変幻
第三十四条 新婚
結婚してからの夫婦の生活はジェレミーにとってはそう変化はなかった。自宅の部屋が主寝室に移っただけである。
アナは彼の隣の続き部屋を使っている。ルクレール家の使用人たちは教育が行き届いており、新侯爵夫妻が寝所も食事も共にしていなくても他所で噂を流したりはしない。ある日朝食の時間がジェレミーと重なったアナは彼に尋ねてみた。
「ルクレールさま、もしお一人がよろしければ、私の食事は部屋に運んで私はそちらで頂くことに致します」
「いや、別にいい」
彼がそう言うなら、とアナはそのまま彼の正面に座り朝食を摂った。式以来、初めて二人が交わした言葉だった。その後はジェレミーに話しかけられないので、アナは黙っていたがこっそり彼を見つめながら食事を続ける。
(妻としての特権よね。ジェレミーさまとお食事出来るなんて。私がこうして静かにお邪魔しなければ時々はこうしてご一緒させてもらってもいいかしら……)
ニッキーに去られたことが原因か、前までは少しやつれたように見えたが、今日のジェレミーは顔色もそれほど悪くはない。アナは少しほっとした。
学院が始まるまではアナは結婚祝いの贈り物に礼状を書いたり、執事のセバスチャンに屋敷の切り盛りを教えてもらったりしている。
「奥様、もうご結婚されたのですからいつまでも旦那様のことをルクレール様とお呼びするのはどうかと……」
セバスチャンには
「ああ、そうですわね。習慣になってしまっていて。これからは私も旦那さまとお呼びします」
セバスチャンはがっくりと肩を落とした。
(いえ、そうではなくてお名前で! ジェレミーさまとかジェレミーとか! ジェレたんでも!)
しかしセバスチャンはそれ以上口を挟まなかった。
テレーズからはアナの学院が始まる前に一週間ほど新婚の二人でルクレールの領地でも、他の場所でもいいから旅行してくれば、と提案されていた。ジェレミーは婚姻後の休みは申請していなかったようだし、アナも彼の仕事を妨げる気はさらさらなかった。
だいたい二人で旅行などに出たら王都のルクレール家でのように夫婦別室とはいかず、同室に寝泊まりしなくてはならないではないか。アナの方はジェレミーに求められたら、喜んで身を差し出す心構えは出来ていた。しかし、ジェレミーが望まなければ同室で気まずい思いをさせるわけにはいかない。
屋敷でアナは出来るだけジェレミーを避けるように努めた。食事の時間をずらし、ジェレミーの在宅中には部屋から出ないようにした。自室の窓からジェレミーが外出、帰宅するのをカーテンの隙間から時々覗き、『いってらっしゃいませ』『お帰りなさいませ』と呟いていた。
まだ気温は高く、部屋の窓を開け放していたので、夜中に度々ジェレミーがバルコニーで煙草をくゆらせているのが分かった。バルコニーで二人の部屋はつながっているのだった。アナの方は決してバルコニーに出ることはしなかった。
アナはこれから何年も遅れての学院入学や、新侯爵夫人としての不安を誰かと話すことで紛らわしたかったが、誰も話し相手がいないのが現実だった。
結婚したばかりでゴダン家にちょくちょく戻るわけにもいかず、王都で出来た友人たちもそれぞれ家庭や仕事がある。ビアンカが時々アナを心配してサンドリヨンを遣わしてくれるのが嬉しかった。賢いサンドリヨンはもうゴダン家ではなく、ルクレール家のアナの部屋まで飛んでくるのだった。
ある朝、アナはサンドリヨンに声を掛けていた。
「お早う、サンドリヨン。今日もありがとう。ねえ、今度からは向こうの窓から来てくれる? 旦那さまはまだお休みだろうから出来れば邪魔したくないのよ」
その時ジェレミーはまだ寝台に横になっていたが目は覚めていた。
(別にそこまで気を遣わなくてもいいのに。
ジェレミーはもちろんバルコニーには出て行かなかった。彼がここで現れたりするとアナはきっと次回からは自室のバルコニーへの扉も閉め切ってしまうに違いない。
アナは学院が始まれば忙しくなって寂しさも紛れるだろう、もう少しの我慢だと自分に言い聞かせていた。
そして夏も終わり、学院に編入する日がやってきた。編入学式にアナは地味な紺のドレスを着たが、さすが貴族学院である、特に女生徒たちはまるで舞踏会に出るような色とりどりの美しいドレスを身に
ゴダンの伯父夫婦はアナの大事な日だから、と式に出席してくれていた。テオも授業の合間に顔を見せに来てくれた。式の後、伯母に聞かれる。
「入学をお祝いしたいのだけど、今晩はやっぱりルクレール家でご馳走かしらね」
「いいえ。今日主人は遅出ですしルクレール家では特に……私一人でそちらにお邪魔してもよろしいですか?」
実はジェレミーはそんなに頻繁に遅番の日はないみたいなのだが、遅く帰宅することが多かった。今日も遅出だか早出だかアナは知らなかったし、ジェレミーには今日が入学の日だとも伝えてなかった。
ただ、伯母がこう言ってくれるのならルクレール家で寂しく一人で夕食をとる気にはなれなかったのだ。
「もちろんよ。あまり遅くならないうちに新婚の奥さまはルクレール家にお返ししますけどね」
ルクレール家には使いをやって夕食はいらない、と伝えておけばよい。久しぶりに他愛のないお喋りが出来るのが嬉しかった。アナは人恋しくなっていたのだ。その日、ゴダン家の食卓での話題はもっぱらアナの妹ルーシーのことだった。
「姉上も気付きましたよね、ルーシーの奴いつの間にかあんな色気づいて。絶対好きな男が居ますよ」
「テオ、この春領地に帰った時も言っていましたね」
「私はルーシーには貴女の結婚式で本当に久しぶりに会ったから分からないけれど……でもそう言われてみれば、あれは恋する乙女の顔かしら」
「ルーシーには学院に行かせて、社交界にも出して然るべきお相手と結ばれて欲しいのに……」
「そういうアナ、貴女自身は学院もまだ出てないし、社交界にも縁はなかったけれどこれ以上ない良縁に恵まれたではないですか」
「ルーシーもきっと大丈夫だよ。もう立派なレディじゃないか。何てったってアナが母親代わりに育てたのだから」
妹もアナのように苦しい恋をしているのだろうか。いつまでも幼いと思っていたのにいつの間にか成長している。ルーシーには幸せになって欲しかった。
***ひとこと***
題名にも
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