第二十九条 苦悩
同時にジェレミーとニッキーの関係も転換期を迎えようとしていた。ある夜ニッキーは彼に聞かれる。
「お前、王宮楽士として働くことを考えたことはないのか?」
「いいえ、滅相もございません」
「どうしてだ? 貴族でなくても楽士にはなれるぞ」
「この程度弾ける人間はごまんとおりますし……」
「試してみないと分からないだろ。王宮の仕事は生涯安定だぞ」
「それでも私はいつまで王都に居られるかも分かりません……」
「そんなこと言うな、少し調べてみてやる」
ニッキーは複雑な気持ちだった。ニッキーで居られる時間ももうすぐ終わりだとは重々承知していたが……領地の問題も、ルクレール家のことも、学院も何もかも投げ出してニッキーとして気楽に生きていけたら……飲み屋でピアノを弾いて、ニッキーには優しいジェレミーに時々会えるだけで幸せだと思ってしまうのだった。
その夜、ゴダンの家に帰ってアナの姿に戻ると、ますます醜い考えに取りつかれてしまった。彼女はジェレミーに少しでも将来のことを心配されるニッキーが羨ましかった。アナがニッキーに嫉妬するなんて矛盾していると言うよりも、意味がない。
この頃からアナは気疲れがひどくなってきていた。
王都に再び夏がやって来た。ジェレミーはついに侯爵位を譲り受けたが、アルノーとテレーズ前侯爵夫妻はまだ王都の屋敷に留まっている。
テレーズの方は特に婚姻の準備で忙しくしている。アナは彼女に指揮を任せ、自分は手伝いにまわった。王家に嫁いだミラは別としても、テレーズはフロレンスと養女のビアンカも嫁がせていて経験豊富だったからだ。
テレーズはボルデュック家の内情もそれとなく理解してくれていて、全てルクレール家の出費で準備が進められた。ボルデュック家が出費するにしても結局はジェレミーの援助から払うことになるのでどっちみち出所は一緒だった。
ジェレミーは式の準備には興味ないとはいえ、アナと同様あまり華美にしたくない、ということで時々テレーズの暴走を止める役である。
王族は臣下の婚姻には出席しないのが習わしだが、王家からは新郎の実の姉であるミラ王妃だけが出席することになっていた。それに新侯爵の結婚ゆえ、形式だけはきちんとしないといけない。
テレーズはジェレミーの花婿衣装も新しく仕立てたがったが、彼自身は近衛の正装でも何でもいいと相変わらずそっけない。
「でも折角だからジェレミーも黒の礼装を作りましょうよ」
「ルクレールさまは近衛の白い正装が一番素敵です。私はそのお隣に花嫁として並べるとしたらとても幸せですわ」
アナはこれだけは譲らなかった。テレーズはそれでも、と言いかける。しかし、招待客も料理も花嫁衣装でさえも、他のことには全て何も意見を言う事もなかったアナだったのだ。
『どの程度にすればルクレール侯爵家に相応しいのか私には全く分かりませんから、特に希望はございません。テレーズさまが良いと思われるようにお決め下さい』
何事にもそうしてテレーズの決断に任せるのに、何故かアナはジェレミーの衣装だけは近衛正装がいいと言う。テレーズはそれくらいならアナの願いを聞こうという気になった。
「アンタ俺の近衛正装姿なんて見たことあったか?」
アナは一瞬しまった、と思った。ニッキーはジェレミーの正装を何度も目にしていたが、アナは……どうしてジェレミーはそんなどうでもいい細かいことを覚えているのだろうか。アナは必死で頭を回転させ、記憶を
「私が初めてこのお屋敷にお邪魔したときに正装姿でご帰宅されていましたわ。その時です、何て凛々しいお姿なのだろうと見惚れてしまいました」
頬を染めてはにかみながら言った。このくらいの芝居ならテレーズの前だからいいだろう。実際アナにとっては芝居ではなくそれが本音だった。彼女はボロを出さずにすんでほっとし、笑顔を見せた。
あの近衛の正装姿のジェレミーと祭壇の前に立てるなんて、アナは王国一の果報者だと思った。
あともう一つだけ、アナは希望を言った。花嫁の付添人はどうしてもアメリにやってもらいたかった。
「そうね、今度はアメリさんもリュックさんと一緒に付添人を務めさせてあげられるわね」
テレーズもその案には乗り気である。怪我が完治していなく、杖がないと足元が不安なアメリは辞退しかけたがアナが是非と頼み込み、承知してもらった。
それからアナはアントワーヌも招待して祝ってもらいたかった。しかしどうしてもジェレミーやテレーズに言い出せなかった。家同士付き合いもない男爵家の次男を呼ぶのはどうだろうか、と疑問に思った。
ジェレミーとアントワーヌは知り合いのようだから、ジェレミーが招待しないのならアナが呼びたいと言うのはきっと良くないのだろうと結論付けた。前回アントワーヌに会った時にアナは招待出来なかったことを正直に詫びていたのである。
「ごめんなさい、アントワーヌ。貴方にも是非式に来てもらいたかったのですけど……その、恥ずかしいことに費用は全てルクレール家もちで……どうしても私から貴方をお呼びしたいとは言い出せなくて」
アントワーヌは経済的援助が理由でアナがルクレール家で肩身の狭い思いをしているのでは、と心配だった。
「お気になさらないで下さい、アナさん。実はルクレール中佐が招待して下さったのですが私自身の都合で辞退させていただいたのです。式には行けませんが、お二人のご結婚は心からお祝いしていますよ」
「そう、ルクレールさまが……ありがとう、アントワーヌ」
アナが王都に出てきて一年、彼女の身の回りの変化は目まぐるしかった。乗合馬車で酷暑の中、一人でゴダン家に来たあの日が遠い遠い昔のことのようだ。
今年は気候も良く、領地では作物が無事に育っていて実に数年ぶりにまともな収穫が見込めそうだった。何もかも順調なはずだったが、アナの心労は変わらず、最近は夜もろくに眠れなくなってきていた。悪夢にうなされることも多くなった。
ニッキーとしてジェレミーのためにピアノを弾いていたのに、いきなりアナの姿に戻ってしまい、ジェレミーの失望したような顔を目の当たりにして目が覚めたことがあった。
ある時は無事に結婚式も済むものの、ジェレミーがあのマチルダといつも親しげにしていて、アナは一人放っておかれる夢も見た。
そして、学院で好成績を修められず、失意のうちにボルデュック領に帰る夢のこともあった。
アナは精神的にかなり参っていたが、領地や家族のことを考えて自分を奮い立たせた。式まであと二週間にせまり、準備はほぼ整ってきていた。それはニッキーとアナの二重生活が終わることを意味している。
***ひとこと***
アナは幻の三角関係の重圧に押しつぶされそうです。
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