第三十条 消滅

 ニッキーとして飲み屋でピアノを弾く時だけは邪念や悩みを心の奥に押しやり、演奏に集中するようにした。ある日イザベルに指摘される。


「ニッキーは最近何だか切ない音色ばかり奏でているわね。何かあったの?」


 あまりにも的確な批評で戸惑ってしまった。


「イザベルさん、もっと明るい曲を弾きましょうか? 湿っぽくなってしまいましたか?」


「別に、それが悪いって言っているわけじゃないのよ。去年ここで働き出した時から比べると貴女は随分と大人になったな、って思ったのよ」


「そうでしょうか?」


「ニッキーも恋を知ったのかしらね?」


「え? そ、それは……」


 ニッキーは少し赤くなって頬を染めた。確かに上京してから恋も知り、他にも色々なことが起こった。ニッキーとアナも苦労を重ねて少しは成長したのだろうか、と考えた。




 ニッキーはジェレミーが来店している時は彼が好きだという曲を必ず一曲は弾いた。残されている時間はあと数日だけ、彼のために心をこめて精一杯演奏したかった。


 今晩は同僚何人かと来店していたジェレミーは彼らに揶揄からかわれているようだった。


「ルクレールも年貢を納める時がついにやって来たかぁ」


「もうこれからは今までのようにちょくちょく飲み歩いたり、男同士で遊びに出かけたり出来なくなるぞ」


「まあな」


 ニッキーはそんなことはないだろう、と思った。ジェレミーは結婚しても何かが変わるわけではない。屋敷の中で部屋が移るだけだ。名目上の妻がその隣の部屋に越してきてルクレール家で世話になる。


 二人が顔を合わせるのは、時間が合えば朝食と夕食時、他には夫婦として公の場に出かけないといけない時くらいのものだろう。




 飲み屋は客の数も少なくなってきて、イザベルはニッキーにもう上がってもいい、と言ってくれた。ピアノの蓋を閉めて店の奥に荷物を取りに行こうとすると、ジェレミーが話しかけてきた。


「ニッキー、ちょっといいか。話がある」


「はい、何でしょうか?」


「ここではちょっとな、表で待っていてもいいか? 送って行きたいが今日は馬車じゃないんだ」


 ジェレミーは少しためらいがちに言った。そんな彼を見たのは初めてのニッキーは驚きで目を丸くした。店の中では言えないような話とは何だろう、と疑問に思ったが、荷物を持って店から出て彼の所へ向かった。


 今夜が最後になるかもしれないし、ジェレミーと少しでも一緒に居たいと考えてしまうのはしょうがなかった。




 店の正面から少し外れた場所でジェレミーは壁にもたれて待っていた。そこは皮肉にもアナが初めて彼に声を掛けた場所である。


「お待たせしました、ジェレミーさま」


 ニッキーはジェレミーに声を掛け、二人は人目につかない店の横へと移動した。


「ニッキー、この間の王宮楽士の話だけどさ、身分や楽器の腕前も必要だけど空きがあれば紹介で就けるらしい。要はコネで決まるんだよ」


「そうなのですか」


「もしお前が良ければ、紹介状を書くけど……」


 ジェレミーはいつもの自信にあふれた様子とは明らかに違う。


「お気持ちは嬉しいのですが……分不相応な勿体ないお話です」


「何をしようとお前の自由だろうけど、このまま一生酔っ払いのためにピアノを弾いていたいか? 飲み屋の仕事なんて辞めてしまえ。これから別の仕事に就くにしても何にしても俺の屋敷に来ないか?」


 ニッキーの嫌な予感が当たり、頭の中で危険信号が点滅し始める。すぐにでもここを去らないと駄目だ。


「ジェレミーさまのご心配には及びません。自分なりに将来のことは考えています。でもお心遣いありがとうございます。し、失礼します」


 ニッキーとしての将来はない。ただ消えるだけだ。ニッキーはペコリと頭を下げてその場を去ろうとしたが、ジェレミーに腕を掴まれてしまった。


「おい待てよ。ニッキー、お前家にピアノはあるのか?」


「い、いいえ」


 ゴダン家にはピアノはあるが、まず庶民でピアノなど所有している家などないだろう。実家のボルデュック家のピアノはもう売ってしまってない。だから嘘ではない。


 今のうちに何とか退散しなければならない。しかし、片腕をしっかりとジェレミーに掴まれたままだ。


「俺の屋敷にはある。離れに運び入れたらお前がいつでも好きな時に来て思う存分弾けるように出来る。何ならそこに住んでもいい。俺に都合のいい、身勝手な事を言ってるって分かっているが……」


 ニッキーは息を飲んだ。そんなこと出来るはずもない。もう本当にダメだ、この状況に陥る前に消えてしまうべきだった。


「で、できません! どうしても駄目です」


 ジェレミーは悲しそうな顔をした。こんな表情の彼はニッキーもアナも今まで見たことがない。そしてジェレミーはニッキーを引き寄せてきつく抱きしめた。


「ニッキーそんなこと言うな。お前や世間が思っているようなことはないんだ、詳しくは言えないが、だから……ああ、ニッキー……」


 夢にまで見たジェレミーの腕の中に居るというのに嬉しさなど一かけらも感じられず、ニッキーはこんな形で彼を傷つけてしまった罪悪感で一杯だった。涙が出てきそうだった。


 ジェレミーはニッキーの顎に手をかけてキスをし始めた。彼に対する愛しさがこみ上げてきて、駄目と分かっていても拒めるはずがなかった。


 キスは段々激しくなってきて、もうこれが最後だと、ニッキーは自らジェレミーの背中に腕を回して彼を抱き締めた。そこでジェレミーの腕が少し緩み、キスはニッキーの耳たぶから髪へと移った。


 ニッキーは未練を断ち切り、ジェレミーからそっと離れて頭を深く下げて謝った。


「本当に申し訳ありません、ダメです、どうしても出来ません……さようなら、ジェレミーさま……」


 そして一目散に走って逃げた。


「お、おい! 待てよ!」


 普段から体を鍛えているジェレミーはすぐに追いつけると思いきや、ニッキーは二つ目の角を曲がったところで闇に紛れて忽然と姿を消してしまった。


 それ以来、ジェレミーが飲み屋でニッキーを見かけることは二度となかった。



***ひとこと***

超レアモード、殊勝な態度のジェレミーさまでした。

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