第三十五条 孤独
ニッキーの消滅以来、アナはこれ以上無いほどジェレミーのことが心配だった。まさか彼がニッキーにあそこまで執着しているとは思っていなかった。しかしアナは彼のために何かが出来るわけでもない。ただ、彼の目になるべく触れないよう、ひっそりと過ごすだけだった。
(ニッキーのことなどすぐにお忘れになるわよね……きっと)
ニッキーの方はジェレミーと過ごした一瞬一瞬を未だに鮮明に覚えている。大事な思い出として心の奥にしまってある。
アントワーヌからは結婚式の後に文が来て、アナのドレスに細工をした者も首謀者も捕らえたからもう嫌がらせは止むだろう、と知らされた。ドレスに手を加えたのはやはりあのモードという侍女だっだ。
首謀者はマチルダかとアナは思っていたのだが、アントワーヌにはぐらかされて何も教えてもらえない。犯人をどうやって捕らえ、それからどうしたかなどの詳細も全くアナには知らされなかった。
謎の多いアントワーヌだったが、彼のことは信頼していたので、アナは彼がもう大丈夫と言うのなら丁重に礼を述べるだけにしておいた。ただ、婚約中にアントワーヌに護衛を付けると言われて断ったが、やはり彼はアナに監視を付けていたようだった。でないと犯人を捕らえることなど出来なかっただろう。
アナはニッキーのことも、もしかしてアントワーヌには知られていたのだろうかと心配だったが、どうしようもなかった。何にせよ、ニッキーはもう過去のことだった。アナはアントワーヌに聞いて今更蒸し返すこともないと思った。
ジェレミーの両親、アルノーとテレーズは結婚式後にルクレールの領地に移って行った。彼らはまだまだ若いし、王都に出てくることも多い。式の後初めて王都に来たテレーズから、アナはマチルダの近況を聞かされた。彼女は病に伏せっているとのことである。
マチルダは結婚披露晩餐会の夜、この屋敷で倒れていたのを発見されたのだが、そのことはアルノーとテレーズは新婚夫婦には伝えていない。めでたい二人の結婚に水を差すのは避けたかったのだ。
社交的なマチルダは今まであちこち舞踏会やお茶会などに頻繁に顔を出していたというのに、それ以来元気になっても屋敷にずっと引きこもり、見舞いや友人の訪問も断っているらしい。
あんなにマチルダと仲良さそうだったジェレミーはさぞかし心配だろうと思ったアナだったが、彼自身は全然気にしていなかった。婚約中でさえあんな様子だったマチルダのことだから、結婚しようが何だろうが今までの様に稽古場などでまとわりつかれるのでは、とジェレミーはいい加減うんざりしていたのだった。病は気の毒だが……としかジェレミーは言いようがない。
アナの学院生活が始まり、ジェレミーの生活パターンも分かってきた。夕食を六時頃にとると、アナの食事が終わるころにジェレミーが帰宅することもあった。アナはそういう時は『お仕事お疲れさまでした』と一言挨拶をして自室にひきとるのだった。
ある日、ジェレミーと食卓で顔を合わせた時に使用人の目を盗んでアナは聞いた。
「旦那さまにお知らせしたいことがある時などは、文を書いてお部屋の扉に挟んでおいても構いませんか? わざわざお食事の時間にお邪魔しなくてもいいですし、セバスチャンに伝言を頼むのも回りくどいですし」
「ああ、そうだな」
こうしてアナはジェレミーと一言書いた紙切れのやり取りをするようになった。返事を必要としない用件、例えば『明日、フロレンスさまとナタニエルさまの所へ伺います』などにはもちろんジェレミーからの返事はなかった。
『十一月の休みにボルデュック領に数日帰ってもよろしいですか?』などの用件の時は返事の紙切れがアナの部屋の扉に挟まっていた。もちろん『問題ない』『了解』などと本当に一言しか書かれていない。アナはそんな紙切れでも大切に保管しておいた。
屋敷の使用人達との関係はまずまず良好だった。何か分からないことはセバスチャンに聞けばよかった。
ある日アナは夕食に出された鶏肉のクリーム煮があまりにも美味しかったので今度ボルデュック領に帰った時に家族に作ってやりたいと思い、恐る恐るセバスチャンに尋ねた。鶏ならボルデュック家でも容易に手に入るし、この料理ならアナでも作れそうに見えたのだ。
「セバスチャン、その、侯爵夫人としてはどうかとお思いでしょうが、この鶏肉料理の作り方を料理長に教わりたいのです。今度実家に帰った時に家族に振る舞えたら、と思って。構わないでしょうか?」
「奥様、それは……」
セバスチャンは驚いた。
「その、厨房の皆さんのお仕事の邪魔にならないのでしたら是非おねがいします」
「料理長のグレッグは少々気難しい人間ですが、問題はないでしょう。学院がお休みの日がよろしいですよね、聞いておきます」
「はい、ありがとうございます!」
一方のジェレミーは休日には友人たちと狩りや遠乗りに出かけたり、屋敷に人を呼ぶ時は庭で球技をしたり、屋内でチェスやゲームをしたりしていた。ジェレミーには同性の友人が多い。
アナはジェレミーの客人が屋敷に来ている時は、ジェレミーに声をかけられることもないし彼らの前には出ないようにしていた。時々庭で楽しんでいる彼らを窓からこっそりと眺めることもあった。友人たちが恋人や妻を連れて来ている時は特に賑やかで、アナは部屋で勉強をしていても笑い声などがよく聞こえてくるのだ。
友人の多いジェレミーに比べて自分はなんてつまらない人間なのだろう、と思わずにはいられない。アナだって別に人づきあいが苦手なわけではない、ただ育った環境のせいで友人を作る機会に恵まれなかったのだ。
「私だって、乗馬やチェス、カードゲームなら出来るのに……球技はどれも苦手ですけど……」
実はジェレミーの方は形式上の妻のアナに遠慮して、何となく声を掛けるのをためらっていただけだった。
アナにとって学院の授業はとても興味深く、学問を修めるのは楽しかった。編入生のアナは一般教養や花嫁修業関連の科目は取らなくても良く、魔術の授業のみに集中できる。学院三年目の生徒と一緒のアナはもちろん一番年上で周りは五、六歳若く、結婚しているのも彼女だけだった。
一年目から共に学んできた他の生徒たちは既に仲良し組が出来上がっていて、当然周りには馴染めず、アナはいつも孤独だった。昼食も一人でとることが多い。たまに弟のテオドールと一緒に食べることもあったが、アナは彼の友人付き合いの邪魔はしたくなかった。
同級生たちはよく放課後買い物やお茶をしに街に出かけているようだった。アナは誘われることはなかった。もし誘われたとしても、他の貴族の子女のように自由に使えるお金もなく、好きに遊べるわけではないから、結局は断ることになるのだったが。
学院でも一人、ルクレール家でも一人のことが多いアナは寂しいのはしょうがない、と諦めていた。時々休みの日にはジェレミーの妹フロレンスと甥のナタニエルを訪ね、伯父と伯母のゴダン家にもたまに顔を出すのは大丈夫だろうから、それで少しは気が紛れた。
とにかく契約結婚を選んだのは彼女自身で、学院にも行かせてもらえている身だ、と言い聞かせていた。『借金返済、今年の収穫、学費……』と時々呟くこともあった。
***ひとこと***
未だに新婚さんらしくない二人です。
マチルダは引きこもりになってしまいました。自業自得です。
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