第三十七条 救護

注:この回ではある登場人物を指してありとあらゆるののしり言葉が使われます。良い子の皆さまは使わないで下さい。とりあえず注意を喚起します。


******




 アナはジェレミーとその女の前に走り出たが、二人が見たのは質素なドレスのアナ=ニコル・ルクレール侯爵夫人ではなく、碧い眼を持つ黒猫だった。


「ニャニャニャーゴ!(ジェレミーさまからその汚い手をどけなさい、このふしだら女!)」


 アナが変幻した猫は女めがけて飛び掛かり、彼女に体当たりした上、爪を立ててしがみつく。


「何なの、この猫! イヤ、痛いわ!」


「ニャニャニャン!(ジェレミーさまは私の旦那さまなのよ、書類上だけの夫婦ですけど!)」


(とりあえず助かった、しかし何だこの黒猫……)


 ジェレミーは安堵して壁にもたれかかった。


「ニャンニャン!(この泥棒猫! あっ、猫は私の方ですけど!)」


「やめなさいよっ!」


 女は自分のドレスにしがみついている猫のアナを振りほどこうと必死である。流石に猫よりも人間の方が力は強く、しまいには引きはがされて思いっきり顔の側面をぶたれた猫アナだった。


「おい、乱暴はよせ!」


「ニャ、ニャーン!(この淫売、猫の私を渾身の力で殴ったわね! 動物虐待禁止! キャー、落ちるぅー!)」


 ジェレミーが気付いた時には、猫アナは数歩離れた場所まで飛ばされてしまった。それでも地面に落ちる寸前にくるりと回り、怪我無く着地出来た。


「ニャン!(運動神経の鈍さは魔力でカバーよ!)」


「私の新しいドレスが! もうヤダ!」


 泥にまみれ、少々破れたドレスの女は表の庭の方に走って行き、大声で夫を呼んでいた。


「は、ざまーみろ、ビッ〇! お帰りはあちらの正門からどうぞ、だ」


「ニャ、ニャーン……(良かったジェレミーさま、阿婆擦あばずれの毒牙にかからなくて……)」


 猫アナはそろそろと立ち去ろうとしていた。


「ちょっと待て、そこの猫!」


「ニャニャ?(ジェ、ジェレミーさま? 私ならすぐ消えますから、お屋敷からつまみ出さないで下さいませ)」


「まあ、そう怖がるなよ。さっきまであの売女に対しては勇敢だったのにさ。野良猫か? お前のお陰で助かったよ。礼を言う」


「ミャウミャウミャウー(こんな私でも貴方を毒婦からお守りできたのですね。ジェレミーさまがご自分で愛人をお作りになるのでしたら何も申しません。けれど、私の毛の黒いうちは望まれない情事や不倫への誘いは全て阻止いたしますから)」


 ジェレミーは猫アナに近付き、優しくその頭と背中を撫でた。


「殴られたところ、大丈夫か? 首輪してないな、野良猫だな」


「ミャミャーン(私、ジェレミーさまに体を撫でられてるわ、嬉しい)」


「この辺りに住んでんのか? よいしょっと」


 ジェレミーは猫アナの前足の下に手を入れて彼女を持ち上げ、自分の顔の前に持って行った。


「ニャニャ!(ジェレミーさま! 私、全裸なのですけど! 恥ずかしい……)」


 猫アナは体を揺らし、後ろ足をバタバタさせて抵抗した。


「名前ないんだろ? 綺麗な碧い目だな。お前、雄それとも雌?」


 ジェレミーは猫アナをさらに持ち上げて尻尾の付け根辺りを見た。


「ニャンニャンニャー!(どこ見ていらっしゃるのですか! 下ろしてくださいませー! いくら私たち夫婦って言っても、アナでさえまだ……)」


「毛が多すぎて、分かんねえや」


「ニャニャニャ……(羞恥度もう最高値ですぅ……猫ですから、全身毛が生えているのは当然なのにぃ)」


「ま、どっちでもいいけど」


「ニャ?(むむ? 前にも聞いたことのある台詞だわ)」


「バタバタ暴れるな、分かったよ。今下ろす。そうだな、お前全身真っ黒だから石炭シャルボンって呼んでやる。」


 猫アナは羞恥で顔が真っ赤になるのを感じていたが、黒猫であるため見た目は変わらない。ジェレミーは彼女を地面に下ろした。


「ニャ?ニャン!(女の子なのに……石炭シャルボンはないでしょう? もっと可愛らしい名前がいいです、私)」


「そうか、気に入ったか! シャルボン、お前は今日からシャルボンだな。」


 ジェレミーの満面の笑みに猫アナ改めシャルボンは全身とろけそうになった。こんな笑顔、アナはもちろんニッキーでさえ滅多に見たことがなかった。


「ミャウーン……(名前は異議ありですけれども、ジェレミーさまの笑顔がこんなに近くで見られるなんて、猫冥利に尽きます……)」


 ジェレミーの差し出した手に、シャルボンは頬を寄せた。


「ミャー(好きです、ジェレミーさまぁ)」


 そこで表の庭の方から友人達がジェレミーを呼ぶ声がした。


「おっ、そろそろ行かないと。じゃあな、シャルボン。またいつでも来い」


「ミャーン……(私はいつも貴方の側におります……)」




 ジェレミーが去り、シャルボンは籠を下ろした場所でアナに戻った。急いで厨房へ帰っていると、丁度使用人の一人が勝手口から出てくるところだった。


「奥さま、あまりにお帰りが遅いので様子を、まあ、お顔どうなさったのですか? 左の頬、どこでお怪我なさったのですか?」


「えっ、あらまあ……ちょっとそこでぶつけてしまって」


 そう言われて触れてみると痛みがし、腫れているのが分かった。先程あの肉食獣女に殴られた所だ。


「耳たぶも少し切れいてます、今お手当いたしましょう」


 厨房に戻って鏡で見ると確かに腫れていた。明日は学院なのに目立たなくなるだろうか?


「グレッグ、遅くなって申し訳ありませんでした。あの、パイ生地はもうとっくに出来ていますよね……」


「奥様、それよりお怪我は大丈夫ですか? お休みになられては?」


「怪我なら大丈夫です。でも、今日はもう私は見るだけにしておきます。ここに居させてもらってもいいですか?」


 アナの怪我は大したことはなかったが、先程から色々なことが起こってひどく動揺していたため、もう包丁を握ったりしない方が厨房の皆にも迷惑を掛けないだろうと考えた。でも何となく部屋に戻って一人になりたくもなかった。ジェレミーの友人達は夕食まで居るのだろうか、女狐とあわれな夫のロイックは帰ってしまって居ないだろうが。


 今夜は腫れた頬を理由にアナは食事を部屋でとらせてもらうことにした。どうせアナはジェレミーの友人達が来ている時にも食事を一緒に、と声を掛けれらることもなくいつも一人だった。




 その後アナが部屋に向かっている時、一階の階段前でジェレミーとセバスチャンが何か話をしているのが見えた。アナは思わずそっと柱の陰に隠れた。


「黒猫でございますか? いいえ、私は見ておりません」


「碧い目でシャルボンって名前なんだ。見掛けたら追い払ったりせずに餌をやってくれ。魚とか」


「野良猫をお飼いになるのですか、旦那様?」


「飼うってほどまでじゃないが、今さっき助けてもらったからだ」


かしこまりました。猫に恩返しでございますか。使用人全員に伝えておきます」


 そしてジェレミーはそのまま二階へ上がって行った。


(お客さまは皆お帰りになったのかしら?)


 柱の陰から出て、アナも二階へ向かう。そこでセバスチャンに声を掛けられた。


「奥様、旦那様が何やら黒猫を、ど、どうなさったのですか? そのお怪我!」


「そんなに目立つかしら? 先程厨房で手当てはしてもらいました。ちょっと不注意でぶつけてしまって、でも大丈夫よ」


「本当でございますか? 後ほどお部屋に氷嚢ひょうのうをお持ちいたします。ところで奥様、旦那様が碧い目の黒猫をお探しなのですが、見掛けられませんでしたか?」


「いいえ」


「シャルボンと言う名だそうです」


「分かりました。もし見たらお知らせするわね」


(でもアナがシャルボンをことはないですけどね)



***ひとこと***

奥様は変幻自在ニャのです!

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