第二十三条 用心

 アナはその夜帰宅してアントワーヌに手紙を書いた。いつも彼の好意に甘えて頼ってばかりだ。けれど彼の他に誰に相談できるだろう。アメリくらいか。でも彼女からひょっとジェレミーの耳に入るとまずい。


 聞きたいことがあるからアントワーヌの都合のいい時にこちらから訪ねると申し出たら、翌日の夕方に意外な場所を指定された。中流階級の平民ばかりが住む住宅地にある小さな家に、地味な身なりで来て欲しいとのことだった。


 アナがその家に約束の時間少し前に着くと、アントワーヌは既に居て彼女を待っていた。彼まで平民のような質素な服を着ていた。


「どうしてわざわざこのお家で会うことにしたのですか?」


「アナさんはもう婚約されているから、お互いの屋敷を行き来するのはまずいかなと思っただけですよ。ここは我が家の通いの使用人の家です」


 アナは何かが腑に落ちなかったが、それ以上聞くことはやめた。


 彼はアナの学院入学をとても喜んでくれた。彼や弟の後押しがあったからこそ、アナもここまで頑張ろうという気になれたのだ。


 ビアンカの忠告をアントワーヌに相談すると、彼はすぐに口を開いた。


「ビアンカ公爵夫人のおっしゃる通りです。護衛を一人お貸ししますよ」


「まあ、アントワーヌ、貴方って色々な職の方をご存じなのね。でも申し訳ないわ。どんな事に気をつけたらいいか、知恵をお借りできないかしら。私のせいでルクレール家の名誉に傷がつくのだけは避けたいのです」


「アナさん、貴女ならどうします? 自分が好きで憧れている人がある日突然他の女性と婚約してしまったとしたら」


「悲しいけどその方のお幸せを願います」


 アントワーヌは微笑んだ。


「アナさんならそうでしょうけど。相手の女性を陥れてあわよくば自分が代わりに婚約者に収まろうと考える人間もいるのですよ」


「そうでしょうか。嫉妬する気持ちは分からないでもないですけど、人に危害を与えるなんて私には理解できませんわ。では、もし嫌がらせをされるとしたら、どういった事をされるのでしょう?」


「嫌がらせにも色々あるでしょうけど、そうですね、貴女が彼と婚約するに相応しくない、という噂を流すとか……」


 そこでアントワーヌは言い淀んだ。


「噂って、私が不貞を働いているとか、他の男性と既に契ってしまっていてもう純潔でないとかですか? ああ、その為に人に私を襲わせてその現場を押さえるとか?」


 彼はアナがあまりにはっきりと言うので少々戸惑った。


「ごめんなさい、言いにくいことを言わせてしまいました」


「大丈夫よ。そうね、このような噂は私の名誉が傷つくだけで、ルクレール家はとんだあばずれに騙されかけるところだった、と世間は思うし、相手の思う壺だわ」


「女性は未婚だろうが既婚だろうが男性に比べて不自由な世の中ですよね……」


「そうね、そう言われてみれば男性の方が余程自由気ままですわね。でも、そのような見方を私は今までしたことなかったわ」


「女性は生まれた時からこうあるべき、という概念を植え付けられて育っているからですよ。それが当たり前となっているのです」


「そうね……アントワーヌの言う通り、もう婚約している私が一人で貴方の屋敷を訪ねるのも良くないわね。侯爵令嬢とあろうものが、付添もなく外出するのもどうかと思うのですが、恥ずかしながら人を付ける予算も無くて……」


 確かに良く考えてみればただの貧乏貴族として気ままに出歩いていた頃とは違い、次期侯爵と婚約している身なのだった。


「ビアンカ様もただ貴女に忠告しただけではないと思います。何らかの対策を打ってくれているはずですよ」


「アントワーヌはビアンカさまのこと良く知っているのですか?」


「テネーブル公爵夫妻には、僕の方が大変お世話になっているのです」


 彼の顔が広いのは知っていたが、公爵夫妻まで彼と懇意にしているとは少々驚きだった。ジェレミーとも仲はあまり良くないかもしれないが、お互い知った間柄のようだった。


「外を一人で歩くのは危険です。特に暗い夜道は。今日のお帰りは辻馬車をここまで呼びましょう」


「ありがとうございます」


「それから、信用できない人物と二人きりになるのも駄目です。そうですね、後は他人から渡された飲み物や食べ物は口にしてはいけません」


「まあ、まるで小説の世界みたいだわ。でも、気を付けます。私に何かあったらルクレール家にも迷惑がかかるかもしれませんものね」


「それから、ゴダン家でもルクレール家でも、新しく入ってきた使用人には特に注意が必要です」


「ますます小説の世界だわ。でも両家とも今のところ昔からの使用人ばかりですわ」


「ルクレール中佐の周りでどなたか心当たりはありますか?」


「今はまだ特定の方に嫌がらせなどされたことはありませんし……」


「中佐には相談されましたか?」


「い、いいえ。ルクレールさまは今度爵位を継ぐことになって、お父さまの現ルクレール侯爵さまと引き継ぎのことで色々と取り込んでおられます。だから確証も証拠もない事柄で彼を煩わせたくなくて……」


 言葉に詰まったアナを見てアントワーヌは思った。自分なら愛する人の安全は爵位よりも何より最優先だ。それに婚約者が自分に遠慮して、こんな大事な用件を他の男に相談せざるを得ないなんて耐え難い。


「でも、だからと言って、貴方は煩わせていいと思っているわけでは決してありません。家族をあまり心配させたくないということもあって、アントワーヌとだったら冷静に何か対策を練ることが出来ると思ったのです」


「僕は迷惑だとは思っていませんよ。アナさんには僕の方がいずれお世話になることもあるかもしれませんし」


「アントワーヌ、本当にいつもありがとう。私のことはアナと呼び捨ててくれて構わないのに。私よりもずっと博識で人脈も広いし、いつも助けてもらって、貴方の方がまるで年上みたいに感じられるわ」


 アントワーヌは目を見開いてにっこり笑った。


「でも、アナさんはアナさんです。それに僕が名前を呼び捨てにする女性は妻となる人だけですから」


「まあ、どなたか想う方がいらっしゃるのね。ではもしその方と結婚なさって、女の子が生まれたらお嬢さまのことも呼び捨てなさるでしょう?」


 アナはいたずらっぽく笑って聞いた。


「そんな日が訪れるとしたら……そうですね、彼女のことは『お姫さま』と呼びますよ」


 アントワーヌはそう言って少々切ない表情をした。



***ひとこと***

アントワーヌ君と二人っきりになっちゃって! でも彼は品行方正で安全です。それにフェミニストなのですね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る