第四十四条 幻覚

 王都は冷え込むことが多くなり、だんだん冬の装いになってきた。今年も残りわずかである。アナは学院で初めての試験期間が迫り、勉強に励む日々を過ごしていた。そのためシャルボンとしてジェレミーの部屋に行く時間もあまりなくなっていた。


 ジェレミーとはあれからすれ違いのままである。屋敷で時々顔を合わせることがあったが、アナは努めて平常心を装い、少し微笑んで一言挨拶をするだけだった。


 アナは先日のことを自分が意識しすぎているせいだろうと思って、なるべくジェレミーと目を合わせないように頭を下げて彼の視界からさっさと立ち去るようにしていた。アナではねやの相手にもならないのだろうが、彼の前ではつゆほども気にしている様子は見せたくなかった。お飾りの妻としての意地だった。




 益々寒くなってきたある日、日頃の不養生がたたってジェレミーは熱を出して寝込んでしまう。アナは学院から帰宅して夕方セバスチャンから聞いた。昼過ぎに仕事を早退して熱で朦朧もうろうとなりながら帰宅したらしい。


「そう言えば旦那さまは最近特に元気がなさそうでしたものね……」


「昔からバカは風邪をひかないと申しますが、旦那さまは一旦病に伏せると何日も床から出られない程患ってしまわれるのです。鬼の霍乱とも申しますね」


 何気にひどいことをサラリと言ってのけたセバスチャンだった。アナは少し微笑んだ。


「お医者さまはなんとおっしゃったのですか?」


「ただの風邪だから暖かくして水分補給をしっかりとして休んでいれば大丈夫とのことでした。それから薬を出して下さいました。それを一日三回飲ませるように、と」


「そうですか。私、夜中に時々様子を見て氷嚢ひょうのうを替えましょう」


「よろしいのですか、奥様。明日も学院でございましょう?」


「セバスチャン、貴方にもお仕事があります。お互いさまです。昼間の旦那さまのお世話は貴方か他の方にお願いするしかないのですから」


「分かりました、奥様。何かありましたら遠慮なくお呼びつけ下さい」


 アナは二階に上がり、隣の部屋をそっと覗いてジェレミーが眠っているのを確認した。それから自室で急いで着替え、夕食を手早く済ませた。


 そしてまたジェレミーの部屋に様子を見に行った。この部屋に入るのは先日酔ったジェレミーに押し倒されて以来である。彼の額の汗を拭き、氷嚢を替えた。


「私もたまには妻らしいことをして差し上げたいのです、ジェレミーさま。今晩くらいはお側にいさせて下さいませ……」


 ジェレミーは眠っているから名前で呼んでも聞こえていないだろう。彼を切なく見つめながらそっとささやいた。


「それでも、弱っている貴方さまを見るのはなんだか不思議な気が致します」


 アナは自室から本を持って来て、ジェレミーの寝台脇で勉強しながら夜を更かした。時々、うとうとしながらもジェレミーの様子は常に気を付けていた。


「明日くらいには少し熱も引いて楽になるといいですね、ジェレミーさま」


 夜中の二、三時頃だろうか、ジェレミーが目を覚ましたようだった。


「お目覚めですか? 喉が渇いたでしょう、今お水を差し上げますね」


 アナが立ち上がって吸い飲みを手に取ろうとしたところ、ジェレミーに声を掛けられた。


「ニッキー? ニッキー、戻ってきたのか?」


 アナは思わず吸い飲みを落としそうになった。恐る恐る振り返ってみるとジェレミーはアナを見て微笑んだ。


「ニッキー、会いたかった……良かった」


(熱にうかされていらっしゃるのね……)


「あの、ジェレミーさま、水をお飲みになりますか?」


「ああ、ありがとう」


 ジェレミーは水を飲み干すとアナの手を引っ張り、彼女を寝台の上で抱き寄せた。


「頼む、もう何処にも行くな」


「はい……」


 はい、以外にどう答えていいか分からなかった。触れたジェレミーの体はまだまだ熱かった。


(こんなに熱があるのだから私のことが分からなくて当然ね)


「私はここに居ますから、しっかり休んで早く元気になって下さいね。さ、ちゃんと横になって、氷嚢をいま取り替えます」


「ニッキー、お前の手はひんやりして気持ちがいいな……」


 ジェレミーはアナの手を握りしめたまま微笑んで再び眠りに落ちて行った。アナは左手で彼の手を握り、右手で彼の髪をなでた。


「ジェレミーさま、早くよくなって下さい」


 そして身を乗り出して彼の頬にキスを落とした。


「これはニッキーの分」


 彼の唇にも軽くキスをした。


「これはアナの分です。ニッキーとは唇に何度かキスされていますけど、アナは結婚式の時にほんの一瞬だけされただけですから……いいですよね」


 何となく、これが彼との最後のキスになるような予感がし、アナは悲しそうにつぶやいた。


「ニッキーはもう居ませんけど、いつもジェレミーさまのことを想っておりますから」


 アナはそうしてジェレミーの手を握ったまましばらくうとうとしていたが、夜明け前には自室に戻った。朝出かける前にジェレミーがまだ眠っているのを確認して、朝食を済ませた。


 そしてセバスチャンにジェレミーの看病を頼み、学院へ向かった。




 しばらくしてジェレミーは目を覚ます。


「ニッキー?」


 熱でぼうっとしていたが覚えている。ジェレミーに水を飲ませ、手を握っていてくれたのはニッキーだ。思わず引き寄せて抱きしめた感覚もまだ残っている。そこへそっと扉を叩く音がした。


「旦那様、お目覚めですか?」


「ああ、セブ」


「少し熱もひいたようでよろしゅうございました」


「セブ、昨晩付きっきりで看病してくれていた、あの……」


「奥様ですか? 私には休め、とおっしゃいまして」


「は???」


「看病のせいであまり眠れず、お疲れの様子でしたが今朝早くに学院に行かれました」


「……」


 ジェレミーは呆然とした。確かに他人がいきなりジェレミーの寝室に夜遅くに入り込むわけはない。


(彼女を何度もニッキーと呼んだ挙句、俺は彼女に何をした? クソッ!)


 ジェレミーは激しく自己嫌悪に陥ったが、何かが引っかかっていた。




 その頃アナは、学院で授業を受けながらジェレミーが昨晩のことを覚えてないか、夢だと思ってくれることを切に願っていた。その日の夕方アナが帰宅すると、セバスチャンにジェレミーは熱も下がり、あと一日二日休めばすっかり元気になるだろうと報告された。


「良かったわ」


「これに懲りて旦那様も少しは摂生に努めて下さればいいのですが」


「そうですね……」




 アナはジェレミーがニッキーの正体に気づくのはもう時間の問題だろう、と覚悟を決めていた。ずっと騙されていたと分かったら彼は怒るどころじゃすまないだろう。実はジェレミーはまだ気付いてはいなかったのだが、彼は彼なりにけじめをつけようとしていた。


 ジェレミーが病に倒れてから数日後のことだった。その日の夕方、アナは夕食を済まし、いつものように自室で勉強していた。しかし最近は勉強もあまりはかどらない。少し前にジェレミーも帰宅したようだった。


 その時扉を叩く音がした。この時間に誰だろうとアナは不思議だった。


「ちょっといいか、話がある」


 何とジェレミーだった。彼がアナの部屋の扉を叩くのも初めてなら、部屋に入るのも初めてだった。


(ああ、ついにこの時が来たのね)


 ジェレミーの堅い表情からアナは全てを悟った。


「はい、どうぞお入り下さい」


 アナはジェレミーに椅子をすすめたが、ジェレミーはいいと言い、立ったままだったので彼女も座らなかった。ジェレミーが口を開く。


「契約破棄させて欲しい」





***ひとこと***

何っ! どうしてそこで契約破棄!? この時点で作者も『ジェレミーを馬鹿呼ばわりしちゃおう会』に入会決意しましたね。


さあ会員の皆さん、声を大にして「馬鹿バカー! 何をやっておるのだお前は!」と叫びましょう!

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