなかった失敗作が賄いに回ってきて。それで私たちまでご相伴しょうばんにあずかれているってわけ。ラッキーでしょ」


 何でもセバスチャン様に命令された料理長のグレッグさんはルクレール家でしか味わえない至高の焼き菓子作りに燃えているそうです。失敗作だろうがグレッグさんのお菓子は頬が落ちそうなくらい美味でございました。




 昼食後、私はセバスチャン様に呼ばれました。何でも午後お坊ちゃまが帰宅されたらすぐに馬車が必要になるからいつでも出せるようにしておけとのことでした。


「旦那様を待たずに私本人が出向かいたいところですが……ああ、もどかしいったらもう!」


 彼まで何だかいつもと違いイライラしています。私は何事かと思いましたが本人に尋ねるわけにもいきません。




 さて、午後早目に帰宅されたお坊ちゃまにすぐにアナ様の伯父様宅であるゴダン家に向かうよう指示を出されました。お二人が御婚約中には私も良く参っておりましたが、お坊ちゃまをそこへお乗せして行ったことはあまりありませんでした。一体何事でしょうか? セバスチャン様まで見送りに玄関先まで出てこられています。


「必ず奥様をお連れになってお帰り下さい!」


 さては夫婦喧嘩でアナ様が出ていかれたと推測されます。婚約中から飲み屋の少年の所へ通いつめられていたお坊ちゃまにとうとう愛想を尽かされたのでしょう。当然のことです。


 しかし、アナ様をお連れすることが出来ず、お坊ちゃまと二人で帰宅した日には私まで懲罰を受けそうな雰囲気であります。お坊ちゃまの手にはグレッグさんの渾身の焼き菓子らしき包みまであります。だから彼は朝から焼き菓子作りに懸命になっていたのでしょう。グレッグさんと私にははっきり言っていい迷惑でございます。


『別れの理由は旦那様の男色ー!』


と屋敷裏の穴の中に叫びたい気分であります。




 お坊ちゃまのゴダン家訪問は長時間に渡りました。しかし、今日のところはグレッグさんの焼き菓子まで使ってアナ様をなだめすかして仲直りしても、お坊ちゃまが以前と変わらず飲み屋に通っていては何の解決にもなりません。


 それでも帰りはちゃんとアナ様とご一緒でしたのでほっと致しました。お二人共何だか嬉しそうで、アナ様など私とちらと目が合うと真っ赤になっておられます。夜の薄暗い灯りの下でも分かるくらいです。


 美少年との浮気がばれた後の修羅場とは到底思えません。さてはお坊ちゃまは土下座して泣いて許しを請うたのでしょうか。それにしても……腑に落ちませんし、あのお坊ちゃまが号泣して謝罪だなんて到底想像できません。とにかくお二人一緒に帰宅されて私のその日の役目は果たせました。




 その後は御結婚後全くと言ってもいいくらい別行動されていたお二人をご一緒に馬車にお乗せする機会が増えました。ニッキー少年とは縁を切られたのか、お坊ちゃまもあの飲み屋に顔を出すことも飲みに出かけることさえないようであります。夫婦の不仲も一件落着とみられ、私はほっと胸をなでおろしておりました。




 数日後、年末のある日の午後のことでございます。夫婦お二人でお出掛けになるようでした。アナ様が含み笑いをしながら私に行き先をお告げになりました。


「ヒュー、あの飲み屋までお願いできますか?」


「奥様、あの飲み屋とはもしかして?」


「ええ、イザベルさんのところです。お願いしますね」


 思わず固まってしまった私に、何を思われたのかアナ様はクスクスと笑い出されます。一件落着ではなく……正妻が夫の首根っこを掴んで愛人の所へ乗り込むという地獄絵図でございます。私は身震いを致しました。厳しい寒さのせいだけではありません。


 アナ様にしてみれば確かに、侯爵夫人として夫が飲み屋の少年に首ったけだなんて、沽券に関わります。あんな穏やかで優しそうなアナ様でさえ……女性という生き物の怖さを知りました。


 気の小さい私はビクビクしながら飲み屋前に馬車を止めました。馬車を降りるアナ様はニコニコされていて、お坊ちゃまの方は、何とも言えませんがいつもの無表情のような……これから修羅場が展開されるのでしょう。


 自業自得とは言え、お坊ちゃまが気の毒になってきました。浮気や不倫なんてするものじゃありません。燃え上がって夢中になっている間はいいかもしれませんが、後で払う代償はあまりにも大きすぎます。


 アナ様は変わらずニコニコしながら、そんなに時間はかからないからこのまま待っていてとおっしゃいました。正妻対愛人(男)の直接対決にかかる平均時間は知りませんが、四半時やそこらで決着がつくとはとうてい思えません。不安になってきました。



御者(三)に続く




***ひとこと***

正妻アナ対愛人ニッキー少年の修羅場を想像するヒューさんです。神経をすっかりすり減らして、お気の毒に。

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