第五十条 報告

 夫の躾けは最初が肝心、と母親が常に言っていたのをアナは良く覚えている。


『私が嫁いできた当初から好きなようにさせて甘やかしていたから……いつまでたってもお父さまはこんな頼りない人のままで……』


 なんて呆れて言っていた割に母はいつも父をたてて尊敬していた。両親が深く愛し合っていたのは幼いアナにも良く分かった。だからこそ母が亡くなってからしばらく父親は抜け殻のようになってしまったのだ。


 その母の言葉をふと思い出したアナはジェレミーに一つ頼みごとをすることにした。


(お母さま、最初が大事なのですよね、夫婦は)


「旦那さま、お願いがあるのです」


「言ってみろ」


「次の朝学院がある夜はお手合わせを一度だけにしていただけますか?」


「却下」


「そ、そんな……」


「もっと体力つけろ」


「急には無理です! 昨晩眠りについたのも遅くて、ただでさえ最近は疲れが溜まっていて……今日は授業中も眠くてたまらず、周りには新婚だから、と揶揄からかわれますし」


 一応アナも魔術科の同期と少しずつ仲良くなれてきたのはいいのだが……


「ただのひがみだ、それは。勝手に言わせておけ」


「別に私もそれだけなら気にも留めません! 今朝はクロードさまの大事な授業だったのに、その最中に教室中がザワザワしていたのを教授にとがめられてしまったのです」


「へぇ」


「クラスで一緒の一人の『教授、新婚のルクレールさんは最近やたらお疲れのようなのですよ!』という言葉に、クロードさまは『ほう? 彼女の夫のジェレミーには俺も婚約中から散々揶揄からかわれてきたからな。もっと言ってやれ、許す』などとおっしゃって皆が大爆笑しだして……」


「学院生活楽しそうでいいじゃないか」


「よくありません! クロードさまを冷やかしていたのは私ではございません。ビアンカさまとご婚約された頃はまだ私たち出会ってもおりませんでしたよね。どうして私が……」


「いやだってさ、以前のクロードのことお前知らないだろ? ビアンカさんと出会ってからのあいつの変わりようと言ったらそりゃあもう、面白くって。っておい、ちょっと機嫌直せよ」


「とにかく、私は毎朝万全の体調で授業に臨みたいのです」


「分かった、分かった。今晩は一発だけにしておいてやる」


「……(今晩はって翌晩以降は?)」




 ある日の午後、アナとジェレミーは二人でイザベルの飲み屋を訪ねた。誤解が解けたことの報告のためである。店に着く少し手前、馬車の中でアナはジェレミーに言った。


「懐かしいです。アナが旦那さまに最初に声を掛けたのがここで、ニッキーが旦那さまと別れたのもここですね」


「そうだな。それにしてもニッキーの逃げ足はやたら速かったよなあ、おい」


 ジェレミーはアナの頬をムニムニとつまみながらそう言った。ニッキーが魔法を使って消えたことを知っていてのことである。




 イザベルは二人の来訪を殊の外喜んでくれた。


「ほらね、奥さま、上手くいくって申し上げたでしょう」


「だいたいコイツ一人で事をややこしくしやがって」


「最後の最後までお分かりにならなかった中佐さまもかなり鈍いですわよね」


「イザベルさんはニッキーを一目見ただけでお分かりだったのに」


「そうですよねえ」


「何だよ、どいつもこいつも俺だけが悪いような言い方しやがって。イザもゴダンの奴も恐ろしく口が堅いしなあ、全く」


 アナはくすくすと笑った。あの後、戸惑い気味のフランシスから恐る恐る聞かれたのである。


『やたらテンパったルクレール中佐にニッキーのことを尋ねられたのだけど……君達夫婦一体どうなってるの?』


 フランシスは丁度同じ日にアナが夫婦喧嘩という名目でゴダン家に戻ってきていたことも後から知ったのである。




「時々ニッキーに戻ってピアノを弾きにいらっしゃいませんか、奥様?」


「悪いな、イザ。ニッキーはもう酔っ払いの為には弾かない」


「ニッキーのピアノが聴けなくなって寂しいのです。夫婦喧嘩したり、横暴な中佐さまに振り回されたりしたらいつでもいらして下さいませ、奥さま。こっそりニッキーになって」


「はい、そうします」


「いいえ、しませんー。だから、喧嘩もしないし、そんなことは起こらないって」


「分かりませんわ。でも、中佐さまも、もうしょっちゅうここへ飲みにいらしてはいけませんわよ」


「言われなくても分かってる」


「イザベルさん、本当にありがとうございました」


 イザベルは仲良く寄り添って店を出ていく二人を暖かい眼差しで見送った。


「旦那さま、もう飲みに行かれてもお酒はほどほどにして下さいませ」


「はいはい、奥様」


 そして彼女は一人呟いた。


「サヴァンさまの次はルクレールさまがいいご縁に恵まれて。次はどなたかしらね」




 その帰り、二人は馬車に揺られていた。御者の「あっ、コラッ!」と言う声と共に馬車が急停止した。馬がいなないている。


「どうした、ヒュー?」


 ジェレミーは前の窓を開けて御者のヒューに聞いた。


「申し訳ございません、旦那様。たった今、前に黒猫が急に現れて馬が驚きました。幸いすぐに居なくなりましたが」


「黒猫? おい、もしかして瞳は碧くなかったか?」


 アナはハッとした。ジェレミーは風邪を引いて寝込んで以来、シャルボンの姿を見ていなかったのである。仲直り後アナはジェレミーとずっと一緒だったのでシャルボンになって彼に会いに行く必要もなかったし、すっかり忘れてしまっていた。


「旦那様のあの黒猫でございますか? 一瞬のことだったので、眼の色までは……」


「そうか。まだ近くにいるかもしれないな、もしシャルボンだったら俺が呼んだらすぐ来るからちょっと降りて探してくる。ここで待っていてくれるか? アナお前も待ってろ。すぐ戻ってくる」


 アナは少々焦った。このままシャルボンは居なくなったことにするわけにもいかないだろう。それにもうこれ以上夫婦間に秘密を抱えたままにしなくてもいいのだ。


「旦那さま、シャルボンは探しに行かなくてもよろしいのです。だって……ここに居りますから」


「何? お前は知らないだろうが、俺アイツのこと大層可愛がっていたから……」


 そこでジェレミーがアナの方を振り向くと同時にポンッという音がし、アナが黒猫シャルボンに変幻したのである。


「ニャーン!(だって私がシャルボンなのですもの!)」


「ギャッ! お、お前!」


「ニャンニャン!(ジェレミーさま、お久しぶりです!)」


「旦那様? どうなされました?」


「い、いや何でもない。ヒュー、やっぱり降りないから馬車を出してくれ。」


 そして馬車は再び進み出し、ジェレミーはシャルボンを抱き上げて自分の顔の前に持ってきた。


「おい! お前ニッキーとシャルボン以外には他に何に化けているんだ?」


「ニャニャニャン!(何も、もう他の顔は持っておりません!)」


「本当か? まだ他に俺に隠し事してないだろうな?」


 シャルボンは首を横に振った。


「なんかさ、シャルボンお前、すり寄って来る度に必要以上に俺の手や顔は舐めまくるし、体中まさぐるしさ、俺は猫に貞操を奪われるんじゃないかって気がしていたんだよなー」


「ニャニャニャント!(そ、それは誤解、濡れ衣でございますぅ! 私そのような不埒な考えは……全くなかったとは言い切れませんけども……)」


「俺が寝ている間に絶対何か悪さしていただろ! なあ、吐け!」


 そこでジェレミーは膝の上でシャルボンの脇腹をくすぐり始めた。


「ニャンニャン!(イヤ、くすぐったいです……キャー、何もしてないことはないですが……唇にキスとか、それに……あん、もうダメェ!)」


 くすぐったさにこらえきれず、シャルボンはジェレミーの膝の上でアナの姿に戻った。ジェレミーは彼女の両頬をムニュとつまみ、詰問の手は緩めなかった。


「お前、他には本当に俺に隠し事はないんだな?」


「あいまふぇん……しゅみましぇん……」




***ひとこと***

シャルボン、久しぶりの登場ニャのでした。やっぱり正体はバレていませんでした。

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