第四十三条 女将

 その後ジェレミーの部屋から自室に戻ったアナは眠れるはずもなく、悶々と夜を過ごした。


 ジェレミーが泥酔していようが何だろうが、夫婦の契りが出来なかったことにアナは落胆していた。酔った勢いでさえも抱いてもらえないなんて、元々なかった女としての自信が更になくなってしまったアナだった。


(私じゃその気になれなかっただけでしょうね……何がいけなかったのかしら? 伯母さまは旦那さまとなる方に全てお任せしていればいいのよ、としか教えてくれなかったし……)


 アナは幼い頃に母親を亡くし、ボルデュック領の中等科でも領主様の娘という事で友人は出来ず、色々吹き込んでくれる口さがない侍女も周りにおらず、アナはそちらの知識がほとんどない。出来なかったものはしょうがないのだが、どうしても自分を責めてしまうアナだった。




 次の朝、アナは自分に言い聞かせて気を奮い立たせていた。ジェレミーはかなり酔っていたから昨夜のことは覚えていないはずだ、いつも通りに振る舞えば大丈夫、と。


(はしたないわね、アナ。ジェレミーさまは覚えていらしても、きっと何とも思っていらっしゃらないに違いないし……私だけこんなに気にしているなんて馬鹿みたいだわ)


 それでも情けなくて、落ち込んで、ため息ばかりついていた。


「奥様、ご気分がすぐれませんか?」


 セバスチャンにまで心配されてしまった。


「いいえ、セバスチャン。私は元気です。旦那さまは昨夜かなり飲んでお帰りだったから、二日酔いに効くハーブティーでも淹れてさしあげてください」


「全く、旦那様はどうしてこう毎日のように飲み歩かれるのでしょうね」


 アナはひどく心を痛めた。もしかして……心当たりがないわけでもない。




 学院の午後最後の授業が入ってないある日、アナは帰宅前にイザベルの飲み屋を訪ねた。思い悩んだ末の決断である。ニッキーとしてピアノを弾いていたあの楽しかった日々が脳裏をよぎる。意を決してアナ自身の姿で開店前の店に入り、店員の一人に尋ねるとイザベルはすぐに出てきた。


「まあ、貴女は……」


 イザベルは一年前に一回会っただけのアナを覚えていて目を丸くした。


「イザベルさん、お久しぶりです。アナ=ニコル・ルクレールでございます」


「え? ええっ? まあ、何てこと……」


 アナが名乗ると彼女はさらに驚いた。


「少々お時間よろしいですか? お聞きしたいことがあるのです」


「ここではまずいですわね、お店の奥に参りましょうか」


「はい」


 今は懐かしい、初めてニッキーがキスされた飲み屋の奥の倉庫兼控え室を抜け、イザベルの事務所に入った。


「主人がいつもお世話になっております」


「私もこんな因果な仕事をしておりますから、大抵のことには驚かなくなってきていますけど……流石に貴女の出現にはびっくり仰天いたしましたわ、侯爵夫人さま!」


「申し訳ありません」


「やっと今状況が飲み込めてきたような感じ、ですわね!」


「主人は、その、まだニッキーのことを気にかけているのでしょうか?」


「あれは気にかけているどころじゃございません! どうしてあなた方はこんな単純なことを無駄にもつれさせているのですか!」


「……私も、苦しむ主人を見るのは何よりも辛いのですが……それほど簡単なことと思われますか?」


「単純明快ですわよ! ルクレール中佐はニッキーが好き、ニッキーである貴女も彼を愛していらっしゃるのでしょう? しかも貴方たちは既に結婚している。めでたしめでたしです!」


「……そうですね」


 アナは悲しそうに微笑んだ。でもジェレミーが好きなニッキーはもう居ない。アナのことは大金を貸してやっただけのただのお飾りの妻としか思われていない。


「私はもうニッキーには戻れないのに……可哀そうな旦那さま」


「そこがよく分からないのです。それにしても、今の今まで二人が同一人物だと気付いてない中佐もよっぽどの馬鹿ですね。あら、奥さまの前で大変失礼いたしました」


 アナは吹き出してしまった。彼女の身分でジェレミーのことを馬鹿呼ばわりするなんて、流石イザベルだ。


「やっぱりルクレール中佐が悪いんじゃないですか、彼って近衛騎士だから眼はいいはずなのにね、遠くは見えても近くはさっぱりなのかしら?」


「ええと、特に女性は顔も名前もまず覚えない人ですから」


「確かにそうですわ。少年姿のニッキーにつきまとっていたくらいですものね」


 彼女の毒舌に再び笑みがこぼれてしまうアナだった。


「元気を出してくださいな、奥さま。物事はきっといい方向へ向かうものですわよ」


「はい、ありがとうございます」




 この偽装結婚もかなり無理がある、きっとこれ以上続けていくことは出来ないだろうと思い始めたのはアナだけでなくジェレミーも同じだった。


 ジェレミーは先日酔ってアナを押し倒した時、震える彼女の姿に最後に飲み屋前で見たニッキーの悲しそうな顔が重なって見えたのである。


 いくら酔っていて、ニッキーに逃げられてむしゃくしゃしていても、アナを手ひどく扱っていいわけはないとは重々分かっている。ボルデュック家に多額の援助をしているからといって、ジェレミーもそこまで非道ではない。


 アナに暴言を吐いて手荒くしたことを後悔し自己嫌悪にさいなまれていたが、どうしてもきちんと謝るきっかけを見いだせなかった。




 アナはアナでジェレミーをニッキーの呪縛から解放するにはどうすべきか考えていた。いっそ本当のことを言ってしまおうか、しかしアナはその勇気がなかった。このままではいけない、と分かっていたがどうしてもできなかった。できれば彼の中のニッキーの思い出を、正体をばらすことによって汚したくなかった。


 名目上の妻でもいいから彼の側にいたいというのも本音だった。ばれてしまったら即契約破棄で離縁されてしまうだろう。


(勝手なものね、私も。色々理由はつけているけれど、結局は私自身がジェレミーさまに嫌われるのが怖いのだわ)


 アナは虚しくため息をつき、自嘲した。



***ひとこと***

『ジェレミーを馬鹿呼ばわりしちゃおう会』絶賛会員募集中です!

会長:王妃さま

副会長:セバスチャン

現在の会員:アントワーヌ、ドウジュ、イザベル

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る