第七条 決行
アントワーヌが帰った後、アナは自分の部屋に
今まで領地のことばかりで忙しく、自分の事はいつも後回しだった。貴族らしい結婚をすることなんて毛頭なかった。気付くと自分はもうすぐ21歳になろうとしている。しかしそんなアナでも人並みに恋はしていた。相手はピアノ弾きのニッキーのことを何故か気に入って相手にしてくれているだけで、アナとしての自分のことは知らない。
いくら田舎の領地にずっと居たアナでもルクレール侯爵家のことは知っていた。爵位こそボルデュック家と同じだが、向こうは王族とも縁続きだ。ジェレミーは今上陛下の妃、ミラの弟にあたる。
イザベルが教えてくれたことによると、ジェレミーはあの容姿に毛並みの良さで女性のファンも多いし、縁談も降るようにあるらしいが、女嫌いでまず誰も相手にしない。しかし彼も侯爵家の跡継ぎとしていずれは結婚しないといけないだろう。
先日などイザベルはこうも言っていた。
『公爵家の結婚式で付添人を一緒に務めたご令嬢と、仲良く付き合っているフリをしていたらしばらく女除けになって助かった、なんておっしゃっていたのよ』
その付添人の令嬢がアメリだったということをアナが知ったのはしばらく後になってからである。
「女除けね……」
そこでアナはある考えを
(ジェレミーさまは私のことをどうお思いになるかしら? 軽蔑される、わよね……)
でも、侯爵令嬢としての
アナは思い切って計画を実行に移すことにする。ある夜、いつものようにニッキーが飲み屋でピアノを弾いていると、割と遅い時間にジェレミーはやってきた。
あのキス以来、ジェレミーに更に構われるようになったニッキーだった。時々帰りに送ると言われることもあったが、どうしても二人きりになるのがためらわれ、イザベルと一緒に帰ると言い断っていた。
イザベルはニッキーが言い訳に使わせてもらっていることには別に構わないらしく、必要なら口裏も合わせくれた。
「ニッキー、送ってもらうくらい、いいんじゃないの? いたいけな美少年一人じゃ夜道は危険よ。ああ、でも確かにルクレール中佐さまの方が危険ねえ」
しかし、こんな冗談にもならないことも言われていた。
さて、その晩はイザベルに少し早めに上がる許可をもらい、ニッキーは裏の倉庫に引き上げた。しばらくして店の裏口からこっそり出てきたのは、貧乏侯爵令嬢、アナ=ニコル・ボルデュックだった。
そしてアナは物陰でひたすらジェレミーの出てくるのを待つ。今日彼は同僚らしき騎士と三、四人で来ていた。
「どうかジェレミーさまが一人でお帰りになりますように……」
アナの緊張は否応なしに高まってきていた。表の扉が開く度に心臓がドクンと跳ねる。寒空の下どのくらい待っただろうか。
ジェレミーはやっと帰る気になったらしい。しかし、同僚と二人連れだった。アナはがっくりと肩を落とした。そこで二人は飲み屋の前で別れ、それぞれ反対方向へ歩き出した。
アナは大きく深呼吸をし、ジェレミーを追いかけた。
「あの、ジェレミー・ルクレールさまでいらっしゃいますね。アナ=ニコル・ボルデュックと申します。少しお話を聞いていただけますか?」
ジェレミーはアナをジロっと睨んだ瞬間、何処かで彼女に会ったことがあるような気がふとした。
「別にアンタの用事に興味はないし、俺は話すこともない。じゃあな」
ジェレミーはアナに背を向けて歩き続ける。
「私と便宜的に結婚していただけますか?」
流石に彼の足も止まった。
「はぁ? ちょっとアンタ何言ってんの? 帰った、帰った」
アナは
「ボルデュック家に経済的な援助をしていただく代わりに、私が名前だけの妻として存在していれば言い寄って来る女性は激減するし、望まれない縁談の話もなくなると思われます」
「バカも休み休み言え!」
ああ、駄目だった。やっぱり断られた。しかし、アナは最後にもう一言粘った。
「これでも私一応侯爵令嬢なので、身分だけなら貴方さまと釣り合っております。婚約だけでもいいのです! もちろん形だけの!」
「いい加減にしてくれ!」
「では、もし、もしお考え直されることがあればこちらにご連絡いただけますか? ゴダン伯爵家に滞在しております。そうでなければ私のこの愚行はお忘れくださいませ!」
アナは自分の連絡先を書いた紙を差し出した。受け取ってくれないか、破り捨てられるかのどちらかと思ったが、ジェレミーはフンと言い一応紙きれは手に取ってポケットにねじ込んだ。
そして彼は足早に去って行った。やはり唐突過ぎたようである。でも、こうする他に、アナとしてジェレミーに話しかける機会などない。ルクレール家が招待されるような舞踏会に紛れ込むことも不可能だろう。そのための資金もない。
アナはしょうがなくトボトボと足取りも重く帰宅した。別に自分は何も失っていない、と言い聞かせていた。しかしニッキーに対するジェレミーの態度とあまりに差がある扱いに少々落ち込んだ。無理もない、いきなり初対面で結婚してくれと言われれば女嫌いであろうが女好きであろうが、あれが普通の反応だろう。
その頃ジェレミーは歩きながらアナとどこで会ったのか思い出せずにいた。言い寄って来る女の一人ではないことは確かだ。別の意味で強烈な声の掛けられ方をしたが。しかし女嫌いの彼が、彼女に近寄られても吐き気もおこらなかったし、じんましんも出なかった。
話の内容には驚いて追い払ったが、特に彼女自身には嫌悪感も抱かなかった。そして何だか彼女とはつい最近会ったような気がしていた。しかもその出会いは不快なものではなかった、むしろその逆のような気がする。
では一体何処で……ジェレミーは受け取った紙切れをぼんやりと眺めた。
***ひとこと***
アナ、すごい行動力です。方やジェレミーさま、アナが誰だか気付きません。
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