第四十七条 激白
アナは学院の授業もほとんど頭に入ってこず、今日はしょうがないと諦めてゴダン家に帰宅した。勉強も手につかないし、どうしようと思いながら二階に上がろうとしてふと居間のピアノが目に留まった。
そう言えばピアノもしばらく弾いてなかった。ルクレール家のピアノはジェレミーがニッキーの為に離れに運んで、と言っていたのを聞いてからはアナが触ってはいけないような気がしていたからである。
アナはピアノの蓋を開け、ニッキーがジェレミーに最初にリクエストされた曲を弾いてみた。指の動きが少しなまってしまっていたが、感覚は良く覚えている。
それから次々とジェレミーが好きだと言っていた曲などを弾いた。
ニッキーに向けられていた彼の優しい眼差しは今も鮮明に覚えている。大丈夫、私はこれからも頑張っていけるわ、とアナは自分を励ました。そして次はニッキーが自ら編曲したジェレミーが好きな曲だけを合わせたメドレーを弾き始めた。彼が来店している時に度々演奏していたのだ。
その時、ゴダン家の執事は来訪者を玄関で迎え入れていた。
「はい、こちらにおられます」
「ピアノを弾いているのか」
「こちらの応接室へどうぞ。ただ今お呼びして参ります」
「その必要はない。ピアノは居間だな、私が行く」
「しかし、閣下……」
「いいから、通せ」
執事も主人のゴダン伯爵よりも格上の客人にそう言われると、引き留めるわけにもいかなかった。その間にもその客はずかずかとピアノの音が聞こえてくる方へ歩いて行っていた。そして扉が開け放されている居間へ入り、立ったまま壁にもたれてアナの弾くピアノを聴いた。
彼女は一心に弾いており、訪問者にはまだ気付いていなかった。そして曲が終わりため息をついたアナの耳に背後から拍手が聞こえてきた。
振り返ると、それは彼女がたった今まで考えていた張本人だった。離縁状に署名が必要なのだろうとアナは思った。それにしては用意が早すぎるし、ジェレミー自ら持ってこなくても使いを寄こせばいいだけだ。そして挨拶をしようと彼女は恐る恐る立ち上がった。
「何でお前がその曲弾けんの?」
そう言えばこの曲はニッキー以外に弾けなかった。アナは動揺してしまった。初めて『アンタ』ではなく、ジェレミーがニッキーを呼んでいたように『お前』と呼ばれたのにも気付かなかった。
(ああ、ついにニッキーの正体がばれてしまったわ)
壁にもたれかかっているジェレミーは無表情で、アナは何の感情も読み取れなかった。風邪で寝込んでいた時からずっと剃っていない、無精ひげのジェレミーでも美しいと思ってしまうアナだった。
(このお方とたった数か月でも夫婦だったのは奇跡ね……形式だけの結婚でも、ジェレミーさまのお側に居られて……幸せだったわ)
アナはジェレミーを見つめて言った。
「ルクレールさまのことが好きでした、大好きでした。アナとしてもニッキーとしても」
後で後悔しないためにもこれだけは言っておきたかった。アナはほっと安堵のため息をついた。
「ああ、やっと言えました。良かった」
ジェレミーは無表情のままアナの方へ歩いて来た。しかし彼は手に何も持っていない。離縁状に署名するのではないのだろうか……
「お前な、何で過去形にして一人で完結してんの?」
彼はアナの両頬を軽くつまみ左右に引っ張った。
「わって、これれおうおわいわと……(だって、これでもう終わりだと)」
アナがもごもごと言うなり、ジェレミーにきつく抱きしめられた。
「頼むアナ、お前まで俺を置いて居なくならないでくれ。愛してるんだ。アナもニッキーも」
愛しい人の腕の中で彼の告白を聞いて、アナは信じられない思いだった。そして彼の胸で泣き出してしまった。実に初めてアナがジェレミーの前で見せる涙だった。
「うっうっ、はい……わ、私もです。旦那さまのことが好きです。愛しています。本当は現在進行形です。これからもずっとです。未来形もです」
「大体お前な、最初から私がニッキーですって言ってれば俺たちこんな遠回りしなくて済んだんだぞ! 確かに気付かない俺も悪いけどな。そう言われてみれば本当だ、お前ニッキーと同じ匂いがする」
ジェレミーは先程からアナの髪や首筋を嗅ぎまわっている。
「に、匂いって? ニッキーも私もお風呂はきちんと入っています!」
「俺の最近の葛藤は何だったんだよ、一体。ニッキーが出てくる淫らな夢を見てもさ、最後にはそれがアナに変わってしまっていつもそこで目が覚めるし」
「はい?」
「俺はニッキーのことが好きな筈なのにアナにも惹かれていく自分に戸惑って……自分が卑怯で不誠実な人間に思えてきて、いつまでも借金のせいで俺に縛られているアナにも普通に幸せになって欲しかった」
アナは新たに涙を流し始めた。
「それで契約破棄を言い出されたのですか?」
「ああ。破棄は中止、契約は大幅に書き直しだ。でもそれはとりあえず置いといて……今までの遅れを取り戻すぞ」
そしてジェレミーはアナの唇に軽くキスすると、いきなりしゃがんで彼女の両脚を持ち、肩の上に担ぎ上げた。
「きゃ! 旦那さま!」
そしてジェレミーはアナをじゃがいもの袋のように担いだまま居間を出て、階段を上り始めた。
「お前の部屋、何処?」
「二階の廊下の突き当りですけども……お、下ろしてくださいませ!」
「暴れるな、落ちるぞ」
アナは涙も引っ込んで慌てていた。ゴダン家の使用人たちに見られていると思うと、羞恥心でいっぱいだった。
「ニッキーとお前のせいで欲求不満が溜まりまくってるんだ。覚悟しておけよ」
「は、はい?」
***ひとこと***
前話の終わりに「ただじゃおかない」と言っていたのはこういうことでした。それでもジェレミーさま、そこは他人様のお宅では……
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