第十一条 契約成立

 王都は冬も終わりに近付いていた。まだまだ外套も必要な寒さだったが真冬とは比べ物にならない。この季節に降る雪は重く濡れた春の雪で積もらずにとける。


 今日のこの日はアナとジェレミーが契約を結ぶ日である。


 ジェレミーの用意してくれた金額は何とアナが当初彼に頼んだ額より五割も多かった。アナはこんな大金をポンと貸してくれる価値が自分に果たしてあるのだろうか、と小切手を持つ手が震えた。


 しかし、アナが背負っているものの大きさを考えるともう後戻りは出来ない。二人は契約書に署名し、晴れて契約が成立した。


「こんな突拍子もない話にお付き合いいただいて、改めてお礼申し上げます。どうぞこれからよろしくお願いいたします」


「両親がアンタに会いたくてウズウズしてるんだ」


 ジェレミーは侯爵夫妻のいる居間にアナを案内した。ジェレミーはアナのドレスなど何でも構わないだろうが、侯爵夫人はドレスだけでなく髪型からアクセサリーに至るまでしっかり見るだろう。ある意味、ジェレミーに飲み屋の前でこの契約を持ちかけた時よりも緊張していた。


「父上、母上、こちらアナ=ニコル・ボルデュック侯爵令嬢です」


「侯爵夫妻さま、お目にかかれて大変光栄です」


 アナは膝を折り、頭を下げて挨拶した。ジェレミーの父親は彼より濃い色の金髪で少し恰幅のいい紳士だった。ジェレミーの顔立ちは父親似と言える。母親は小柄で上品な夫人である。


「アルノー・ルクレールだ」


「テレーズよ、よろしくね」


 侯爵夫人とあろう人が、アナの流行遅れの古いドレスや母の形見の簡素な首飾りに気づかないはずはないだろうが、彼女は否定的な表情も態度も見せなかった。


「晴天の霹靂へきれきとはこのことだわ。ジェレミーがいつの間にかこんな可愛らしいお嬢さまとお付き合いさせて頂いているなんて」


「恐れ入ります、侯爵夫人」


「まあ、テレーズとお呼びくださいな」


 テレーズは優しい笑みを絶やさない、正に貴婦人と呼べるような人だった。こう言うと失礼かもしれないが、年の割には可愛らしい感じがする。それにしても、この家の人々は主人から使用人に至るまで、アナに肩身の狭い思いをさせることはないのは意外だった。


「父上、母上、私たちすぐにでも婚約したいと思っております」


「じゃあ、お義母さまでもよろしいわよ」


「テレーズお前、気が早いなあ」


 そしてアナは彼らと一緒に昼食をとることになった。


「アナさんはもうすぐ21歳ですってね、と言うことは学院を出られたのは何年になるの?」


「私、実は貴族学院へは行っておりません。王都に住んでいるのは昨年からで、それまではボルデュック領におりましたのでそちらで中等科の過程を終えました」


 ただし、中等科は屋敷に教師を雇っていたわけでもなく、領地の平民が行く学校だった。嘘は言ってないが、学がないと失望されただろうか?


「まあそうでしたの。そう言われてみればボルデュック家の方は誰も存じませんわ」


「曽祖父は王宮医師でしたが、祖父は領地で医師をしておりました。父もずっと領地に住んでおりますし……」


「お父上は王都に出てこられなかったのですね」


「ええ、田舎暮らしの方が性に合っているようなのです。特にやもめになってしまってからは」


 アナの父は田舎が好きというより、引きこもりと言った方が正しいが、まあこれも嘘ではない。


「お母さまはそれでも王都のゴダン伯爵家から嫁がれたのでしょう?」


「まるで尋問のようですね、母上」


「お聞きになりたいのは当然ですわ」


 そう言われてみればジェレミーはアナのことをほとんど知らないし、アナもニッキーも彼のことはよく知らない。


 将来結婚を考えている間柄だというのに、疑われるのではとアナはひやひやし始めた。アルノーとテレーズはジェレミーはどうしてわざわざこんな貧乏田舎貴族を選んだのだろうか、と思われているに違いない。


「まあなんだな、アナさん、こんな息子で良ければよろしくお願いします。我が家の子供は常識的にまともに育ったのがフロレンスだけで……なんで上の二人は……」


 アルノーも侯爵とは言え、気さくな人物だった。ジェレミーの姉のミラ王妃はかなり豪快な性格で、アルノーは昔から彼女には手を焼いていたそうだ。子供時代の王妃の逸話を色々始めるともう止まらない。


 領地から出てきたアナはもちろん王妃にお目通りしたこともないので、アルノーの話が時々信じられなかった。失礼だが、侯爵令嬢とも王妃ともつかないような言動をする人だということは分かった。子供時代だけでなく、今もそう変わっていないらしい。


「アルノー、今はミラの話はしておりませんよ。確かにジェレミーもね、いつもこんな不愛想で、恋人を私たちに紹介する時まで仏頂面で無口なのだから……全くもう」


 恋人、という言葉がアナの耳に苦く響いた。


(私たちは、そうね、協力者? 事業提携者?)




 その日アナは帰宅する前に、ジェレミーに婚姻許可証を申請すると言われた。


「では父の署名をもらうために書類を送ります。戻ってくるまでに一週間ほどかかりますがよろしいですか?」


 思わず郵送しなくても馬車か馬で使いをやれば半日で済むことだろ、と言いそうになったがジェレミーはかろうじてとどまった。アナがいつも徒歩で移動しているからだ。


「別に日数がかかるのは構わないが、良ければうちの馬車をやる」


「その必要はございません。でも、いつもお気遣いありがとうございます。正式に婚約する前でも、もし私が必要であればいつでも申し付け下さいませ」


「ああ」


「今日は本当にありがとうございました」


 こうして契約初日は幕を閉じだ。



***ひとこと***

ボルデュック家は代々医師を輩出している家系です。アナが魔力を引き継いだという、魔術師だった曽祖父はアナの母方ゴダン伯爵家の血筋です。

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