第二十条 稽古場

 居室を退室する際にフロレンスとアナは王妃にこう勧められていた。


「フロレンス、帰る前にアナと一緒に東宮に寄ってみたら? ジェレミーが稽古しているかもしれないわよ」


「そうですね。折角だから行ってみましょうか」


 そして女性二人は連れ立って王宮内を東宮に向かって歩いていた。


「フロレンスさま、騎士の方たちのお仕事の邪魔では……」


「その様子では、まだ稽古場へいらしたことはないのね。いいのですよ。どうせ常に沢山の女性があそこには押し掛けているのですから」


「まあそうなのですか?」


「こんな可愛い婚約者が来てくれるとお兄さまも喜ぶわよ」


 ジェレミーは、怒りはしても喜びはしないだろうとアナは思った。ただでさえ女性たちにまとわりつかれていて大変なのだ。しかし、フロレンスの誘いを断るのも失礼だろう。


 例えもしジェレミーが居なくても、フロレンスと一緒にアナが現れれば絶対人目に付くから彼は後で誰かからきっと聞くことになる。


「あの、本当に皆さまのご迷惑ではないのでしょうか?」


「そこまで遠慮することはないのではなくて? 稽古場はいつも本当に女性があふれていて皆さん慣れておいでよ」


 常に人に見られながら稽古をしないといけない騎士も大変だな、とアナは思った。王妃の居室のある西宮の反対側に位置する東宮に騎士団の本拠地はある。


 外の稽古場に二人が着くと、フロレンスの言った通り大勢の女性が黄色い声を上げていた。フロレンスはほらね、とも言わんばかりにアナに微笑んだ。


 女性の数名がフロレンスとアナを見て、目配せし合っている。


『あれがジェレミーさまの婚約者よ』


とでも言いたいのだろう。


 アナに向けられたのは好意ある視線ではなかった。


 フロレンスは女性たちが群がっている反対側、他の騎士たちが稽古を見ている側に近付いた。騎士の一人が彼女に声を掛けた。


「あ、フロレンスさま、お珍しい。兄上の応援ですか? 今日は稽古をつけていらっしゃいますよ」


 やはりジェレミーは居た。フロレンスと一緒だと彼に知られずにこっそり見るだけ、というわけにもいかないだろう。


 しばらくしてジェレミーは休憩から戻ってきて若手騎士たち相手に稽古をつけ始めた。彼が剣を振るのをみるのは先日の騎士道大会以来、二回目である。


(稽古着姿のジェレミーさまも男らしくて素敵だわ)


 ここまで目当ての騎士を見に来る女性たちの気持ちも痛いほど分かった。稽古がひと段落ついた時、フロレンスはジェレミーに大きく手を振った。


「お兄さま!」


 フロレンスに気が付いたジェレミーがこちらへ近づいてくる。


「あらやだ、私ったら大声出してはしたないわね」


 少し舌を出してアナに言うフロレンスはとても可愛らしい。アナは思わず彼女の後ろに隠れるように一歩下がった。こんなことをしても無駄だとは分かっていたが。


「久しぶりだな、フロー、元気か?」


 ジェレミーは稽古場の腰辺りまでの高さの柵越しにフロレンスの両頬にキスをした。アナは無言でジェレミーに会釈をした。


「ええ、今日はアナさんも一緒にお姉さまの所へ参りました」


「ああ、そう言えばそうだったな」


 フロレンスはジェレミーとアナを交互に見て、無言で


『貴方たちはキスしないの?』


と問いかけているようだった。


 公の場では仲の良いふりをしなくてはいけない。アナは冷や汗が出てきそうだったが勇気を振り絞り柵の反対側のジェレミーの方へ二、三歩前に進み出た。


「お仕事お疲れさまです、ルクレールさま」


 なるべく自然に微笑もうとした。


「ああ」


 そう短い返事をしたジェレミーはいきなりアナの頬に触れ、額に軽くキスを落とした。その瞬間、女性たちの一部から悲鳴が上がったのだが、キスに驚いたアナの耳には何も入ってこなかった。


「今の聞いたか、フロー?」


 唇を離した目の前のジェレミーがフロレンスにニヤニヤ顔を向けるのをボーっと見ていただけだった。


「ええ、お兄さまも罪作りですわね」


「おい、俺のせいかよ。ところでアンタ、王宮まで歩いて来たのか?」


 アナは自分が話し掛けられたのにすぐに気付かなかったので、慌てて答えた。


「え、はい。お天気も良かったですし」


 嘘でも辻馬車を使ったと言えば良かったのだろうが遅かった。そして急いで付け加えた。


「でも、帰りは辻馬車を使います」


「フロー、ゴダン伯爵家までコイツを送って行ってくれるか? こんなこと言ってるが放っといたら帰りも徒歩だぞ、コイツ」


 行動のパターンが完全にジェレミーにばれている。


「私は構いませんけど、お兄さまが送って差し上げればよろしいのに。お仕事もう少しで終わるのでしょう?」


「いや、今日は遅くなるから頼む」


「ありがとうございます、フロレンスさま。お言葉に甘えさせていただきます。ルクレールさまもお気遣いありがとうございます」


「ああ。フロー、今度はナタンも連れて家に来いよ。たまには気晴らしになるだろ」


「ええ、お兄さま」


「じゃあ、またな」


 ジェレミーはひらひらと手を振って稽古場の反対側へ戻って行った。




 帰りの馬車の中でフロレンスは言った。


「お兄さまは相変わらずですけど、今までは女の方にここまで気配りするような人ではなかったわ」


 アナは未だにぼうっとしていた。頬がまだ熱く火照っていた。アナとしてジェレミーに初めて額とは言えキスされたのである。


 稽古場に押しかけて金切り声で叫ぶ女性ファンにジェレミーがうんざりしているのは知っていた。彼女たちに見せつけて牽制するためと分かってはいたが、もったいなくてしばらく額は洗いたくなかった。アナははっとしてフロレンスに答えた。


「えっ、ええ。いつも色々と心遣いいただいています」


 テレーズやセバスチャンに言われてジェレミーが渋々アナに気を配っているのだとしても、純粋に嬉しいものは嬉しい。顔がまだ赤いアナを見てフロレンスはしみじみと言った。


「私はね、結婚は双方の父親同士が決めたことに従ったまでなのです。だから、その、恋をして少しずつ愛情を育んで結ばれる、というのにとても憧れるわ」


 彼女は遠くを見つめるような何かを諦めた目をしていた。


「まあ、フロレンスさま……」


 アナとジェレミーの間にも愛情があるわけではなく、アナが一方的に想っているだけである。馬車の中で向かい合わせに座っている二人はそれぞれの思いにふけっていた。



***ひとこと***

アナ、稽古着姿のジェレミーさまにも萌えています。要するにアナは彼が何を着ていてもいいのでしょうね。

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