#007:おいくら万円

 脳内メモに刻みつけてあるのだから、私が記憶違いを起こすなんてあり得ない。

 この能力のことは誰にも言っていないので、エミリーやシャノンみたいに親しい人でなければ疑いをもたれるのは仕方がないだろう。しかし、銀貨ソル三〇枚という値段は親方さんが自分で口にした言葉なのだから何とかして思い出してほしい。

 そうしてくれないと、高いのか安いのかもわからないのだよ。


「あの、親方さん? 大丈夫ですか?」

「お、おお。すまねえな。しかし、銀貨ソル三〇枚か……」


 強張った笑みを浮かべたまま二の句が継げなかった親方さんは、頭を掻いていた手を下ろしてそのまま口元を覆い、焦点の合わない目元を装うことなく思案に耽る。

 それから僅かばかり時が流れ、何か思い当たることがあったらしくその目を大きく見開いた。


「……思い出した。俺、言ったわ。銅貨デニエなら三〇〇〇枚だぞとかも言ってなかったか?」

「はい。それくらい稼げるようになればまた来てくれって笑いながら言ってましたよ」

「そうだったそうだった。それくらい言えば諦めると思ったんだ」

「えっと、なんかすみません、貯めちゃって」

「普通はその歳で持ってる額じゃねえもんな……」


 銀貨ソル一枚は銅貨デニエで一〇〇枚。その銅貨デニエ一枚でパンを一つ買えるから、日本円に換算するとだいたい一〇〇円になる。すなわち、銀貨ソル三〇枚は約三〇万円でございます。


 これを多いとみるか少ないとみるかは人それぞれだけれど、一日のお給料が約五〇〇円である私が貯めたものだと言えば、その苦労をわかってもらえると愚考する。


 まずはお給料の相場について知ってもらわないと話が始まらない。

 この世界では一〇歳から見習いとして働けるけれど、貰えるお給料は成人の半額だ。これは作業量も半分にされているので大した問題にはなっていない。

 そして、私みたいな職人でもないただの労働者は、一日に銅貨デニエ五〇枚が相場となっている。見習いはその半分だから二五枚になり、私が本来貰える額がそれだった。

 しかし、うちは家計が火の車だから少し減って一〇枚が私の手に渡り、そこからさらに半分を家に入れているので手元に残るのは銅貨デニエが五枚――約五〇〇円となっている。一〇分の一だ。


 なにも、私が働き始めた当初から一日五〇〇円だったわけではなく、段階的に減ってこの額になっているので単純計算よりは多く貰えているよ。さすがに全部を貯金に回したわけではないから多少の誤差は出てしまうだろうけれど。

 あと、お休みの日ね。いくら暇でも年中無休では死んでしまいます。うちは黒くないです。


 ちなみに、銀貨ソル三〇枚もあれば駆け出し冒険者セットを買ってもお釣りが出るよ。

 中古品の短剣か短槍のどちらかを選び、これまた中古品の革鎧と革篭手の合計三つの装備と、売れ残りの傷薬などの道具類がいくらか入っていて一見するとお得なセットに仕上がっている。

 しかし、質のよいものは抱き合わせる必要もなく売れるので、あまりおすすめできるものではないと、数少ないお得意さんの一人である冒険者のお客さんが言っていた。


 この話の続きはまた今度にするとして、今日は自転車を作ってもらうのだ。

 銀貨ソル三〇枚が高いのか安いのか、今の私は冒険者セットよりもそちらのほうが気になるよ。


「それで親方さん。このお値段は妥当な価格なんですか?」

「いや……なんというかな……。まぁ、俺が言ったことだ。男に二言はねえ」


 答えになっていないよ親方さん。

 それとも、苦笑を浮かべながらの曖昧な返しを答えとして受け取ればいいのかしら。

 歯切れの悪かったあの言い方だと、銀貨ソル三〇枚は格安価格ということになるのだけれど。


「いいんですか?」

「おうとも。自分でいた種くらい自分で刈り取らねえとな」

「ありがとうございます。では、早速――」

「ちょっと待ってくれ。今すぐ作って渡せと言われても無理だ」


 お互いに了承を得たことで、早速お願いします――と言う前に親方さんが言葉を遮った。

 男に二言はないとは何だったのか。適正価格でないのなら気持ちはわかるけれど……。

 それにいくら魔術があるといっても、三分待てば自転車が出来上がるわけがないことくらい子供の私でも知っている。もしも何かあるとすれば、私の注文が親方さんの力量を超えたという線が考えられるだろう。


「どこか難しいところがありましたか?」

「いや、そうじゃなくてな、もうすぐ夏祭りがあるだろ?」

「はい。もうそろそろですね」

「それで机やら作らなきゃなんねえんだわ」


 このあたり一帯の国々では季節ごとにお祭りが催されている。この世界で節目の日とされている春分・夏至・秋分・冬至に行われていて、町や村の住民たちが各々にお酒や食べ物を持ち寄ってのどんちゃん騒ぎが始まるのだ。

 話に聞く限りでは、上流階級の貴族たちも領主の城に集まってお上品な宴が開かれているそうで、大きな商談やお見合い話などで賑わっているらしい。

 私は行ったことがないので詳しい事柄まではわからないよ。


 そんなお祭り会場には、当たり前のことだけれど料理を載せる机が必要だ。

 老若男女問わずに大勢の人が集まるのだから、そこに工房の商品を置けば宣伝効果は抜群で、基本的にはそれぞれのギルド内で話し合って当番を決めている。

 今回は親方さんがその当番だったってことだね。


「次は親方さんのところだったんですか。腕の見せ所ですよね」

「おう。だからよ、仕事が立て込んでるから、どう足掻いても夏祭り以降になっちまう」

「それなら仕方がないですよ」

「すまねえな。さすがに手を抜けなくてな」

「今まで抜いたことありましたっけ?」

「楽ができるところは楽をしているぞ?」

「またまたぁ」


 よく言うよ。たとえ木皿の一枚だったとしても手抜きをしないのに。

 前に他の工房から仕入れた品で、難しくもない平皿なのに傾いている物があったのだから。

 そんなものが売れるわけもなく、ただの不良在庫になるのよね。


 作った工房にクレームを入れたとしても、うちみたいな弱小商店だと相手にもしてくれないだろう。赤字すれすれの安売りをすれば捌けるかもしれないけれど、それで何かよからぬ事が起こった場合に文句を言われたり嫌な噂を流されたりして迷惑するのはうちのお店だ。安易な考えでは売り物にできないから困ってしまう。

 ジャンク品だと断りを入れておいても烈火のごとく怒り狂う人っているからね。


「まぁ、そういうことだからよ、手付金だけ頼むわ」

「それじゃあ、前金で全額払いますよ。持っていても他に使えませんから」


 ここでいくら払うかで相手――発注者である私の信用度をはかられる。

 全額後払いというのは存在しない。それを許し、注文だけして逃げるやからが出てしまうと、お金がなくて力の弱い工房が潰れてしまいかねないのだ。そうならないようにギルドで固く決められており、支払いを渋ると以後の注文は受け付けてくれなくなる。

 私はこの親方さんを、いてはこの工房を信用しているからニコニコ現金一括払いだ。


「そりゃ助かるが……いいのか?」

「はい。お店で何度もお世話になってますし、ここよりも優れた工房を知りませんから」

「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。こりゃ手抜きはできねえな」

「やめてくださいよお」


 笑いながら照れ隠しの冗談を飛ばす親方さんだった。

 それにつられて私も笑いながら手元に意識を集中させ、箱の中から物が飛び出してくるようなイメージを頭に思い浮かべる。そして、チャリチャリと素敵な音を奏でる硬貨入りの小袋を手のひらに取り出し、親方さんへと手渡していく。


「ほんと羨ましいな、それ」

「数少ない特技ですから。ところで、小銅貨デニエが多くてもいいですか?」

「ちっと中を確認するぞ。大銅貨デニエか……ええっと……何枚だ? 結構あるな」

「はい。四二枚あります。こっちには中銅貨デニエが二三枚入ってて、これから渡す分は全部が小銅貨デニエです。一〇〇枚ずつと端数の袋に分けてありますよ」

「それくらいなら構わねえぞ。それにしても……がんばったんだな、嬢ちゃん」


 両手に九個の小袋を抱えた親方さんが深い溜息をついた。

 改めて見返すと私も感嘆の息をついてしまう。ここまでくるのは本当に長かった。

 しかし、後はもう腕の立つ職人である親方さんに任せてしまえば、少し時間はかかるみたいだけれど、私の夢である大富豪への道は約束されたも同然だね。

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