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第四十六条 正体

 アナが昨晩出て行ったと知ったセバスチャンはジェレミーに詰め寄り問いただした。


「出ていかれたと? どういう事でございますか、旦那様!?」


「いや、昨晩ちょっと喧嘩して……」


 ジェレミーはあまりのセバスチャンの剣幕にひるんでしまい、本当のことが言えない。思わずごまかしてしまった。


「何ですと! 旦那様! では奥様はゴダン家にお戻りに?」


「た、多分」


「すぐに謝りに行って下さいませ! 夫婦喧嘩の末、奥様を追い出すとはなんて事ですか!」


 ただの喧嘩と嘘をついただけでもこの言われようである、実は離縁したなどと本当のことを言おうものなら殺されかねない……とジェレミーは身震いした。


「喧嘩って言っただけだろ、セブ。どうして俺が悪いってすぐ決めつけてんだよ」


「旦那様にはもったいなさすぎるくらい出来た奥様に非があるわけございません!」


「何だよ、それ。酷くないか?」


「百歩、いえ千歩譲って奥様に責任があるとしてでもですよ、ここは夫の側が折れて仲直りするのが夫婦円満の秘訣でございます!」


 そこでセバスチャンは少し考えてまた口を開いた。


「今日奥様はゴダン家から学院へ行かれるのでしょうね。旦那様、お仕事の後はすぐに帰ってきてくださいませ。奥様がお好きなりんごの焼き菓子を作らせておきますから、それをお持ちになって、ゴダン家に必ず、必ずお迎えにお行きくださいね!」


「分かった、分かった」


 ジェレミーは真相がセバスチャンにばれる時のことを思うと身の危険を感じずにはいられなかった。




 そしてジェレミーは後ろめたい気分で出勤した。騎士団でフランシス・ゴダンを探したが、今日彼は王宮の護衛で遅出らしい。気が焦ったが昼過ぎまで待つしかない。


 ゴダン家に帰っているだろうアナのことをフランシスに責められるだろうか、などと思いながら過ごす時間はとてつもなく長く感じられた。




 一方アナも学院に行ったものの、授業など耳に入ってくるはずもなかった。


 昨夜はとりあえずゴダン家に戻り、伯父夫婦には何も聞かずしばらく置いてくれ、と頼んだ。弟のテオも不審がっていた。アナの悲愴な表情を見た彼らはぎこちないながらも、何も言わず暖かく受け入れてくれた。


 従兄のフランシスは数日遅番続きらしく、まだ顔を合わせていない。


 離縁の原因をアナが一人で非を被ると言っても、ゴダン家やテオも色々言われるだろう。これからどうするか何も考えが浮かばない。折角王都で出来た友人たちも全て失うことになる。それがアナにとっては何よりもつらかった。金貨をいくら積もうが友情は買えない。


 離縁が公になったら学院も続けられるかどうか分からない。いっそもうボルデュック領に戻ってしまおうか……色々な思いがアナの頭の中を駆け巡っていた。




 やっと昼過ぎになり、出勤したフランシスは何故か近衛のジェレミーに控え室で詰め寄られていた。フランシスはアナがゴダン家に出戻ってきたことをまだ知らないようで、ジェレミーは少しほっとしていた。


「イザベルの飲み屋に以前ニッキーってピアノ弾きがいたよな、お前の紹介だったそうじゃないか」


 フランシスはアナが婚約する少し前くらいだったか、改めてニッキーの正体は誰にも言わないでくれ、と頼まれていたのを思い出した。


 それからすぐ彼女はジェレミーと婚約、結婚し、飲み屋仕事も辞めたはずだからニッキーのことなどフランシスはすっかり忘れていた。ジェレミーとアナの出会いはあの飲み屋らしいから、彼は事情を全て知っているものだとばかり思っていたのである。


「はい、そうです。私が紹介いたしました」


「お前、ニッキーが今何処で何しているか教えてくれないか?」


「はい?」


 フランシスは激しく混乱した。


(いや、何処で何って……貴方の奥様に収まっていますが……)


「頼む、教えてくれ」


 彼にしては珍しく腰が低く、殊勝な態度である。義理の従兄弟と言えど親しいわけではなかったが、ジェレミーが頭を下げるなど異常事態だということは分かった。フランシスは何と答えていいやら迷った。


「飲み屋に行ってるか、お前? 八月終わりにニッキーは辞めてしまったんだよ。以前も春に居なくなったことがあったが、その時は一か月ちょっとで戻ってきたのに」


 アナが領地に帰っていた時と結婚してルクレール家に入ってからはニッキーが居なくなるのも当然だ、とフランシスは思った。


(アナは夫のルクレール中佐にも話していないのかな? だとしたら随分前とはいえ、口止めされている俺が勝手にばらすわけにもいかないか。それにしても中佐は何故ここまでニッキーにこだわっているのだろう……)


「私も何も存じません」


 ジェレミーは納得していない様子で、ずいっとフランシスに近付く。


「何でもいいから教えてくれ。ほんの些細なことでもいいから」


「中佐がどうしてそこまでニッキーをお気になさるのか存じませんが、私は何も……」


「そこを何とか」


 フランシスはジェレミーの思いつめた様子にたじろぎ、後ずさるが背中が壁にあたりもう逃げ場がない。


「私が申し上げられるのは……ニッキーは消えたわけではありません。彼女は意外と身近なところに居ます、ただそれだけです」


 そしてフランシスは失礼しますと頭を下げ、ジェレミーの脇を通り抜け、逃げるように去った。




 ジェレミーも随分と前からニッキーは女だろうと思っていた。そしてたった今フランシスは当たり前のように『彼女』と口を滑らせた。出会った頃は男の子だと信じていたからニッキーは『ニコラ』の愛称だと思い込んでいたが、女だったら……


「ニコルだ……アナ=ニコル……クソッ、俺の目は節穴か!」


 これで全てに辻褄が合う。今日ほど仕事が終わるのが待ち遠しい日は今までなかった。午後の稽古は同僚に無理矢理頼み込んで代わってもらい、ジェレミーは馬に飛び乗った。


「アナの奴、よくも今まで! ただじゃおかないからな!」



***ひとこと***

フランシス君、ジェレミーさまに壁ドンまでされそうな勢いで……キャー! ってこの回のハイライトはそこではなくて!


はい、ジェレミーさま。貴方の目は特大の節穴です!

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