追記 執事(三)
そうやきもきしていたある日のことです。お坊ちゃまのお部屋に猫が一匹入り込んでおりました。そう言えば少し前に彼は黒猫を探しておられました。何でも危機を救ってもらっただか助けてもらっただかでした。
私はふと、その黒猫がお坊ちゃまを見つめる眼差しはアナ様のそれと良く似て……と同時に悟ったのです。しかもアナ様と同じ碧い色の瞳、もしかして、と。アナ様は貴族学院魔術科に編入し魔術師になる勉強をされております。
という事はアナ様は変幻魔術だけでなくほぼ全ての魔術が使えるのでしょう。猫の姿に変わるなど彼女にとっては朝飯前と思われます。ミラ王妃様も変幻魔術だけは得意で昔から色々と悪さをされておりましたから私は分かります。
次にその黒猫を見かけた時にお坊ちゃまに分からないようにそっと話しかけてみました。
「奥様にそっくりな目をした黒猫さん?」
黒猫ちゃんの驚きようったらありません。ご安心を、私は誰にも秘密は漏らしません。その後、アナ様にお会いした時は何だか気まずそうな顔をされていました。私はニッコリと笑って頷いただけです。彼女は顔を真っ赤にされておりました。
黒猫のシャルボンは良くお坊ちゃまの所に来ていました。鈍チンお坊ちゃまはシャルボンがアナ様だとは全然気づいておられない様子です。ハァー、特大のため息が出てきます。シャルボンは彼の膝の上で戯れたり、仲良く寄り添って昼寝をしたり、時には夜中もお坊ちゃまの寝室で一緒……これがアナ様だったら……と切に願わずにはいられませんでした。
人間と猫がいくらニャンニャンしても……人にはそれぞれ嗜好もありましょうが……侯爵家の当主が夜な夜な猫と
アナ様がどうして猫のシャルボンとの二重生活をなさっているのか事情は存じません。確かに、シャルボンと戯れるお坊ちゃまは微笑ましいですし、その頃からアナ様自身も少し明るくなられたような気が致しました。
さて季節は秋、収穫祭を迎えました。アナ様は御実家のボルデュック領に数日帰省されました。行きは弟君とお二人乗合馬車で、王都に帰ってくるときはお坊ちゃまが前回のように迎えに行かれました。今回は私が彼のお尻を蹴って追い出さずともご自分から向かわれました。
その後、お坊ちゃまは風邪で寝込んでしまった時にはアナ様が一晩つきっきりで看病されておりました。少しずつですが、このお二人の距離も縮まっているのでしょうか、そう願いたいものです。
お坊ちゃまの風邪も治ったある朝のことでした。毎朝侍女が起こすまでもなく、ご自分で身支度をされ、お坊ちゃまよりずっと早く出掛けられるアナ様がいつまでたっても起きてこられないのです。私がお坊ちゃまを起こす時間になってしまいました。
もしかして、もしかして、お二人御結婚以来初めて同室でお休みになったとか? だとしたらお赤飯を炊いて『壁ぶち抜き隊』の架空隊員全員で盛大にお祝いすべきことでございます!
焦る気持ちを押さえながらお坊ちゃまの部屋の扉をそっと叩きます。まだお休みなのか、それとも朝からもう一戦交えておいでなのか……コホン、お邪魔はしたくありませんが、そろそろお二人共お起きにならないとお仕事や学院に遅れてしまいます!
「旦那様、そろそろお起き下さい」
「ああ、セブか。今起きる。入れ」
寝台の上にはお坊ちゃまがお一人座っておられるだけで部屋の中にはアナ様の影も形もありません……急いでアナ様の部屋を侍女の一人に確認させ、寝台も使われた形跡もないとの報告を受けた私はお坊ちゃまに尋ねました。
「出て行った……」
何ですと! 出ていくって何ですか? もしかして……
『実家に帰らせていただきます! もうこんな仮面夫婦状態耐えられません!』
アナ様がキレてお坊ちゃまを遂に見放したということでしょうか。私に問い詰められたお坊ちゃまは何だか歯切れも悪くごにょごにょと答えます。
「いや、昨晩ちょっと喧嘩して……」
そんなわけございません。喧嘩ですと? 私にそんな見え透いた嘘を……だいたいお二人は喧嘩をされるほど親密ではありません。お二人の事情がどうであれ、ここでアナ様に見放されてしまっては駄目だという事だけは確かです。
何としてでもお坊ちゃまにはアナ様を連れ戻していただかねば! ということで彼を思いっきり叱りつけてしまいました。何だか後ろめたいことがあるようでございます。
その日、私は仕事どころではありませんでした。とりあえず料理長のグレッグにアナ様の大好きな焼き菓子を作らせました。圧力をかけるつもりはありませんでしたが、彼には思わず言ってしまいました。
「『グレッグの料理が毎日いただけるだけでもルクレール家に嫁いだ甲斐がありました。それにこんなほっぺが落ちそうな極上の焼き菓子まで……あんな横暴な旦那さまでも妻として我慢できますわ』と奥様に言わしめるようなりんごの焼き菓子を、ルクレール侯爵家料理長の首をかけて焼きなさい」
流石のグレッグも眼を丸くしておりました。
さて、午後早めに馬で帰宅されたお坊ちゃまは朝とは何だか意気込みが違いました。
「必ず、必ず、奥様とご一緒にお帰り下さい、旦那様」
「分かってるって、セブ。どうせ俺一人スゴスゴ戻って来ても敷居を
「その通りでございます」
「猿ぐつわかまして手足縛ってでも連れ帰るからな」
「拉致監禁は犯罪でございますが」
「そういうプレイだってことで」
「確かに、犯罪者というより旦那様ならただの変態になりすませられますね」
「とにかく今お前と漫才やってる暇はねえ。じゃあな」
「やはりそういう嗜好がおありだったのですね。でもまあ、異種間○○よりはましです」
「は? 今何て言った? とにかく、そんな楽しい話してる場合じゃねえって言ってんだろ!」
そしてグレッグの渾身の焼き菓子を持ち、馬車に乗り換えて焦ってお出掛けになりました。
その夜、お二人揃ってお帰りになった時は不覚にも涙が出そうになりました。しかも今までお二人の間にあったぎこちなさ、よそよそしさがもう見られません。手を繋いだり、腰を引き寄せたり、そんなことはなさっていませんでしたが、雰囲気が以前とは全然違うのです。
そしてお二人は初めてその夜、お坊ちゃまの寝室でご一緒に休まれたようです。私はホッと胸をなでおろしたのでした。私の『壁ぶち抜き隊』は即解散、グレッグにはこっそり賄いに赤飯を炊くように指示致しました。
それ以降はずっとお二人仲睦まじくしておいでです。しかし『アナたぁん』『ジェレたん♡』ではなく、やはりどちらかと言うと『御主人様と呼べ!』『ご主人さまぁ♡』でございました。
そして御夫婦は次々と三人のお子様にも恵まれました。この可愛らしいお子様達のお陰でルクレール家は随分と賑やかになりました。私もやっと肩の荷が下り、役目を終えたような気が致しました。今はゆうゆうのんびり隠居ライフを計画中でございます。
「セバスチャン!」
「シェバシュチャーン!」
「シェブ!」
今日も可愛らしいお声がお屋敷や庭に響いています。
――― 執事 完 ―――
***ひとこと***
大変お疲れ様でした、セバスチャン。
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