第三十八条 怪我
翌朝アナは鏡に映る自分の顔を見て最悪の気分になった。昨日シャルボンが殴られた左目の下が腫れているだけでなく青黒い
変幻魔術を使って誤魔化せないかとも考えたが、今までこんな用法に用いたことも無く、下手に使ってより痣を悪化させたくもない。
「こんな顔で学院に行かなければならないなんて……同級生たちに見られるのはしょうがないし、別にいいけれど。ジェレミーさまにだけはこの醜い顔は絶対見られたくないわ」
昨日あの悪女に冴えない地味な妻と言われ、ジェレミーもそれを否定しなかった。無理もない、本当のことなのだ。その上今日は更に不細工な妻にまでなってしまった。
壁の近くに寄り隣の部屋に耳を澄ましてみたが、物音はしない。ジェレミーはまだ休んでいるのだろう。彼が今日遅出であれば顔を合わせなくて済む。アナは急いで支度をし、階下に下りた。
朝食の席に着いたアナの顔を見た給仕係にも心配された。そしてセバスチャンが食堂にすっ飛んできた。
「奥様、何とも御痛ましいことでございます」
「でも痛みはもうほとんどないのです。ただ、見た目がこんなに……」
「絆創膏をお貼り致しましょうか?」
「そうですね。あの、今日旦那さまは遅出なのかしら? その、こんなみっともない顔で旦那さまの前に出たくないのです……」
アナは最後恥ずかしくなって下を向いてしまった。完全な夫婦別室だとは今更、屋敷中の人間が知っていることだろうが、夫の仕事の予定も把握していないと言うのは妻として情けなかった。
この怪我はジェレミーをあの女の魔の手から救うために負った言わば名誉の負傷だが、彼は知る由もない。せめて痣が目立たなくなるまではジェレミーには会いたくなかった。例え彼はアナの顔に痣が出来ていようが、包帯をぐるぐる巻いていようが気にも留めないとしてもだ。
「はい、奥様。今日旦那様は遅出と聞いております」
アナは嬉しそうに顔を上げた。
「ああ、良かった。私、今すぐ出かけて夕方早めに帰宅すれば、今日は旦那様に無様な姿を見られなくてすむわね」
(奥様はこれほどまでに旦那様のことを想っておいでで、女心がいじらしくてどうにかして差し上げたいと思うくらいですのに。どうしてあの鈍チンは奥様の愛に応えて差し上げないのでしょうか!)
セバスチャンは少し鼻息が荒くなってしまったが、女主人アナの前では平常心を装った。
「奥様、元気を出して下さいませ。きっと明日くらいには腫れも引いて目立たなくなると思いますよ」
それからアナは朝食を軽く取り、セバスチャンに痣をなるべく隠すように絆創膏を貼ってもらってから出掛けた。
意外だったのは学院の同級生達の反応だった。
「ルクレールさん、お怪我なさったの? 大丈夫ですか?」
「ええ。私の不注意で扉にぶつけてしまったのです」
「えっ? 貴女は瞬間移動も出来て、移動魔法も得意なのに?」
「でも私、運動神経が鈍いので」
普段は挨拶を交わす程度の彼らとそれから少しお喋りが出来た。
「アナさんってさ、僕達よりずっと年上で結婚もしてるしもっと落ち着いた人だと思っていたけど、おっちょこちょいな所もあるんだね」
「お怪我は気の毒ですけど、ルクレールさんに少し親近感が持てました」
アナは自分の細い目を丸くした。ただし右目だけで、左目は相変わらずほとんど塞がったままだったが。そしてこれを切っ掛けにアナにも学友と呼べる存在が少しずつ出来たのである。
(怪我の功名ってこの事よね)
学院では弟のテオドールと時々昼食を取るアナだったが、今日だけは彼にも会いたくなかった。怪我を見られて彼や伯父伯母を心配させたくなかったのだ。魔術科とテオドールの学ぶ医術科は共通の授業もなく、教室も離れているので大丈夫だろうと思っていた。しかし、休み時間に図書館へ続く廊下で彼にばったり会ってしまう。
「姉上! そのお顔、どうなさったのですか?」
テオは声こそは潜めていたものの、過敏すぎる反応をした。
「少し扉にぶつけただけですから、心配しないで大丈夫ですよ」
「姉上まさか、ルクレール侯爵に暴力を振るわれているのですか? そうなのですね?」
「ど、どうしてそうなるのですか、テオ!」
まずいことになったとアナは焦った。全くの誤解である。慌てて彼を連れて建物の外、学院の裏庭に出た。
「姉上、とりあえず今日は直接僕と一緒にゴダン家に帰りましょう。明日、僕と伯父様がルクレール家に出向いて説明と必要ならば謝罪を求め、離縁も視野に……」
「こ、この怪我には主人は関係ありませんから。ただ私の不注意です」
「家庭内で暴力を受けている被害者は正に同じことを言って加害者を庇うのですよ」
確かにアナは本当のことを言ってない。その動揺がテオドールにも伝わったのだろう。しかし、真実を話すわけにもいかない。テオドールと伯父に屋敷に乗り込まれるのもまずい。
「ですけど、私は誰も庇っていないし、主人に暴力を振るわれたのでもありません。確証も無いのにルクレール侯爵家との間に問題を起こしたくないでしょう? こんな怪我をすることはもう二度とありませんから」
「ですが姉上は婚約中も結婚してからも全然お幸せそうではないのが、僕は心配なのです。ボルデュック家の窮状を救う為だけにご自分を犠牲にすることはありません!」
「テオ、それは違います。私は主人のことを深く愛していますし、彼と結婚できてとても幸せですから! (ジェレミーさまはそうではなくてもね)」
「姉上……」
テオドールはまだ完全には納得していたようには見えなかったが、とりあえずルクレール家に乗り込んでくることだけはなさそうだった。それからアナは彼と別れて次の授業のある教室に向かった。
(あ、そうだわ! シャルボンなら黒猫だから痣も目立たないし、ジェレミーさまに会いに行けるわ)
そう考えると朝から沈んでいた気分も少し浮上してきたアナだった。次の授業はクロードが教える高級魔術論だった。彼は教室に入るなりアナの特大絆創膏に気付くが、片眉を上げただけでその時は何も言わず授業を進めた。
その日の夕方、アナが早めに帰宅して夕食をさっさと終え、部屋に引き取った後ビアンカが訪ねてきた。
ビアンカはアナの怪我の事を知っていて、気分が
「まあ、お可哀そうに。今日の午後、怪我のことを主人から聞きました。気付いていたのなら授業の後にでもすぐにアナさんを私の所へ連れて来てくれれば良かったのにね。このくらいの痣ならすぐに治せますよ」
「本当ですか? では、お願いできますか?」
アナは左頬にひんやりと冷たく気持ちいい感覚を一瞬受けた後、重かった左目は開き、腫れも完全に引いていた。アナは鏡に映ったいつもの自分の顔に微笑んだ。
「ビアンカさま、ありがとうございました。これが治癒魔法なのですね」
「二、三日は絆創膏を貼ったままにしておいてね。周りの人には急に治ったことは内緒よ。良かったわ。普段の可愛らしい笑顔のアナさんが戻ってきて」
(可愛らしいは言い過ぎね。でも確かに今朝の私よりはずっと可愛いわ)
アナは再び鏡の中の自分にニッコリと笑いかけた。
***ひとこと***
セバスチャン氏のヤキモキは変わらず、姉思いのテオドール君も怪我だけでなく色々心配しています。
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