契約
第八条 侯爵家
ジェレミー・ルクレール次期侯爵はいい加減うんざりしていた。両親は直接何も言ってこないものの、何かにつけて姉や妹の子供逹がいかに愛らしいかを聞かされる。
今年の初め、姉のミラ王妃が第二王子となるトーマを無事出産してから両親は特にうるさくなった。別にジェレミーとて甥や姪が可愛くないわけではない。特にもうすぐ六歳になるエティエン王太子には懐かれていた。
王宮に近衛騎士として勤めているので王太子は生まれた時から良く会っている。普段は国王付きのジェレミーだったが、時々は王太子の警護を任されることもあったのだ。
とにかく、ジェレミーは両親からの圧力がたまらなかった。やけくそになって、彼らには甥か姪の一人に侯爵家を譲ってくれと言ったこともあった。しかし彼らは当然にジェレミーもいずれは結婚して子供を持つだろう、と全然諦めてはいないようだった。
時々ジェレミーの勤務先にまで縁談を持ってくる輩がいる。よくあることだが、先日ジェレミーに是非娘を嫁がせたいと売り込みにやってきたどこかの貴族が居た。長いこと独身だったジェレミーの従兄、ジャン=クロード・テネーブル公爵がついに結婚してしまったので、次に目ぼしい独身男性であるジェレミーに、とはっきり言っていた。まるで家畜か競走馬の配合か、と呆れた。
騎士団の稽古や練習試合の度に、女どもにピーピーキャーキャー騒がれるのも鳥肌が立つ。
そしてよく考えてみると最初は気がふれているとしか思えなかった、あのアナなんとかという娘の提案もそうそう悪いものではないと感じられた。便宜的に結婚して彼女の家に援助をしてやれば、心穏やかに生活できるわけだ。そしてジェレミーは彼女にもらったあの紙切れを取り出した。
未だに彼女とは何処かで会ったような気がしないでもないが、もし会っているとしたら向こうからそう言ってくるに違いない。彼女にしてみれば、ジェレミーと既に顔見知りだとしたら結婚を持ちかけるのに、それを利用しない手はないだろう。彼女が何も言わないということは、この妙な既視感はジェレミーの気のせいだ。
ジェレミーは便箋に一言したためた後、執事のセバスチャンを呼んだ。
アナはルクレール家からの使いが持ってきたジェレミーからの文を信じられない思いで受け取った。
『気が変わった。例の件について話し合いたいから明日の夕方屋敷に来い』
それだけ書かれていた。
自分も侯爵令嬢だというのに、侯爵家のお屋敷に着て行けるようなドレスがない。ジェレミーはアナが何を着ていようがまず目にもとめないだろう。それでも持っている中で一番見られるドレスを着て、普段より念入りに髪をまとめ、自分の切った髪で作った付け毛でボリュームを出し、少し化粧もした。
王都はまだまだ寒い季節である。アナはみすぼらしい外套に履き古したブーツ、帽子にマフラーとしっかり着込んで出掛けた。呼ばれておいて時間に遅れるわけにはいかない。ルクレール侯爵家まで歩いて、約束の時間より早めに着いた。
「あまり早くに押し掛けるのもね。少し散歩でもしましょうか」
貴族の屋敷が立ち並ぶ美しい街並みを眺めながら時間を潰し、約束の時間の少し前にルクレール家の呼び鈴を鳴らした。現れた執事はアナが名前を告げると、粗末な身なりの彼女に眉を
「主人はもうそろそろ帰宅いたします。暖かいお飲み物でもいかがですか?」
アナは場違いな自分の姿が申し訳なくて恐縮した。体は冷え切り、ブーツは雪で少し濡れていた。美しい絨毯を汚してしまいそうで申し訳なかった。普段この屋敷に訪れる客はまず馬車で来るだろう。
「お気遣いありがとうございます。ではお茶をいただけますか?」
「かしこまりました」
しばらくして運ばれてきたお茶は、茶器から茶葉に至るまで高級品だった。お茶菓子までアナが見たこともないような上品な焼き菓子だった。
お茶を持ってきてくれた侍女も、質素なドレスのアナを見ても何ら態度に表すことなく、給仕をしてくれた。アナはピカピカの窓に映る自分の惨めな姿を眺めていた。
(さすが高貴な家は使用人まで教育が行き届いているのね。でも今頃あの執事と二人で噂をしているでしょうね。どうして私みたいな人間がジェレミーさまに会いに来るのだろう、って)
アナはお茶を少しすすっただけでお菓子も喉を通らず、ただティーカップを握ってかじかんだ指先を温めていた。約束の時間はとっくに過ぎたが、ジェレミーが帰宅した様子もない。
ジェレミーは気が変わった、と手紙に書いていたが、やはり馬鹿馬鹿しいと思い直したのだろうか。ニッキーとして接した彼は、ぶっきらぼうでとっつきにくい所もあったが、約束を
それでも、ジェレミーが帰ってこないのならいつまでもここで待っているわけにもいかないだろう。そのうちあの執事につまみ出されるだろうか、自分から帰宅すると申し出た方がいいのだろうか、アナはそう逡巡していた。
そうこうするうちに、玄関の方で少々物音がしたようだった。やっと扉が開いてジェレミーが入ってきた頃にはカップのお茶はすっかり冷めてしまっていた。彼はまだ白の近衛の制服姿だった。
(相変わらず眩しいほどだわ、ジェレミーさまは。白の制服をお召しになっていると特に。こんなに緊張しているのに、彼のお姿に見惚れるなんて私も現金なものね)
「待たせてすまない。両親が留守の今夜が都合良かったからな」
「いえ、私の方は一向に構いません」
ジェレミーはアナの向かいにドカッと座った。
「煙草吸ってもいいか?」
「はい、どうぞ。もちろんでございます」
一応アナに聞いてくれた。ニッキーとして飲み屋で彼が時々煙草を吸っているのは見たことがある。アナは煙草の匂いは苦手だったが、ジェレミーが煙草を吸う姿を見るのは好きだった。
長い脚を組んで煙草をくゆらせる近衛の制服を着た彼は、契約を持ちかけなかったらアナなどには一生縁のない相手だったろう。煙を吐き出したジェレミーは口を開いた。
「で、俺の妻の座に収まってくれる代わりにいくら欲しいわけ?」
***ひとこと***
ジェレミーさま、アナが誰だかまだ気付きません。そしてアナは、と言うとジェレミーの近衛の正装に萌えています。
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