第四十九条 変更

 その夜、心配でオロオロしていたセバスチャンは涙を流さんばかりにアナの帰宅を喜んだ。


「おお、奥様、こんな旦那様でもお見捨てにならず、良くお帰り下さいました……ありがとうございます」


 どうやらゴダン家だけでなくここルクレール家でも夫婦喧嘩の末にアナが自ら出て行ったことになっているらしい。ジェレミーは少々気まずそうにしている。


「まあ、セバスチャン、安心して下さい。旦那さまに出て行けって言われない限り、もう屋敷を飛び出したりいたしませんよ」


「奥様、私の目の黒いうちは旦那様にそんな事を決して言わせません!」


「おい、セブ!」




 そしてその後はジェレミーの言った通り『二回戦』に突入し、再び彼にいじめられたアナだった。そのまま疲れ果てて寝落ちしてしまったアナは、翌朝寝坊してしまった。目が覚めた時にはジェレミーの寝室に一人で、朝食を食べる時間もないくらいの時刻だったのでアナは慌てた。


 急いで自室に戻り、大急ぎで服を着ている時に侍女がやってきた。


「まあ奥さま、もうお着替えされたのですね。旦那さまがぎりぎりまでお休みさせて差し上げろとおっしゃいました。後で奥さまを学院へ送って行かれるそうですよ。今御髪を結いましょう」


 アナは泣きそうだった。今朝は朝一番に大事な授業があるというのに、遅刻するかもしれない。そうでなくても最近はよく眠れなくて授業中に注意力散漫になりがちだった。


 そう言えば昨晩は久しぶりに寝坊するほど良く眠れたのは散々ジェレミーに疲れさせられたからだ……髪を結ってもらいながらアナは頬を赤く染めた。




 アナは急いで階下に降りていき、コーヒーを一杯だけ飲んで出かけようとしていると、玄関前でセバスチャンとジェレミーが言い合っているのが聞こえてきた。


「旦那様、何をお考えなのですか! 今日はこんなに肌寒いのに奥様を送って行かれるなら馬車になさって下さい!」


「だって馬の方が速いだろ」


「馬車ならそう寒くないですし、移動中に奥様も軽食を召し上がることができます」


「分かった、分かった。じゃあそうする。おいアナ、準備できたか? 行くぞ」


「はい。お早うございます。旦那さま、セバスチャン」


 見送るセバスチャンの笑顔がいつもの二割増しに見えたが、それはアナの気のせいではなかった。


「行ってらっしゃいませ」


 セバスチャンは二人が仲直りしただけでなく、初めて朝まで一緒の寝室で休んだことを大層喜んでいたのだ。その上、ジェレミーはアナを学院まで送っていくと言った。




 馬車の中でアナはパンと果物、水筒に入ったコーヒーの軽食をとった。それをジェレミーは無言で満足そうに見つめていた。


 アナは昨夜のことが思い出されて、恥ずかしくてまともにジェレミーの顔が見られない。ふとジェレミーが騎士服ではなくて普段着のシャツとズボンなのに気付いた。


「旦那さま、今日はそのお召し物でお仕事なのですか? 稽古をつけるだけなのですか?」


「いや、俺は今日休みだ」


 ジェレミーは休みなのにわざわざ早起きして遅刻しそうな彼女のために馬車を出してくれた。しかも、彼はついて来ずとも御者だけで充分なのに、である。


「送って下さってありがとうございます。何とか遅刻せずにすみそうです。朝食もいただけましたし」


「ああ。午後の授業が終わる頃に迎えに来る」


 実はこう見えてもジェレミーは、昨晩初めてのアナに無理をさせたことを気にかけていたのだった。


 アナの方は、ジェレミーが休みの日でも授業の後学院の図書館で時間を潰さなくて良くなったのだ、と幸せをかみしめていた。そこで馬車が学院に着いた。


「ありがとうございます。では、行って参ります」


 アナが馬車を降りようとしたところ、ジェレミーが彼女の名前を呼んだ。


「アナ」


 そして振り向いたら手を引かれ、唇に軽くキスをされた。結婚して三か月ちょっと、こんな甘い雰囲気のジェレミーに行ってきますと言うのも、そんなキスも何もかもが初めてだった。




 その日の午後、学院に迎えに来たジェレミーと帰宅したアナは彼と一緒に書斎に入る。


「今日これを書き直しておいた」


 そこでアナは見せられた書類に目を通して吹き出してしまった。あの契約書だった。


 借金の返済や利子については


『別にチャラにしてやってもいいが、どうしてもそれじゃ気が済まないと言うなら、無利子無期限で返してくれてもいい』


となった。


 契約破棄、終了、書き換えについては


『二人の権利を同等にして、双方の合意で行う。でも破棄も終了もまあないと思うけど』


と変えられた。


 そしてその他の不必要になった項目にはただ線で消されていただけだった。


「何が可笑しい」


「旦那さまは文章を書くのが苦手でいらっしゃるのですね。うすうす存じてはおりましたけれど」


「当たり前だろ、俺は文官じゃない」


 アナは微笑みながらその書類に署名をし、ジェレミーの緑色の眼を見つめて言った。


「これからも私はずっと旦那さまのお側に居られるのですね」


「もちろんだ。今までニッキーのことばかり考えていて、アナの気持ちを知らなかったとはいえ、その、俺は最低だったな。悪かった」


「旦那さまはいつも威張り散らしていて横柄な態度ですけれど、一旦ご自分の非を認めると、潔くすぐお謝りになりますよね。なかなか出来ないことだと思います」


「お前、褒めてんのか? それともけなしてんのか?」


「両方ですよ。正直申しますと、とても苦しゅうございました。旦那さまのことを好きになってからずっと。でも、今信じられないくらい幸せだからいいのです」


「ああ。お前にはつらい思いばかりさせてしまった。それで、えっとだな……順序が全て逆になってしまったが」


 ジェレミーはうやうやしくアナの前にひざまずいた。


「アナ=ニコル・ボルデュック嬢、改めて正式に貴女に求婚させて下さい。この私に貴女の夫と名乗る栄誉をお与えください。」


「…………」


 ジェレミーはアナがなかなか返事をしないのでしびれを切らしてしまう。


「…………」


「おーい、アナ=ニコルさんよ? どーしたんですかぁ? ここまでさせといて『お断りします』ってのはなしだぜ! もうヤッたし、それに契約違反だろ!」


(ジェレミーさまが跪いて、私のことをフルネームで呼んで、かしこまって求婚を……これは夢なのかしら……近衛の制服のジェレミーさまだったらもっと素敵だったでしょうに。あ、でも普段のお召し物でも十分だわ。だって正装だったらあまりに刺激が強すぎて私、再起不能になってしばらく寝込んでしまいそうですもの)


 アナは自分の前に跪くジェレミーを見て固まっているようである。


「おーい!」


「あっ、ハイ! あの、貴方さまの妻でいられるなんて本当に私は王国一の幸せ者です……」


 我に返ったアナはジェレミーの手を取りながら感極まって涙ぐんでしまった。そんな彼女をジェレミーは立ち上がって優しく抱きしめる。


「なあ、結婚式、一生に一度のことなのにお互いボロボロの状態で俺は終始ニコリともしなかったし……仕切り治すか?」


「式の時に私たちの気持ちがすれ違っていたのはしょうがありませんわ。そもそも契約から始まった結婚なのですから」


「それはそうだけどさ」


「でも、私は美しい花嫁衣装も着られて、正装姿の旦那さまの隣で愛を誓えて良かったと思っているのです。二人でダンスを踊ることも出来ましたし、晩餐会では旦那さまはずっと一緒にそばに居て下さって、嫌がらせもされませんでした」


「でもやっぱりな、もっといい思い出にしたかっただろ?」


「では、思い出作りでしたら、以前お義母さまがおっしゃったようにルクレールの領地に連れて行って下さいますか? 私、新婚旅行とやらに行ってみたいのです」


「じゃあ、春になって暖かくなってから行こう。ボルデュック領にも寄るか?」


「ルクレール領とは反対方向ですわ」


「構わないさ」



***ひとこと***

乙女憧れのシチュエーション、ひざまずいて求婚です。今更ですけれどね!

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