#088:鳥になりたい

 まずい。

 手を伸ばしても、足を広げても、何かに触れることなく浮遊感だけが身を包む。

 どうしよう。

 このままだと底も見えない暗闇へ落ち続け、二度目の人生にまで強制的な閉幕が訪れる。

 それは嫌だ。

 稼いだお金のすべては露店の運営資金に注ぎ込んでいるからまだ豪遊できていない。

 諦められない。

 飛ばなければ落ちる。落ちたら死ぬ。だが、私には翼がない。黄色い薬も飲んでいない。

 鳥に、なりたい。


「あいうぃっしゅ・あいわー・あばーど!」

「ライト!」


 しかし、現実は無情であった。

 より速度を増して私の身体は落下する。

 極めて遺憾な――それこそ現実逃避したいくらい洒落しゃれにならない事態なのだけれど、こんな時に照明の魔術なんてどうするのよお母さん。なんか下の方に飛んでいったし。

 落下地点なんて確認しても、どれくらいの痛みに襲われるか想像しやすくなるだけだよ。

 実際に照らし出された地面が見えても、やはり落石だらけで都合よく水場になっていないし、私たちの冒険はここまでだ。


 衝突が目前に迫り、私がもうおしまいだと目を閉じたそのとき、シャノンとお母さんの詠唱が同時に耳を打つ。


「スノウプール!」

「バリケイド! アンプリファイっ――エア、ハンマー!」


 その声に驚いて目を開けてみれば、僅かに早かったお母さんによる風の牆壁しょうへきが形成され、その中にシャノンが唱えた雪溜まりが出現し、そこへ増幅された空気の塊が打ち込まれたことで行き場をなくした強風が雪を絡めて勢いよく巻き上がり、落下中の私たちを強引に押し上げた。

 そして、急激に反転されたベクトルに息が詰まり、つかの間の無重力を味わう間もなくまたもや落下が始まった。


 助かったと思ったら助かっていなかった。

 最初の落下速度よりは幾分ましだけれど、ここからでも落石にぶつかれば大怪我けがは免れない。

 先ほど一瞬だけ体験した無重力が恋しいよ。……無重力。ヘンテコ魔術で出来ないかな?


 同じヘンテコ魔術でも、流れを減速させても衝撃は変わらず受けるような時間の魔術ではなく、方角がわからない今だと計算すら覚束ない空間の魔術でもなく、無重力状態を引き起こすだけなら引力と斥力を釣り合わせたらよいはずだ。たとえ失敗しても落下速度を緩和できたらそれでいい。

 何よりも、どうせ落ちて重傷を負うのなら、足掻あがくだけ足掻あがいてみたほうがいいよね。


 早速、引き寄せられる力とは逆向きに働く押し返される力を強く意識し、もはや感じることすら困難なそれを探り出す。そして一つにまとまるよう手繰り寄せてみると、ごうごうと身に受けていた落下速度が軽やかにゆるみ始め、さらに効力を高めて魔術の範囲を広げてみれば、皆がふわふわふわりと宙に浮かんでいる。


「ちょっと、なにこれ。浮いてない?」

「こんな事できるのはサっちゃんしか……」


 ピタリと静止していないから完璧とは言えないものの、十分に成功した範疇はんちゅうではないかしら。

 何一つ実験していない魔術だからまだ思うとおりに動かせないけれど、もしも身体を空間に固定していたら大自然の力で虚空の彼方へと吹っ飛んだと思う。私の選択に間違いはなかったはずだよ。


 そうやって咄嗟の魔術で窮地を脱したことに安堵の息をついていると、皆は手足を動かして身体の向きを変えており、その視線が私に集まっていた。


「……怪我けがするよりはましでしょ!」

「そんな事はいいから、早く降ろしてちょうだい。なんだか落ち着かないわ」

「何かあるとは思ってたけど、まさか未知の魔術を使えるとはね。驚きすぎて言葉が出ないよ」


 腰に付けたポーチの蓋を押さえ付けているお母さんに急かされて、慣れない重力操作でふわふわグラりと地面に足を付けた。


 そこでマチルダさんからお礼を言われ、今までもご飯が温かかったことをはじめ、あっという間にブルックの町とヘイデンの村を行き来した事、ただの“おまじない”と称した強度向上魔術にしても明らかに異質であった事など、数々の衝撃的な光景があったのに皆が至って普通に接していたから言い出しづらかったと告白された。


 これを境に、マチルダさんから距離を置かれてしまう不安が鎌首をもたげてくる。

 そのせいで返事ができないでいると、朗らかな笑みを浮かべたマチルダさんに『サラ君はサラ君で、ボクの大事な友達さ』なんて言われたら、嬉しさと恥ずかしさで目を合わせられないのも仕方のないことで、思わず顔を逸らした先には藻掻くゴーレムが浮かんでいた。台無しだ。


「サラ? ……あぁ、あれも巻き込まれたのね。今のうちに倒すわよ」

「ちょっと待って、お母さん。八つ当たり――じゃなくて、実験したいから私に貰える?」


 私たちと共に落ちた鉄のゴーレムは既に鉄屑となっているけれど、後方から追いかけてきたほうも崩落に巻き込まれていたようだ。そこに私の無重力化魔術が及んで落下が止まり、途中まで一緒にふわふわ降りてきたのだろうね。


 実験と聞いて駆け寄ってきたシャノンを傍に置き、他の皆からは何をする気だという表情で見守られるなか、無重力に捕らわれたままのゴーレムを使って重力操作の練習をする。

 右に左に移動させては壁にぶつけ、上昇下降も繰り返しては何度も地面でバウンドさせていると、ゴーレムのずんぐりした外観と相まってビーチボールのように見えてきた。


 ビーチボールといえば、空気を注入するとぷっくり膨らみ、いずれは萎む。

 硬さに定評のあるらしい鉄のゴーレムにそれをやれば、とても楽に破壊できるかもしれないことを閃いて、覚えたばかりの重力操作を確たるものにするべく実行に移す。


「ふおぉぉ! 鉄が! 割れて! 砕けて! 魔石も散ったァー!!」

「あっ……」


 なんだか楽しくなってきて、膨張と収縮を繰り返していたらゴーレムが爆発四散した。

 どこまで小さくなるのかと試していたら、ゴーレムの中心部に危険な魔力の塊ができている――と魔力支配から警告を受け、慌てて形を変えたものだから力加減を誤ったようで、割れて砕けてドカンと爆ぜた。


 貴重な実験サンプルを失った哀しみよりも、散りゆく魔石の残骸が照明の魔術に照らされてキラキラと輝くさまに悔しさを覚えてしまう。

 見上げるような巨体を動かすからには魔石も大きなもので当然だろうし、それを持ち帰って売り払えば炬燵こたつを増やせたかもしれないのに。


 まったく、少し失敗しただけで爆発するなんて、どことなく転移の魔術と似ているね。

 意外と同じ作用が働いているのか、はたまた魔術は失敗したら爆発する仕組みなのかを判断するのは難しいけれど、迷惑であることだけは確かだよ。




 ところで、ここはいったいどこなのだろう。

 下層に入ってから少し進んだあたりで地面が崩落し、余計なことを考える暇があるくらいの落下時間だったから相当下ったことだけは簡単に想像が付く。あれだけ壁や地面にぶつけ続けたのに爆発する間際まで手足を振り回していたし、それほどまでにしぶといゴーレムが徘徊する下層からは一刻も早く脱出したい。……お客さんもいないしね。


 しかし、このまま重力を操って上を目指せたら手っ取り早いのだけれど、私の腕前では辿り着く前にボロ雑巾となることを先ほどのゴーレムが身を賭して証明してくれている。

 もはや、歩いて戻るしか選択の余地はないでしょう。


「それじゃあ、帰ろうか」

「え、進むでしょ?」

「早道できてラッキーだよ?」

「……今回ばかりはサラが正しいわ。まずは現在地を把握しないと危険よ」

「そうですね。アイアンゴーレムよりも厄介な魔物がうろついているかもしれません」

「ぷも!」


 三対二で帰還が決まった。エクレアは言葉がわからないから無効票だ。

 そして、少しでも早く帰り道を見つけるために、着用者の距離を測れる腕輪があるので二手に分かれることになったのだけれど、私の処遇で少し揉めて戦力が偏ってしまった。


「私はエミリーとシャノンに付いたほうがよくない? エクレアもいるし」

「サラのすごさはさっき見てわかったわよ。でもね、それだけじゃ迷宮で生きていけないわ」

「平気だよ。何なら一人で探してこようか?」

「またこの子は……何かあってからじゃ遅いのよ!」


 照明の魔術しかない薄闇でもわかるほどに、鋭い目つきのお母さんに真正面から叱られた。

 驚きと共に省みれば、時間を自由に操り空間を自在に渡り、加熱と冷却でどんな場面にも対応できる私でも、ただ足下の地面が消えただけで死にかけている。今は重力操作の魔術で落とし穴は怖くないけれど、次に何かあっても対処できる保証はない。

 人並み外れた力があったとしても、迷宮に限らず荒事に不慣れな私では、経験豊かな年長者からの意見に返す言葉が出てこないし、確たる理由がなければ素直に従っておくべきだね。


 今後に備えて皆へ魔力の補給を行いながら、諸々の薬類や携帯糧食をギッシリ詰めた背嚢はいのうをエミリー、シャノン、マチルダさんへ渡していき、もしも何かあればすぐに腕輪で知らせることを約束し合い、落下地点の通路を二手に分かれて反対方向へ歩いて行く。

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