第三十六条 厨房

 セバスチャンの計らいでアナは次の休みの日の午後、料理長のグレッグに調理を教わることになった。厨房に足を踏み入れた時、グレッグを始め、他の使用人達の視線が非常に痛かった。


「お世話になります、皆さま。いつも美味しいお料理をありがとうございます」


「奥様、失礼ですがそのお召し物は?」


「こちらに嫁ぐ前に着ていた普段着です。その、調理をするには動きやすく汚れてもすぐに洗える服がいいかと思いましたから。流石にエプロンはルクレール家には持って来ておりませんので、貸していただけるとありがたいのですが……」


 彼らが目を丸くしたのはアナのドレスが屋敷の侍女のお仕着せよりも粗末なものだったからである。グレッグは下女の一人に目配せをしてエプロンを持ってこさせた。アナは腕まくりをしている。エプロンを受け取ったアナは恐る恐るグレッグに声を掛けた。


「グレッグ、今日は出来るだけ皆さまのお仕事の邪魔にならないように気を付けます。いつもいただいているような貴方の凝った料理は私には作れませんけれど、頑張ります」


「奥様、先日の鶏肉のクリームソース煮がお気に召されたそうですね。それを作りましょう。まずソースから始めます」


 グレッグは終始無表情だったし、あまり良く思われていなかったのが分かった。侯爵夫人の気まぐれに付き合わされていい迷惑だ、と彼の顔に書いてある。しかし、グレッグとてルクレール侯爵家の料理長という肩書は失いたくないわけで、セバスチャンの言いつけには逆らえない。


 アナが既に料理の基本的な心得があり、包丁も火も使えたのには使用人達は少々驚いている。もちろん彼女は野菜などの調理前の食材の知識もある。生まれてこのかた据え膳上げ膳の貴族は食通であっても、野菜、果物、肉や魚の原型を知らないことが多いのだ。


 結局真摯に学ぼうとしているアナにグレッグの態度も少しずつ軟化してきた。そしてアナは自分が使って汚したものは自ら洗おうとまでし、使用人達も最初は大いに戸惑った。後で奥様をこき使ったとセバスチャンに怒られはしないか、とビクビクしていたのである。その日に作ったクリーム煮と温野菜は少し味見をしたアナも充分納得のいく出来だった。


「今度、実家に帰った時家族に作って食べさせられるわ。今日は皆さまのお陰で楽しかったです。また機会があったら教えてくださいますか?」


「勿体ないお言葉です。私達はいつでも構いません」




 アナが厨房を去った後、使用人達はぼそっと呟いていた。


「奥様って意外と庶民的な方なんだな、この家と同じ侯爵家の出って聞いていたけど」


「おい、そこ! 黙って仕事に戻れ!」


「は、はい! グレッグさん」


 同僚達には釘を刺したものの、グレッグ自身ももちろん同意見だった。一方アナは使用人達に邪険にされないか、馬鹿にされないか、と最初は恐れていたが、無事に第一回の料理教室を終えられてホッとしていた。


「きっと皆さん馬鹿にしていても、セバスチャンの教育が行き届いているから態度には出さないでしょうけどね」




 結局休みの度にアナは普段着にエプロン姿で厨房に籠り、グレッグに料理を教わるのが習慣になった。お陰で収穫祭に帰省する時には家族に作る料理のレパートリーが少し増えた。もちろんルクレール家で使えるような高級食材はボルデュック家の内情ではまず手が届かなかったが。


 厨房の皆とも少しずつではあるが打ち解けてきたような気もした。食事作りだけでなく、グレッグは菓子作りの腕も相当なものである。アナは特に彼のりんごの焼き菓子が好きだったので、今度ボルデュック領からたくさんりんごを持って帰ることにした。


 学院が休みの日に一人で勉強や読書をしていても時間を持て余すだけだったので、厨房で過ごす一時はアナの孤独を大いに紛らわせてくれた。




 ある日、夫婦二人の休みが重なった日だった。アナは午後いつものようにグレッグに調理を教わるため、厨房に居た。ジェレミーは友人達と遠乗りに出かけ午後は皆も連れて帰宅し、庭で球技をしていたようだった。


 厨房では今晩のために豚挽き肉入りのパイを作る予定で、アナは屋敷の裏庭にある小さなサンルームで栽培されているハーブを摘んでいた。そしてハーブの沢山入った籠を抱えて勝手口に戻ろうとしていたアナの耳に二人の男女の声が聞こえてきた。屋敷の壁を回ったところで話しているらしい。彼らの姿はアナには見えない。


「ねえ、少しくらいいいじゃないの……」


「止めろって言ってんだろ」


 男はジェレミーだった。


「あらやだ、そんな怖い顔しないでよ」


「ロイックにばれてもいいのか? 手を離せ。彼がこんなとこ見たら傷つくぞ」


「主人は毎度のことだと思っているわよ」


「それはアイツがアンタにベタ惚れだからだ」


「彼は私の好きにさせてくれるという約束で結婚したんだもの。私の遊び相手がルクレール中佐だったら鼻も高いはずよ。気楽に楽しめばいいじゃない?」


「その手をどけろ」


 アナは立ちすくんだ。ジェレミーが友人の妻に誘われている。でも彼の方は嫌がっている様子だ。


「ねえジェレミー、貴方だってあの冴えない地味な奥さまに満足しているわけではないのでしょう?」


 籠を握る手にもぐっと力がこもってしまう。こんな女の前でジェレミーに馬鹿にされるのなんて耳にしたら、自分はきっと当分立ち直れないだろう。その場をすぐにでも去らないといけないのに、アナはますます動けなくなってしまった。


「それとこれは関係ないだろう。調子に乗りやがって。ロイックや他の奴らにこうして二人でいるところを見られたくなくて俺が騒がず大人しくしているからって」


(ジェレミーさまはご友人を傷つけたくないのね……)


 ロイックと言う男性はアナも以前紹介されていた。笑った顔に少年の幼さが残る、優し気な青年だった。気の強そうな夫人が居たのも思い出した。


(どうしよう……私がこの下女のような格好で出て行ってもあの女には軽蔑されるだけだし……それに私がジェレミーさまの私生活に踏み込むのは契約違反よね)


「そんなことおっしゃるけど、ほら、体は正直よ……」


「触るな! 気色悪い!」


 ジェレミーの低く抑えた怒り声に居てもたっても居られず、アナは籠を置いて咄嗟に二人の前に走り出た。



***ひとこと***

第二のマチルダ登場! しかも余計始末が悪い。堂々とジェレミーをダブル不倫に誘うとは! 危機です!

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