第三十二条 誓言


 花嫁と父親が大聖堂に入場してすぐ、参列していたビアンカとクロードはアナの防御壁に気づいた。


「嫌な予感が当たったわ」


「何をやっているんだ、あの子は」


「ただ用心で済めばいいのですけど。先日も彼女は晩餐会で葡萄酒をドレスにかけられるなどの嫌がらせをされているのです」


 それでクロードも察したようである。


「よし、任せておけ」


 彼はアナとジョエルの周りに魔法の防御壁を築く。アナは突然出来た強力な壁を見て驚いた。自分のものとは比べ物にならないくらいしっかりしている。これだと物理的攻撃どころか魔法もはね返すだろう。


「これはもしかして……」


 アナは魔力を感じる方向に振り向いた。やはり、副総裁のクロードだった。彼は『安心しろ』とでも言わんばかりに頷いてくれた。その隣のビアンカが微笑みながらアナにこっそり手を振っている。


(私には大勢の頼もしい味方がいるわ。大丈夫よ、アナ)


 アナは自分を励ました。正面には愛しいジェレミーが白の制服姿で待っている。先程は運針に忙しく彼の方へ顔も向けられなかったから、ニッキーとして飲み屋の前から逃げ出して以来だった。


(ジェレミーさまのこの美しいお姿は一生忘れないわ)


 アナとジョエルが祭壇に近づくと、魔法の壁は一瞬消えてアナがジェレミーの隣に並び、ジョエルは最前列の自席に着いた。そして壁は再び現れ、今度は新郎新婦と大司祭を包み込んだ。


 名目上の妻だろうが何だろうが、アナは彼と共に祭壇の前に立っている。アナの婚姻の誓いは契約結婚であっても本物だ。どんな時も彼を愛し、支えていくのは変わらない。例え契約が終了して彼から離縁されても、きっと一生彼だけを愛し続けるだろう。アナが一方的にただ想っているだけなら契約違反でも何でもない。


「花嫁にキスを」


 司祭の声に二人は向き合い、ジェレミーはアナの顔を覆うベールを上げた。ジェレミーはずっと無表情だった。きっとキスは嫌々ながら頬に軽くされるだけだろうとアナは自嘲した。そんなジェレミーの顔は出来れば見たくなくて目線を下げたくなったが、アナは無理やり微笑んでジェレミーを見上げた。


 しかしほんの一瞬だったが、唇と唇が触れ合った。アナは数日前、ニッキーとジェレミーが交わした熱い抱擁と口付けを思い出してしまった。胸の奥が切なくうずいたが、笑顔だけは崩さなかった。実はジェレミーも同様だった。アナの唇に少し触れただけだったが、何だか懐かしい、知っている感じがしてニッキーの唇の感触を思い出してしまったのである。


(何でだ。俺もとうとう焼きが回ったか……)


 ジェレミーは切なくため息をついた。


(ジェレミーさまはそこまで私とのキスがお嫌だったのかしら……)


 アナは少々落ち込んだ。それもしょうがない、ニッキーとあんなことがあったばかりなのだ。


 しかし、アナはしょげている場合ではなかった。これからスカートをしっかり支えて大聖堂の外まで歩き、とりあえず馬車に乗るまではもたさなければいけない。


 今晩の晩餐会ではアナは別のドレスに着替える。そのドレスはゴダン家ではなくルクレール侯爵家にずっと保管してあるので多分無傷なはずである。それにどのドレスを着るかはアナとテレーズしか知らない。しかし、気は抜けなかった。敵が今度はいつどんな攻撃をしかけてくるか、分からないからだ。


 アナは無事に侯爵家の馬車までたどり着き、ほっとした。この花嫁衣装の役目はもう終わりである。馬車の中でジェレミーに聞かれた。


「ドレスをほつれさせたってどういうことだ?」


「今朝ゴダンの家を出る時に階段で裾を踏んづけてしまったのです。人生に一度あるかないかの晴れの日ですのに、私もおっちょこちょいですわね」


 ジェレミーはまたか、と思った。短い付き合いだが、こんな大事な日に慎重なアナがドレスの裾を踏むというのが信じられないのである。それに、アナが何かを隠して嘘をつくのも分かるようになった。そしてこんな時はジェレミーがいくら問い詰めても彼女は口を閉ざしてしまうということも。


「折角のこんな豪華な花嫁衣裳なのに、申し訳ございませんでした。一見分からないようには縫い直しましたけど。この後は別のドレスに着替えます。今度は十分気を付けますわ」


「そうか」


 ジェレミーは他に何を言っていいか分からなかった。とりあえず、今夜はアナを一人放っておかないことにした。アナもそれは同じで晩餐会では出来るだけジェレミーの側を離れないようにしようと思っていた。敵がおとしいれたいのはアナだけで、しかもジェレミーにはその陰謀は知られたくないはずだからだ。


 晩餐は何事も起こらず無事に済み、ダンスの時間となった。主役の二人がまず踊り、それから付添人の二人や新郎新婦の両親も加わった。


 濃い桃色のドレスに着替えていたアナは初めてジェレミーと踊れることに緊張と幸福でいっぱいだった。しかも近衛の正装姿の彼である。式の前に色々あった為、ダンスの練習も何もしていなかったが、彼のリードは流石に上手だった。


(ジェレミーさまとこうして踊れるのも、きっと最初で最後でしょうね……)


 アメリは最初ダンスだけは遠慮したい、と言っていたのが結局新郎側の付添人で彼女の婚約者のリュックに説得されて車椅子でダンスに加わった。車椅子に座ったアメリとリュックのダンスは何とも微笑ましかった。最後だけアメリはリュックに抱きかかえられ、クルクルと二人で回っていたのも素敵だった。


 次にアナは男性付添人のリュックと、ジェレミーはアメリと踊る番だった。踊りながらリュックはアナに言った。


「あのルクレールが俺たちよりも早く結婚してしまうなんてね。何か信じられないね」


「多くの方々が同じ事をおっしゃいます」


「でも俺は良かったと思うよ。アナさんとは意外とお似合いだしね。あ、ゴメン。結構失礼だね、俺」


「いいえ。どうしてルクレールさまがお選びになったのが私なのか、と皆さま同じことをお思いです」


「まあ、あいつにも幸せになってもらいたいしね。アナさん、あんな奴だけどよろしく頼むよ」


 ジェレミーに幸せになって欲しいのはもちろんアナも同じだった。二人の隣で踊っていたアメリとジェレミーは踊り終わると、車椅子の車輪がジェレミーの足を踏んだとかで喧嘩をしていた。この二人は相変わらずだった。


「アメリとルクレールさまが仲良すぎてサヴァンさまはご心配ではありませんか?」


「貴女にも同じ質問をそのままお返ししますよ、新侯爵夫人」


「そうですね、最初は少しびっくりしました。ルクレールさまは他の女性とは、どなたともアメリほど親しくはないのですもの」


「俺はひどく嫉妬しましたよ。それで、まあその嫉妬のお陰で彼女への気持ちを自覚したというか……その後も色々ありましたけどね」


 二人はまだなんだかんだと言い合っているアメリとジェレミーを微笑ましく見つめていた。


 その後も何の問題も起こらず、アナはほっとしていた。夜も更け客は次々と帰り、花嫁と花婿は部屋に引き上げることとなった。式から晩餐会の間ずっと気が抜けなかったアナはもうくたくただった。


 二人で一緒に二階に上がった途端、アナはジェレミーの肘に添えていた手をさっと離した。


「今日はお疲れさまでした。それから、晩餐会の間ずっと私の側にいて下さってありがとうございました。今晩はゆっくりお休み下さい」


「ああ」


 そしてジェレミーに深く頭を下げ、それ以上何も言わず彼の顔を見ることもなく背を向け自室にひきとった。ジェレミーも部屋に入った。二人の寝室は隣同士で、中は扉一枚でつながっている。しかし、この扉が開く日が来ることがあるのだろうか。



***ひとこと***

とうとうこの二人は結婚してしまいました。手を加えられた花嫁衣裳以外には何も問題は起こりませんでしたが……

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