第二十八条 葛藤
その翌朝、起きたばかりのアントワーヌはある人物から自宅で報告を受けていた。
「ふうん、アナさんは瞬間移動まで出来るの? それはすごいね……助けが入らなくても自分で切り抜けられたようでまずは良かったけど」
「もう一つ若にご報告することがございます。時々彼女は少年の姿に変身して外出しております」
「僕が一人歩きは危険だって言ったから、姿を変えて出かけているのかな?」
「いえ、そうではなくて去年からその少年姿で、ある飲み屋でピアノ弾きの仕事をしているのです。そこで意外な、しかし当然と言えば当然の人物と接触しております」
その男はアントワーヌにニッキーの行動を説明した。
「ははは、それは大変興味深いねぇ」
「姿は変えるわ、自由にあちこち出没しては消えるので、最近やっと尻尾を掴みました。彼女ほど見張るのに手こずったことはありません」
アントワーヌはその言葉にクスっと笑った後、少し考え込む。
「ねえドウジュ、僕たちもアナさんの手を少々お借りできるかもしれないね」
彼は独り言のように呟き、再び考えに
アナは昨夜の疲れが取れないまま朝を迎えた。朝一番にサンドリヨンがビアンカからの手紙を持って飛んできた。
『昨夜は色々と大変でしたね。実はサンドリヨンにアナさんを見守るように頼んでおいたのです。
彼女によると仲間の鳥や動物たちと意地悪を働いた人物全員の後をつけて、彼らがそれぞれ自宅に着いた時に復讐したのですって。
葡萄酒をかけた方には残飯のトマトや苺を投げつけ、ドレスに赤い染みを付けてやったそうです。
部屋に閉じ込めた人たちには犬が飛びついて転ばせ、その上頭上から色々落とし物をしたとか。
やり返せたのはともかく、アナさんのことが心配です。ビアンカ』
本当に賢い動物たちである。奴らがまだルクレール家の敷地内や門の前に居る時だったら、こちらの責任や安全管理の不備を問われかねない。
「サンドリヨン、ありがとう。仕返しなんて危険なことをしなくても良かったのに。でも正直言うとね、最悪の気分だったのよ。少し気持ちが晴れたわ。ビアンカさまにもお礼の返事を書くわね」
次の機会にアナがルクレール家を訪れ、ジェレミーと二人きりになった時にアナは聞かれた。
「先日サヴァン家で俺の同僚たちがアンタに失礼な事を言ったそうじゃないか」
アメリがジェレミーに言ったに違いない、とアナは苦々しく思った。
「そこまで悪意があったとは思えませんでしたし、面と向かって言われたわけではありません。彼らがルクレールさまのことをお話しになっている時に通りかかって耳にしただけです」
「いや、でも……」
「私、こういうことはしょっちゅうで慣れております。それに、あの方々がおっしゃっていたことも……全てではございませんがほとんど本当のことです。ルクレールさまのご婚約は、それだけ口の
まただ、アナにこう突き放されたような態度を取られるのは……とジェレミーは思った。彼女は時々ジェレミーに比べて自分は何の価値もない人間であるような言い方をする。
(ルクレールさまのご婚約ったって、アンタの婚約でもある訳だろーが……)
「しかし……それからうちの晩餐会でも色々と嫌がらせをされていたろ、何で言わない?」
(これはビアンカさまから聞いたのね)
アナは心の中でため息をついた。
「ルクレール家に迷惑がかかるほどではなかったので……でも、以後気を付けるように致します」
「俺たちをあの部屋まで連れて行った女を俺は知らなかったが、父上の知り合いの娘だ。他には誰にやられた?」
「先日は紹介された方が大勢すぎて、お顔とお名前が一致しないので……私がうろ覚えなのにありもないことを発言するのは不適切だと……」
ジェレミーはアナのその答えに納得しなかった。
『私が何を申しても貴方さまが特に何かして下さるわけではありませんよね』
しかしアナは言外にそう示している気がし、ジェレミーは結局問い詰めることはしなかった。それにアナの方も口を割る気はなかった。
テレーズが以前、マチルダのシャルティエ一家との付き合いは長いと言っていた。マチルダはあのジェレミーがベタベタされるのを許すくらい親しいことからも分かる。アナは自分のせいで両家の関係に波風を立たせたくなかった。
それに、証拠も無いのにマチルダから嫌がらせを受けた、とアナが言ってもジェレミーはきっと信じないだろうとアナは信じている。彼女はアナという婚約者がいるジェレミーにシナを作ってまとわりついて、彼もきちんと相手をしていた。あの意地悪なマチルダの肩を持つジェレミーなど見たくはないアナだった。
実のところジェレミーはマチルダの両親や自分の両親の手前、鳥肌やじんましんが出そうなのを我慢して邪険に振り払わなかっただけである。彼はマチルダのような女が一番苦手だった。
ジェレミーにしてもどうして相談しないのか、とアナを責めてしまったが、サヴァン家でも自宅でもアナを一人にしておいたのは他でもない自分だということは重々承知だった。
女同士の醜い争いに巻き込まれるのは勘弁してほしいジェレミーだった。しかしいくら形式上の婚約者とは言え、アナはもう少し自分を頼ってくれてもいいのではないかと最近は思うようになっていた。
煩わしいのが嫌でアナと契約を結び、アナは干渉してこないという契約内容を忠実に実行しているというのに、ジェレミーは自分の身勝手な考えを少々持て余していた。
「ところでアンタ、もしかして魔力持ちなのか?」
「え? ええ。少々ですけど使えます」
「やっぱりそうだったのか……」
ジェレミーはアナが魔術を使えるということも知らなかった。赤ワイン色に変わっていたあのドレスを見て初めてその考えがよぎったのだ。自分の姉である王妃が変幻魔術だけは得意で、小さい頃から良く見ていたので分かる。
もしかしてアナは学院の魔術科に入れるくらいの魔力があるのだろうか、とジェレミーは考えた。
中途入学試験を受けることをジェレミーが許可した時にアナは大層嬉しそうにしていた。今まで自分には見せたことのないような笑顔になっていた。しかし今更である、学院では魔術科に行くのか、とはプライドが邪魔をしてジェレミーは自分の口から聞けなかった。
最近は婚約したという噂が広まって随分とジェレミーの身辺は静かになり、例えば騎士団の稽古場ではうるさい女どもが激減し、過ごしやすく快適になった。
その上アナは特に用事がない限り何も言ってこないし、ジェレミーは気が楽だった。契約結婚も悪くないと思い始めたところだった。
それが契約内容だと言ってしまえばそれまでだが、だからと言ってアナが嫉妬深い女達から虐められてしまうのはあまりに気の毒だ。それなのに本人は別にジェレミーの助けはいらない、一人で対処できると言い張る。ジェレミーは何だか面白くなかった。
しかも彼はビアンカやアメリにはもっとアナを気遣えとせっつかれている。特にアメリの方はまるでジェレミーが全然気の利かない最低野郎みたいな言い草だった。
(何でそこまで俺だけ非難されないといけないわけ?)
実のところ少しずつだが確実に、ジェレミーにとってアナは形式上の婚約者以上の存在になりつつあったのだ。
***ひとこと***
動物さんたち、倍返しです。良くできました! マチルダさんとお仲間たち、相手が悪かったですね。
さてジェレミーさまの苦悩が始まります。せいぜいお悩みなさい!
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