第二十七条 罠

 ルクレール家の自室に瞬間移動して戻ったそのわずか数分後、アナはルクレール家の庭に再び出ていた。早くジェレミーか、伯父一家か、とにかく誰かを見つけて一緒に居なければ、と焦っていた。丁度そこへジェレミーと目が合った。


「おい、何処へ居たんだ、両親が探して……ってアンタ、そのドレス……」


 流石に気付かれたようである。アナは先程と同じドレスだったが、色はクリーム色ではなく全面赤ワイン色になっていたのだった。


 変幻魔術を使ったのである。ジェレミーとの婚約が決まってからというもの、アナは衣装代を節約するために、古いドレスを魔術でスタイルや色を少々変えるということには慣れていた。染みと同じ濃い色にすれば晩餐会の間はずっと魔法の効果を持続させられるという自信があった。


 アナはあまりにへこんでしまっていて、と言うより今は怒りに燃えていてジェレミーに微笑む余裕もなかった。その代わりに感情のこもらない表情でジェレミーの美しい緑色の瞳をしっかり見つめながら一言だけ発した。


「着替えました」


 アナのドレスを見たアルノーとテレーズも何か問いたげにしていたが、アナのただならぬ様子に口を閉ざした。


『何もお聞きにならないで下さいませ』


 そう彼女は全身で訴えていた。不審な顔をしていたジェレミーも結局何も言わなかった。


 アナは食事が喉を通るはずもなかったが、無理やり笑顔を張り付け、人に心配されない程度には食べ、会話もそつなくこなす。


 葡萄酒まみれのアナが泣きながら庭を走り抜けて行くのを今か今かと待っていたのだろう、マチルダは少々遅れて食事の席に着いた。アナが何事もなかったかのようにワイン色のドレスを纏っているのを見た彼女の表情は、アナの溜飲を下げるのに十分だった。




 食事が済んだ後、アナは再びめられてしまう。


 アナがお手洗いに行ったところ、後から入ってきた女性に声を掛けられた。紹介はされたが名前をはっきりと覚えていない。


「アナさん、先程弟さんが少々気分が優れないとおっしゃって客用寝室でお休みよ。廊下の角の茶色の扉の部屋ですわ。様子を見に行って差し上げたら?」


 確かに弟のテオドールは学年末の試験勉強のため、最近寝不足気味だった。アナは女性に礼を言い、そこへ急いだ。その茶色の扉を叩いて声を掛けてみるが返事がない。後から考えれば自分の軽率さに無性に腹が立った彼女だった。


「テオ、大丈夫ですか?」


 中からかすかなうめき声が聞こえた。


「う、うー」


 そんなに気分が悪いのだろうかとアナは心配になった。


「テオ、入りますよ?」


 扉を開けた途端、アナは背中を何者かに押され部屋の中に倒れ込む。そして彼女の後ろで扉がバタンと閉まった。アナはやられたと思い扉を開けようとするが、案の定開かない。外から鍵は掛けられないはずなのに、どういう事か理解できなかった。


 部屋の中は暗かったが闇に目が慣れてくると、酔った男性客が寝台に横になっているのが見えた。もちろん弟ではない。再びまんまと罠にはまってしまった。男と二人きりで部屋に居るところを誰かに見られるとまずい。


 魔法で簡単な錠なら開けられるが、今この扉から出ていくのを目撃されるのも良くないだろう。


 寝ていればよいものを、男はムクリと起き上った。出来れば瞬間移動するところは見られたくない。敵にわざわざ手の内をさらしてやることはない。


「おぅ、お嬢さん。俺の相手をしてくれるってのは貴女かなぁー?」


 などとぬかしながら男はアナに抱きつこうとする。気持ち悪くて鳥肌が立ち、アナは両手を男の方へ突き出し


「あちらへ行ってください!」


と言いながらポンっと言う音と共に攻撃魔法で男を寝台の方へ吹っ飛ばした。男が気を失ったのと同時に再び自室へ瞬間移動した。




 そしてアナが自室から出て階段を下りているところに、先程の女とジェレミーが例の部屋に向かっているのが見えた。


「アナさんがお手洗いで気分が優れないとおっしゃっていたから、すぐ近くのあちらのお部屋にお連れして休ませて差し上げました。ご様子をうかがって下さいませ」


 案の定である。ジェレミーは渋々といった感じで女性について行っている。きっと友人達とカードかチェスで遊び始めたところを邪魔されて機嫌が悪いに違いない。


「食事の前から少々様子がおかしかったですものね」


 そう言ったのはテレーズだった。アルノーまで居た。アナはそっと一行の後について行った。


 その客用寝室の前には大柄な男が立っている。こいつが扉を外から押さえていたのだろう、道理でアナの細腕では開かなかった筈だ。女性は茶色の扉を指差した。


「あの部屋ですわ」


 不機嫌なジェレミーが扉を叩く。


「おい、大丈夫か? 入るぞ?」


 彼は取っ手に手をかけたが扉は開かなかった。ご丁寧にアナが扉から離れて部屋の中に進んだ後、すきを見て内側から鍵を素早く掛けて再び扉を閉めたようだった。


「中から鍵がかかっている」


「セブに鍵を持ってこさせよう」


 アルノーがセバスチャンを呼びに行こうと振り向いた時に後ろにいたアナに気付いた。


「アナ! 気分が優れないのではなかったのか?」


「ええ、少し。でももう大丈夫ですわ。自室から下りてくる時に皆さまがこちらに向かわれているのが見えてついて参りましたが、何をされているのですか?」


 アナに声を掛けた女性と大柄な男性の狐につままれたような顔は傑作だった。


「では、この部屋にはどなたが?」


 執事のセバスチャンが鍵で扉を開けると、そこにはズボンを濡らした酔っ払いが一人寝台の前の床にのびていた。アナは彼の無様な姿を見て、品がないとは思いながらもフンと鼻をならさずにはいられなかった。


(空圧の魔法でやっつけたつもりだったのに、少し水も放出してしまったわ。ごめんあそばせ。私も攻撃魔法はまだまだね)


 ジェレミーはそんなアナを何か問いたげな顔で眺めていた。




 波乱の晩餐会の後、アナはテレーズにもう夜も遅いし疲れただろうから泊っていきなさいと言われるが、丁重に断ってゴダン一家と弟と共に帰宅した。


 ジェレミーは何か気付いた様子だったし、色々聞かれても今は何も答える気にはとうていなれなかったのだ。


 それに、婚約しているとは言え、ルクレール家で朝を迎えるのは結婚までは控えたかった。とにかく早く一人になりたいというのも本音だった。


 馬車の中でもアナは終始無言だった。特に伯母はアナのドレスのことが気になっていたが、彼女の様子を見守るだけに留めておいた。それだけ今夜のアナは有無を言わせぬような、何か思いつめた表情だったのだ。



***ひとこと***

アナ頑張って! こんな意地悪に負けてはいけません!

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