第四十五条 決別

 契約破棄をして欲しいと言ったジェレミーの目を数秒間見つめ、アナは表情を変えず静かに答えた。


「分かりました」


 ジェレミーは怒っているようには見えず、ただすまなそうにしているだけである。


「俺の貴女に対する態度は褒められたものじゃなかった、特に最近。申し訳ないと思っている」


 アナのことを貴女と呼ぶなんて初めてである。アナは既に距離を置かれたようで少し寂しさを感じた。


「いいえ。ルクレールさまは私に十分良くして下さいました。私の家族にも敬意を持って接して下さいました。それに何よりも、お陰さまでボルデュック領は復興に向かっております。私はなるべく早く出ていきます」


 アナは思っていたよりも随分と早くやって来た終わりに悲しさはあったものの、ほっと安堵もしていた。


(ジェレミーさまのことを旦那さまとお呼びするのが好きだったわ。私が貴方の妻です、って気がして……)


 アナはジェレミーの側にもう居られなくなるが、これで彼の気が済むのならそれでいい。もともと何もかもが釣り合っていない夫婦だったのだ。アナはこれからもずっと彼の幸せを祈り続けるつもりだった。彼女が一方的にただ想っているだけなら契約違反でも何でもない。


「離縁の理由だが……」


「私の不貞ということにして下さいませ」


「それではいくら何でも……」


「ルクレール家の名誉をおとしめるわけにはまいりません。もともとこの茶番は私が言い出したことですし。ルクレールさまにとっては慈善事業みたいなもので、ボルデュック家の方にばかり有利な契約でございました」


「しかし……」


「離縁の時のことも契約成立時に決定しましたでしょう、その通りで良いと思われます」


「分かった」


 ジェレミーは少々拍子抜けした。離縁を言い渡したのに泣いてすがってくるわけでもなく、まるで夕食は何を食べるか決めるような口調である。


 確かに泣き喚かれても面倒だという気持ちだったジェレミーだが、あまりのアナの素っ気なさに自分との結婚はそれだけのものだったのか、と思わずにはいられなかった。アナは深く頭を下げて言った。


「今まで短い間でしたけれど大変お世話に……なりました。ル、ルクレールさまもお体に気をつけて……息災でいられますように」


 アナの声は少し震えていた。そう言い終わるとアナはジェレミーに背を向けて机の上に広げていた書物を片付けだす。彼女は別にジェレミーをただの金づると考えていたのでもなく、泣いて取り乱すのを潔しとしないだけなのだ、とジェレミーはやっと気付いた。


 そしてかえって何と言葉をかけていいか分からず、無言で部屋から出て行った。




 アナは荷物をまとめた。魔術書などの学問に必要なもの以外には特に持って行くものはなかった。以前の質素なドレスに着替え、婚約以後に仕立ててもらったドレスや買ってもらった宝飾品などは全て置いて行く。


 外はもうかなり寒く、夏にルクレール家に越してきたアナは自分の古い外套をゴダン家に置いてきており、この寒空の下に着て出ていくものがなかった。しかしアナ=ニコル・ボルデュックに戻る今、ジェレミーに買ってもらったものは靴下一枚でさえ持ち出すつもりはない。


 ただ、婚約中に初めて買ってもらったあのハート型の首飾りだけは持って行くことにした。


(これだけは私が持っていてもいいわよね。ジェレミーさまにしてみれば安価なものでしょうし、私に買って下さったことさえ覚えてないでしょうね)


 アナはそっとジェレミーの部屋の扉に一枚の紙切れをはさんだ。そしてアナは自室に戻って荷物を詰めた鞄を持ち、瞬間移動で消えた。




 ジェレミーはその頃イザベルの飲み屋に来ていた。何となく屋敷には居られなくて、外出したのである。一人カウンターで飲もうとし、ふと数か月ぶりに見るバーテンダーに声を掛けた。


「お前、久しぶりだな。でもここ結構長いよな。ピアノ弾きのニッキーのこと覚えているか?」


「はい、良く覚えております。辞めてしまって残念ですね」


「そのニッキーのこと、何か知らないか? 今何してるとか、どこに住んでいるかとか?」


「いいえ、私は存じません。店の者は多分誰も何も知らないと思います」


 ジェレミーも他の従業員に全てあたっていたが全滅だった。


「あ、そう言えば確か最初は騎士のフランシス・ゴダン様のご紹介で仕事を求めてやって来た、と聞きました」


 騎士団所属のアナの従兄だとジェレミーもすぐ分かった。仕事ではあまり話したことはないが、晩餐会や結婚式では顔を合わせている。


「そうか、ありがとう」


 ジェレミーはそのバーテンダーに少々の心付けを渡し、席を立った。


「あら、ルクレール中佐さま、久しぶりに来られたというのに今夜はもうお帰りですか?」


 来店時から心なしか、イザベルの態度が自分にだけ冷たいような気がしていた。


「イザ、何か俺に言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ?」


「ニッキーのこと、まだお探しなのですか?」


「何かお前に不都合が?」


「いいえ、何も。ただ、ここにしょっちゅう入り浸って飲んだくれていないで、身近な所にある幸せを大事になさったらどうです?」


「おい、それどういう意味だよ?」


「そのまんまの意味ですわ」


 イザベルは最後に一言吐き捨てるように言い他の客の所へ行ってしまった。


「なんだ、あいつ?」


 ジェレミーは居ても立ってもいられなかった。


(明日出勤したらゴダンに聞いてみよう)


 そう思いながらその夜はとりあえず帰宅した。




 そして翌朝ジェレミーは遠慮がちに扉を叩く音で目を覚ました。


「旦那様、そろそろお起き下さい」


「ああ、セブか。今起きる。入れ」


 部屋の扉を開けたセバスチャンは寝台に一人座っているジェレミーを認めると、少し怪訝な顔をした。侍女に起こされずとも、毎朝早く決まった時間に階下に降りてくるアナの姿をまだ見かけていなかったのである。


 いつもならアナはとっくに朝食を済ませている時間だった。そしてジェレミーが階下に降りてくる前に大抵学院に出かけてしまう。


 セバスチャンは結婚以来ずっと寝室を別にしている夫婦がやっと朝まで一緒に過ごしたのだろう、とほっと胸をなでおろしていたところだった。ところがジェレミーが部屋に一人ということは……


「旦那様、少々失礼致します。すぐに戻ります」


 セバスチャンは急いで侍女を呼び、アナの部屋を確かめるように言いつけてジェレミーの部屋に戻ろうとしたところ、その侍女に慌てて呼び止められた。


「セバスチャンさま、奥さまはお部屋にもいらっしゃいません! もう出かけられたのでしょうか? でも昨晩寝台を使われた様子もなくて……」


「旦那様にお尋ねしてみます」


 セバスチャンがジェレミーの部屋に戻ると、彼は部屋の真ん中につっ立ったまま小さい紙切れらしきものをぼうっと眺めていた。彼は昨晩帰宅した時にアナのその置き手紙には気付かず、たった今床に落ちているのを拾って読んだところだった。


『前侯爵夫妻をはじめ、ルクレール家の使用人の皆さまにも、何のご挨拶もなしに夜更けに出て行く無礼をお許しください』


 なるべく早く出ていく、と言ってはいたが昨夜のうちに出ていくとは思ってもいなかったジェレミーである。


「旦那様、奥様が屋敷の中何処にもいらっしゃいません! 何かご存じではありませんか?」


「出て行った……」



***ひとこと***

セバスチャンの期待も空振りどころか……

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