第十条 契約内容

 セバスチャンが応接室から去った後、アナは鞄から書類を取り出した。


「契約書を作って参りました。目を通してくださいませ」


「先にざっと読んで、気になる点は後でまとめて言う」


 ジェレミーが契約書の下書きを読んでいる時に飲み物が運ばれてきた。侍女が下がってから彼が口を開いた。


「援助の金額は明記されていないが、先日アンタが言った額でいいのか?」


「はい、それで十分です」


 毎年秋の収穫後に次の年の援助額を決めることにした。既に他所にしている借金が返せて経営が軌道に乗るまで続ける。


「返済利息は五分と書きましたけど、増やされますか?」


「いや、それでいい」


 ざっと要約するとこうなる。


 契約のことは口外禁止、ジェレミーの義務は金銭的援助、アナの義務は対外的にジェレミーのパートナーを演じること。お互いの私生活には干渉しない、両家の評判を落とさない程度に自由にしてよい。これは暗に婚外恋愛を許可するということである。婚約だけで契約終了になればそれでよし、結婚の時期はお互いの合意で決定する。跡継ぎ、子供の件については必要になればその時点で契約内容を書き換える。


 ジェレミーはいつでも契約破棄、終了、書き換えが行える。アナから破棄、終了の場合はジェレミーの同意のもとで行い、返済の利子はその時点で二倍にする。契約破棄、終了の時、周囲への理由はアナ側の落ち度(重病、不徳等)ということにして、ルクレール家から婚約破棄もしくは離縁する。


「清書して二部同じものを作成いたします。お互い一部ずつ保管いたしましょう。署名するのはいつがよろしいですか?」


 アナがあまりにも淡々と事務的に事を進めるのを見ながらジェレミーは考えた。


(この女は自分をここまで犠牲にしても実家を助けたいのか……)


 領地の復興は出来るかもしれないが、どう転んでもアナ自身は将来新たな良縁や再婚、女としての幸せはまず望めそうにない。アナは目先の問題をなんとか解決するのに必死で、自分の将来のことは重要視してなかった。


「そうだな、また一週間後だな。最初の小切手を準備しておく。今度は両親を紹介する。あ、彼らは俺の婚約に一応は同意してくれた」


「それを聞いて安心いたしました。もちろん私の父も異論はありません。ご両親には私たちの馴れ初めはどのようにお話しましょうか?」


「そうだな、まさか飲み屋前で声かけられたなんて言えねえし」


「でも、そうですね、なるべく嘘は少ない方がよろしいですね。私が従兄を迎えにあの飲み屋に参った際に初めてルクレールさまにお会いしたことにしましょうか。彼も度々あそこへ行っているようなので。騎士団のフランシス・ゴダンです」


 彼が初めてピアノ弾きのニッキーを見た時の顔を思い出したアナは軽く微笑んだ。仕事を紹介してくれた彼には男の子として働いていることを隠しておくわけにはいかなかった。


 今のところニッキーの正体を知るのはフランシスとイザベルの二人だけである。婚約をフランシスに伝える時に再び口止めしておこう、とアナは思った。


「酔っ払いに絡まれた私をルクレールさまが助けて下さり、私が一目で恋に落ちてしまったということにしましょう」


 アナはニッキーがキスされたあの日のことを思い出し、少し切なくなった。


「そしてルクレールさまも私の気持ちにほだされた、これでよろしいですか? 残念ながら貴方さまがほだされるような要素が私には皆無ですけれども、皆さまには信じて頂くしかないですね」


 彼女は少々惨めな気持ちになりながらも、努めて冷静に続けた。


「了解」


「では、私はこれで失礼します」


「今晩は晩飯食っていくか?」


 アナは少々困ったような顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。


「お心遣い大変ありがとうございます。でもご遠慮いたします。その、執事の方には私からこの後用事がある、と申し上げておきます」


 お腹は空いていたが、アナはこんな格好で侯爵家の使用人に給仕されて食事は出来ない、と思った。下手をすればここの侍女の方が彼女よりも上等なものを身にまとっているかもしれない。


 ジェレミーだってアナと向かい合って食べるよりは一人の方がいいだろう。


「では馬車で送らせる」


「それは大変助かります。有難くご好意に甘えさせて頂きます」




 帰宅したアナは大変困っていた。来週契約書を侯爵家に持って行く時に侯爵夫妻に紹介される。ボロボロの外套とブーツはしょうがないとしても、いつもの着たきり雀の粗末なドレスはいくらなんでもまずい。


 契約開始一日目になるのだから、侯爵家に相応しい装いが必要だろう。婚約予定の者として一家に恥をかかせないのがアナの義務である。


 これから衣装にかかる費用も馬鹿にならないだろう。領地への援助金から差し引くしかない。アナ一人の問題ではない。それでもなるべく自分自身にかかるお金は抑えたかった。伯母のエヴァに相談してみることにした。


「伯母さま、来週お友達のお家に招待されているのですけど、ご両親の侯爵夫妻に紹介されると思うのですね。それで、その、伯母さまの昔のドレスがあればお借りしたいのです」


「まあ、私の娘時代のドレスじゃいくらなんでもデザインが古臭いわよ。それでも見てみましょうか。来週だったら今から仕立てるには時間がないし」


「はい」


 伯母は部屋の洋服箪笥から色々と昔のドレスを出してきてくれた。


「このドレスはどうかしら?」


「そうですね、伯母さま。私の瞳の色と同じですわ。袖の部分を少し手直ししてもよろしいですか?」


「構わないわよ。どうせもう誰も着ないのですから」


「ありがとうございます。では早速直しにかかります」


 ドレスを持っていそいそと部屋を出ていくアナの後ろ姿にエヴァはそっと呟いた。


「アナ、不憫な子。私たちがドレスを買ってあげると言っても断固として受け取らないわよね」



***ひとこと***

とうとう契約を結ぶことになりました。次回はジェレミーパパママが出てきます。

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