第五十一条 嗜好

 シャルボンから元の姿に戻ったアナは馬車の中でジェレミーの膝の上に横座りしており、彼の腕の中に囚われている。


「まあ、でも俺最初はシャルボンに助けてもらったんだよな」


「私、シャルボンとしてなら旦那さまにお会いできるのが嬉しくて……今まで秘密にしていて申し訳ありませんでした……」


「いや、これも全て俺が不甲斐なかったせいだ。お前が遠慮して、猫にならないと俺の部屋に来られなかったなんてなあ」


 アナはジェレミーの両腕にきつく抱きしめられた。


「シャルボンは旦那さまに抱っこされたり撫でてもらったりするのが大好きでした。これからも時々シャルボンになって旦那さまの所へ参ってもよろしいですか?」


「いいけど今更何で?」


「使用人の前でも旦那さまにベタベタ出来るからです! セバスチャンの前では少々恥ずかしいですけれども。だって彼はシャルボンの正体を知っていますから」


「なんでセブが知ってんだよ!」


「ある日気付かれました。シャルボンが『奥様にそっくりな目をした黒猫さん?』と話しかられて」


「お前らグルになって俺のこと陰であざ笑っていたんだな!」


「違います! アナの時にセバスチャンとその話題をしたことはございませんから」


「……まあ、全て俺のせいだ。すまなかった。俺こう見えてもお前に償おうと必死なんだけど」


 ジェレミーはそっと頭をアナの胸に預けた。


「旦那さま、これからいくらでも時間はありますよ。それに私は今もう既に十分幸せでございます」


「ああ」


「あの、もうそろそろ離してくださいますか?」


「嫌だ」


 そしてアナは益々強く抱きしめられる。


「だって御者のヒューに見られてしまいます。私恥ずかしいです」


 そこでジェレミーは顔を上げてニヤニヤしながらアナを見た。


「恥ずかしがるお前を見るの、俺好きなんだよなぁ」


「えっ?(つい先程まで殊勝な態度だったのに、この方は!)」


 ということでアナは未だに馬車の中でジェレミーの膝の上で彼の腕の中である。


「それにしてもさぁ、シャルボンは俺がタジタジするくらい積極的なのに、アナはなんで二人っきりでもベタベタするのを恥ずかしがるのはなんでだろうなぁ?」


「えっと……それは、アナには以前は侯爵令嬢、今は侯爵夫人という肩書がついてまわっているので、変幻して平民のニッキーや猫のシャルボンの時は解放感を感じられるのです」


「何だよ、それ? アナが猫被ってんのか? それよりさ、何だか久しぶりにニッキーに会いたくなった」


「丁度一年前の今頃でしたね。ニッキーが酔っ払い客に絡まれて、旦那さまに助けて頂いたのは。そして初めて口付けされて……」


 アナは頬を少し赤く染めて言った。


「ああ、そんなこともあったな。なあ屋敷に帰ったらニッキーの姿になってピアノ弾いてくれよ」


「使用人たちがニッキーを見てどう思いますでしょうか……」


「奴らにニッキーの姿なんて見せるか。扉は閉めておくに決まってるだろ。あ、そうだ。いいこと思いついたぞ」


 アナはジェレミーの表情から少し嫌な予感がした。こういう時彼の言う『いいこと』とは絶対良からぬことなのだ。


「今度ニッキーの姿でヤらせろよ」


 やっぱりだった。アナは少しの間黙ってしまった。


(なんなんだ、この沈黙は)


「……あの、旦那さまは男の子のニッキーとなさりたいのですか?」


 アナは思わずジェレミーの膝から下りて彼の向かいに座った。


(オイ、そこかよ!)


「ニッキーは少年の振りをしていただけで、体まで完全に男の子に変幻していたわけではないのですが……」


「そんなの大分前からうすうす気付いてた。それに最後にニッキーに会った時抱きしめたろ、その時の感覚でコイツ小さいながら胸ありそうだし、ブツも付いてなさそうだからやっぱり女かなって」


「な、な……ニッキーは旦那さまのお申し出を受けることが出来ないからもうこれでお別れだと悲しみでいっぱいだった時に、旦那さまはそんなことを……」


「だって、あれだけ密着したら当たるから分かるだろ」


「……旦那さまがその、男の子の方がよろしいのでしたら……今度、クロードさまに完全な男性の体に変幻できるか聞いてみます! 私、きちんと変幻できるか自信ないですし、細部までちゃんと機能するような、そんな高度な術は学んでないのです」


「頼むからそれだけは止めてくれ」


「では、ビアンカさまに」


「なおさら止めてくれ。ひょっとアメリや姉上に知られるのは非常にヤバい」


「アナは旦那さまを悦ばせて差し上げたいだけなのです……」


 そう言って彼を見たアナの表情にジェレミーは不覚にもドキッとした。


(この場で即押し倒されたくて言ってんの、この人? 無自覚なんだろうな……余計たちが悪い……)


「いいか、俺はただ俺が出会ったニッキーがいいんだよ。ブツがついてようがいまいが、穴が何個あろうが関係ない! そのままのニッキーとサせろ!」


「ジェレミー・ルクレール侯爵、ど、どうしてそのようなはしたないことを大きな声で……ヒューに聞こえてしまいます……」


「うちの使用人はセブに完璧に教育されていて口が堅い」


「そういう問題ではないですし、だって私恥ずかしいのです」


「分かった、分かった。そうねるなって」


「ではあの、この機会に私の方からも旦那さまにお願いがあるのですが……」


「何だ?」


「旦那さまがニッキーとなさりたいのでしたら……私は近衛の白い正装姿の旦那さまに是非お手合わせしていただきたいのです……」


「お前、いじめられ体質の上に制服フェチだったのか?」


「ふぇち?」


「そう言えば、結婚式の俺の衣装は近衛正装じゃないとヤダってやたらゴネてたなー。俺の制服姿をオカズにしてんのか? まあお前なら許してやる」


「おかず? あの、正装に乗馬用の鞭をお持ちの旦那さまは特に……その素敵で……」


「萌えるのか? おい、マジかよ(この人目がイッちゃってるし……)」


 ジェレミーは流石に照れて赤くなった。


「燃える?」


「制服はともかく、こう見えても俺は鞭や蝋燭を使って痛めつける趣味はないからな。縄でちょっと縛るくらいならやってもいいが……」


「ろうそく? 縄? あの、アナは先程から旦那さまのおっしゃることが良く分からないのですが……」


「まあ追々教えてやるさ。それに帰ったら本貸してやる」


「旦那さまは色々物知りでいらっしゃいますね」


 アナにそこまで敬意を表されて、ジェレミーは呆れた。


「はあ? こんなことで感心されるのはお前が初めてだし、全然嬉しくねえし」




 そして帰宅してからジェレミーは昔のミラ王妃の部屋から何冊か本を持って来て、アナに渡したのだった。彼はそのうちの一冊『淑女と紳士の心得』という題名の本を指差した。


「超初心者のお前はこれから読み始めろ。勉強の合間の息抜きくらいにはなるだろ」


 普通の礼儀作法の本だと思っていたアナである。後日ふと気軽に開き、挿絵が目に入ったアナは悲鳴を上げて卒倒しそうになった。作法にはまあ違いないが、ねやでの技術を磨くための本だったのだ。


 第一章は女性の純潔を損なわないで楽しむ方法、第二章は基本的には何でもありで、女性が身籠らないようにする方法などもあった。第三章は紳士と紳士バージョン、第四章はなんと淑女と淑女である。


「こういう意味の心得なのね……よ、良かった。お昼休みにでも読もうと学院に持って行かなくて……また周りに笑われて揶揄からかわれるところだったわ……」



***ひとこと***

ここでも出てきました。王都庶民の間で広く読まれている指南本『淑女と紳士の心得』、やはり王妃さまの蔵書のようです。

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