第三十一条 細工

 婚姻の儀当日がついにやって来た。アナもジェレミーも精神的に参っていて最悪な状態だった。


 ニッキーとの飲み屋前の別れ以来、式当日まで新郎新婦の二人が顔を合わせることはなかった。アナはもしかしたら傷心のジェレミーが契約破棄を言い出すのではないか、とびくびくしていた。


 アナとの結婚とは何も関係ないし、お互い好きなようにしてもいいわけだからジェレミーがニッキーに申し出たことも別に契約違反でも何でもない。それでも彼はもう結婚とか、そんな気分には程遠いに違いないとアナは考えていた。


 ニッキーはジェレミーを酷く傷つけてしまった。誇り高い彼が、あのように悲しそうに懇願するのを見ることは二度とないだろう。




 あの後ニッキーは飲み屋の開店前の時間にこっそりとイザベルを訪ねたのだった。約束の期日までにはまだ数日あるが、どうしても続けられないと告げて頭を下げたニッキーをイザベルは優しく抱き締めてくれた。


「ルクレール中佐と何かあったのね。いつの時代も自分勝手なんだから、全く男って生き物は」


「申し訳ありません、イザベルさん。でも、中佐さまのせいではないのです。す、全て私が悪いのです」


 ニッキーの声は震えていた。


「事情は分からないけれど、まあ元気出して。お店は辞めてもいつでもいらっしゃい。私で良ければ相談に乗るわよ」


「はい、ありがとうございます。イザベルさんには大変お世話になりました」


 店を後にしようとしたニッキーにイザベルが最後に一言声を掛ける。


「あ、もう一人の貴女にもよろしくね。ニコルさんだったっけ」


 ニッキーは少し驚いて軽く微笑んだのだった。




 婚姻の日の朝、アナはゴダン家から大聖堂へ向かう馬車の中で窮地に立たされていた。ここ数日、気持ちが滅入っていて睡眠不足で注意が足りなかった自分を呪っていた。


 仕立て上がったドレスをゴダン家の自室にかけておいたのだが、何者かが身頃とスカートの間の縫い目を巧妙に切り、ほつれさせていた。アナがそれに気付いたのは着る直前だった。式の途中にスカートの自重で落ちてしまうかもしれない。


 アナは父親や伯父夫婦にだけは心配を掛けたくなかった。彼らは彼女の結婚を誰よりも喜んでくれている。


 馬車の中でアナは無言だった。家族にはひどく緊張していて、と誤魔化しておいた。ベールでアナの表情が皆に良く見えないのが幸いだった。


 スカートが参列客の前で破けたり落ちたりしたら、これはもうアナが恥をかくだけではすまない。ルクレールの家名に傷が付くし、今日は王妃さまも正式に出席される。


 ただの嫌がらせの域を超えてしまっていた。またマチルダの仕業か、他の人間かは知らないが余りに用意周到すぎる。


 そう言えば少し前、モードと言う若い侍女がゴダン家に雇われていた。アナの妹ルーシーくらいの歳の純粋で働き者のその少女に思わず油断していたが、彼女がやったに違いない。アントワーヌにあれだけ注意しろと言われていたというのに、とアナは下唇を噛んだ。


 しかし、今は犯人追及ではなく、なるべく早く大聖堂についてスカートを縫い直す時間を稼ぐのが先決だ。


 こんな卑劣な手段を使う人間にアナは負けるわけにはいかないのだ。彼女が今日祭壇の前に立つために金貨数百枚がかかっている。何の苦労もなく甘やかされて育った貴族の令嬢の醜い嫉妬などは怖くないアナだった。


 アナは並大抵の覚悟で嫁ぐのではない、お嬢さまの道楽とは比べ物にならない。それにジェレミーが大金を払ってまでも選んだのは他の誰でもなくアナなのだ。


「大丈夫よ、アナ。やり遂げて見せるわ」




 大聖堂に着き、アナは付添人のアメリに迎えられた。彼女は馬車から降りてきた花嫁を軽く抱擁した。


「アナ、とても綺麗よ。ルクレール家の皆さまはまだ到着されてないわ」


「アメリ、至急控え室で手伝って欲しいことがあるの。私先に行っていますから、足元に気を付けて来てね」


 裁縫道具を持ってきたアナは控え室に急いだ。そこでアナがまだドレスを脱いでいるところへアメリが遅れて入ってきた。


「アナ、何? どうしてドレスを脱いでいるの?」


「この腰回りの縫い目を見て。巧みに数針おきに切ってあるの。式前までになるべく補強しておきたいから手伝ってくれる?」


「誰がこんなことを! 許せないわ!」


 アナは既に縫い始めながら言った。


「貧乏貴族もなめられたものね。刺繍しか能のないお嬢さまとはわけが違うのよ! ちゃんとほつれているのも分かるし、時間さえあれば自分で縫い直すことだってできるのだから!」


 アメリはアナの本気の怒りを見て驚いた。いつもはあんなに温厚な彼女からは想像も出来ない。


「アナ、こういうことは初めてじゃないのね」


 アメリは手を動かしながら聞いた。


「ええアメリ、でも今はお喋りしている場合じゃないわ。ただ、ルクレールさまにもご両親にも誰にも言わないで欲しいの。ルクレール侯爵家の婚姻に水を差したくないわ」


「でも……」


「敵の狙いは私だけよ。一人で乗り切って見せるわ」


 そこで控え室の扉を叩く音がしたと同時に扉が開きながらジェレミーの声が聞こえてきた。


「おい、何やってるんだ、父上が心配し始めたぞ。アンタの父上だって、って何て格好だ!」


 ジェレミーは白い両肩も露わなアナの下着姿に驚いて目をらした。


「もう、ジェレミーさま! 女性の控え室にいきなり入って来るなんて!」


 アメリは立ち上がって彼を追い払おうとしている。


「これから式が始まろうって時に下着一枚になっている方が悪い!」


 アナはあまりに運針に必死なため、ジェレミーにみっともない姿を見られたことを気に留めている余裕もなかった。手元からは目を離さず、手を常に動かしながらピシャリと言った。


「ルクレールさま、あと十五分、いえ十分で参ります。私の不注意で花嫁衣裳を引っかけてしまい、今つくろっているところですので」


「十分だな! それ以上は一秒たりとも待てないぞ。今日は姉上もいらしてるんだ。それを忘れるなよ!」


 ジェレミーは後ろを向いたままそう言うと去っていった。アメリは再び針に手を戻して文句をたれた。


「もう何、あの態度。ねえアナ、ジェレミーさまに本当のことを言わなくてもいいの?」


「いいのよ。今はとにかくこのスカートが出来るだけ長くもつように努めるのが先決よ」


 二人はそうしてぎりぎりの時間まで針を持つ手を止めなかった。


「本当にこれで大丈夫かしら」


「そう思いたいわ。そろそろ着ないとね」


 もしスカートが落ちそうになったら魔法で支えればいいのだ。


「さあ行きましょうか」


 アナはそう自分に言い聞かせ、大聖堂の入口で待っている父親のジョエルの所へ向かった。




「アナ、綺麗だよ。お母様も見たかっただろうなあ、お前の花嫁姿」


 涙ぐんだジョエルはしみじみと言った。


「お母さまは空の上から見ておいでですわ、お父さま」


(そう、私がどうしてこの結婚をするかも天国のお母さまにはお見通しよね……でもこれもお母さまが愛したボルデュック領のためだわ……)


 アナはこの日のために魔法防御壁を見よう見真似で練習していた。騎士道大会の時に見た、クロード副総裁が作っていたあのような大規模なものではない。自分と父親の周りを取り囲む小さなものだ。


 アナが作れる壁はまだ薄く、ところどころ穴も開くことがあったが、ないよりはましだ。ただ、スカートが落ちかけたら壁はやめてスカートを支えるのに専念すべきだった。アナは二種類の魔法を同時に長時間持続させる自信があまりなかった。


 アナとジョエルは二人腕を組んで大聖堂に入場した。アナの、ルクレール新侯爵夫人としての戦いが始まった。



***ひとこと***

遂に二人が結婚する日がやって来ましたが……再び窮地に立たされるアナでした。

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