第二十四条 送り狼

 アナは結婚までの短い期間、ニッキーとしてピアノ弾きの仕事に精を出すことにした。


 アントワーヌに言われた通り、彼女は一人で街中を徒歩で移動するのはやめ、ゴダン家やルクレール家の馬車を借りるのは申し訳ないが時々は使わせてもらった。なるべく節約したかったが、辻馬車も使うことにした。身の安全の為ならしょうがない。


 誰にも知られていないニッキーの時は、好きに街中を歩き回れて随分と気楽だった。




 ジェレミーはニッキーを飲み屋の帰りに送ると言ってきかず、一度強硬手段に出られたことがあった。


 徒歩のニッキーを侯爵家の馬車でつけてきたのだ。ゴダン家までついて来られると非常にまずい。


「あの、中佐さま、何をなさっているのですか?」


「お前を送っているところだ」


「……お気持ちは有難いのですが、貴重なお時間を無駄になさらないでください」


「俺が送るって言ったのに一人で帰らせて、お前がエロオヤジや痴女に襲われたら寝覚めが悪いだろ。そんでもってお前がどうしても俺の馬車に乗りたくないって言うからこうするしかない」


 以前イザベルの言ったとおり、ニッキーはジェレミーと二人きりになる方が身の危険を感じていた。


(それに住んでいるところを知られるのは……どうしよう……)


「でも、もうすぐですから本当にここまでで大丈夫です」


「お前も強情だな」


 ジェレミーは何と馬車から降りて、ニッキーと並んで歩きだした。


「中佐さま!」


「お前が馬車に乗るのを拒むからだろ。俺の時間を無駄にしてると思うんだったらさっさと乗れ!」


「でも……(本当にどうしよう……ニッキー、大ピンチだわ……)」


「力ずくで押し込められたくなかったら自分で乗ろうな! ただ家まで送るだけで馬車の中じゃ何もしないって誓うからさ」


 ニッキーはそこで観念して馬車に乗った。


「わ、分かりましたから」


「お前家どこ?」


「プラトー地区のリヴァール通りです」


 ニッキーはジェレミーの向かいに座った。この馬車でジェレミーと一緒の時、いつもアナが座っているところである。アナは一人の時はジェレミーが座る後ろの座席に着く。


「何がもうすぐだよ、歩いたら結構かかるぞ。しかもお前反対方向に向かってたよな。俺をく気だったのか?」


 ハイ、正にその通りですとも言えず、ニッキーは黙り込んでしまった。しばらく沈黙が続いた後、ジェレミーが口を開いた。


「ニッキー、お前苗字はなんだ?」


「ル、ルヴェンです。ニッキー・ルヴェン……」


 ニッキーは咄嗟に思いついたでっち上げの名前を言う。これ以上下手に質問されたくなかった。これからはもっと気を付けなくては……


「なあ、もう中佐はやめて名前で呼んでくれるか?」


「え? では……ジェ、ジェレミーさま」


(ああ、本当はこうして貴方のお名前をお呼びしたいのはアナの方なのに……)


 ニッキーはそう名前で呼びながら切なそうにジェレミーを見つめた。彼の緑色の瞳は嬉しそうに微笑みをたたえていた。




 馬車はリヴァール通りに入り、ニッキーは窓から御者に少し先の白壁の家の前で止まるように頼んだ。


「あの、送って頂いてありがとうございました」


「ヒュー、降りなくてもいいぞ。俺が行くから」


 ジェレミーは御者に指示を出し、ニッキーが馬車を降りようとすると彼自ら馬車の扉を開けてくれた。


 そして自分が先に降りるとニッキーに手を差し出してくれた。


 ニッキーは少し躊躇いながらもその手を取り、馬車を降りようとしたところその手をジェレミーに引かれそのまま口付けられた。ニッキーは彼の胸を押して抵抗を試みるも、数秒間キスを続けられた。


「お、お約束が……」


「俺は馬車の中じゃ何もしないって言っただけだ。お前、馬車から出てるよな」


「ななな、何を……」


「約束は破ってないぞ。じゃあな、お休み」


「お休みなさいっ! ありがとうございました!」


 ジェレミーはニヤニヤしながらニッキーが家に駆け込むのを確認してから馬車を出発させた。


 その家の本当の住人は暗闇の中から一部始終をずっと見ていたのである。


(これって不法侵入だけど、まあ見逃してやるか)




 それ以来、なんだかんだと言って何度かニッキーはジェレミーにこの白壁の家まで送られることになってしまった。


「送ってやるからキスだけさせろ。キスも首から上と手以外にはしないからさ」


「えっ?」


「誓って手と口と舌以外では触らないし、服に隠れている部分には指一本触れない。約束だ。騎士に二言はない」


「えええっ?」


(よ、要するにジェレミーさま、本当はそれ以上のこともなさりたいという事よね……)


 そして真っ赤になったニッキーを、有無を言わさず馬車に乗せた。しかしジェレミーは約束通り毎回ニッキーを無理矢理どうこうしようとも、キス以上要求することもなかった。


 ジェレミーの立場ならニッキーを望めばなんとでもなる。平民を装っている身としては侯爵様の御意向に逆らうわけにはいかない。ニッキーはいざという時には瞬間移動でも何でも、とにかく逃れる心構えはしていた。


 アナとして彼に嫁ぐと決まっている身であるから、相手は同じでも純潔を散らすわけにはいかなかった。そして例え結婚して彼と夫婦の契りを結ぶことがなかったとしてもだ。


 ジェレミーはその警戒心を察してかどうなのか、約束をたがえることはなかった。




 さて、送ってもらう度にニッキーは家の中に入り、ジェレミーが去るのを待ってから瞬間移動で伯父のゴダン家まで帰っていた。


(このお家の方、毎回勝手に入ってごめんなさい。もう少しでこれも終わりますから)


 ニッキーとして会うジェレミーともうすぐお別れだと思うと、胸の奥がズキっとうずいた。


 実はこの家はいつも灯りが点いていなかったが、住人は大抵居たのだった。


(ニッキーさんよ、キスだけで済むうちに止めとけよ。深入りして面倒なことになる前にさ。全く、危なっかしくてこっちの方がハラハラさせられるじゃねぇか! それにしても、これが魔法ってのか? 便利なものだな。いつも錠を開けられちまうし、一瞬にして消えるし……)


 ニッキーが仮の家として利用させてもらっていたのは、先日アナがアントワーヌに言われて出向いたあの家だったのだ。




***ひとこと***

正確には送り狼にはなっていませんが、ジェレミーさま、貴方ねぇ……一歩間違えればストーカーの上にセクハラですよ。

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