残された者の苦悩

「はい、お薬です」

 俺は未だに辻医院に通っていた。

 なかなか良くならないのである。辻が藪医者かもしれないと疑い始める頃だ。とはいえ、調子が悪いからといって規則正しい生活をしているわけではなかったし、処方されている薬も決められたとおりに飲んでいるかと問われると苦い顔をしなければならない。

「身体が丈夫だからといって無茶をしたらダメですよ」

 カルテを棚に戻しながら辻が医者らしく忠告する。

「丈夫ってわけじゃないんだけどな」

「意外ですね」

「人を見た目で判断しないように。それでも医者か?」

「ははは、これは失礼」

 立ち上がると診察室から出ようとして歩みを止めた。院内には他に人は居ないようだ。

「宇藤さんの手紙、何か分かったか?」

「いえ。気になる点はあるのですが真意までは辿りついていません」

 辻は中指で眼鏡を押し上げた。窓から射し込む光でキラリとする。

「素直に考えればふらっと旅に出たってとこだろうが」

「おそらく違いますね。「『その時に備えて』や『当たっていた』とは矛盾しますから。厭くまで何か自分の意志を貫くためといった雰囲気が読み取れます」

「自分の意志か──」

 そう呟きながら意識が遠くなっていった。まさか俺も宇藤さんたちみたいに消えてしまうのだろうか──薄れゆく中、辻が心配そうに覗き込んでいる。


 深い闇の中を彷徨っているイメージが脳内を巡っている。遥か彼方から辻がこちらに向かって何かを叫んでいた。此処は暗いが居心地は悪くない。このまま当てもなく漆黒を旅するのも悪くはないと思ったが、宇藤さんの件が頭を過ったため辻が居る方向へと歩を進めた。

 遠くて表情までは読み取れないはずなのに、俺が向かってきていることに気づいて安堵していることが判る。

「人の命っていうのはなんでこう危ういんだろうか。いつまで救い続けなければいけないのかと悩んだこともあったけど、こうしていないと落ち着かないのもまた僕の中の真実。鷺巣くん、僕には宇藤さんが伝えようとしたことを理解できたよ。そして同じように旅立つ準備をしなければならない」

 近づくにつれてはっきりと聞き取れるようになる辻の声。最後は駆け出していた。そして彼の腕を掴もうとした瞬間、俺は目が覚めた。

 ──ベッドに横たわっていたが、大量に汗をかいたからだろうか服が湿っているのを感じた。ゆっくり身体を起こして周囲を確認したが辻の姿はどこにもなかった。夢の中で語っていたように消えてしまうのだろうか。

 シャワーを浴びて着替えたいし、ゆっくり状況を整理するために俺は帰宅することにした。院内を捜し回っても彼は見つからない気がしたからだ。


 翌日、CLOSEの喫茶店でコーヒーを啜っていた。宇藤さんは居ないが戻ってくることもないだろうということで、勝手に淹れさせてもらったのだ。

 あのベルが来訪者を告げる。田居が暗い表情で入ってきた。

「ねぇ、辻さんも……」

「ああ」

「昨日急に具合の悪くなった子供を診てくれたお礼が言いたかったのに」

 俺が倒れる前に来ていたのか──風邪はまともに治せないのに命に係わる病気などに対してはとんでもない名医だったんだな。それとも、こういったことが続いたことと関係しているとか?

「何か言ってなかった? それともマスターのときみたいに手紙とか」

「ヒントになりそうなことは聞いたけど、なんていうか頭に霞がかかってる感じなんだ。もう少しで正解に辿りつけそうなんだけど、手を伸ばそうとすると消えてしまう」

「そっか」

 少しの沈黙。

「なぁ、なんで孤児院やってんだ?」

「何よ、藪から棒に」

「きっかけとかあったんかなと思ってな」

「そういえば……どうしてかしら昔のこととかはっきりと思い出せないのよ。でもいいの、これが私のなのかなって感じるようになってきたから」

じゃなくて?」

「ええ。鵜飼さんも宇藤さんも消えてしまって、それでも子供たちを護っていかないといけないと思うようになったから。だって……」

 次の言葉を紡ごうとしていた田居が突然天井を見上げた。

「そっか、そういうことだったのね」

 一瞬何を言っているのか解らなかった。

 彼女は優しい表情で見つめてくる。どうやら辿りついたらしい。

「鷺巣くんは気づいていたんじゃないの?」

「どういうことだ?」

「そうじゃないと、あんな質問しないよ。ありがとう。私も旅立つことができる」

 霧が晴れていく感覚。無意識に手を貸していたってことか。

「でも、どうして鷺巣くんは旅立てないのかしら。正解を手にしているのに」

「これは俺の問題だからな。あっちではうまくやるんだぞ」

「うん。鷺巣くんが来るのを待ってるね」

 辛い別れにはしたくなかったのだろう。少しだけ涙を浮かべながら微笑んでいた。そして彼女は喫茶店から姿を消した。


 みんな逝っちまった。いや、逝くって表現は正しいようで正しくないか。

 自力で生前の罪を思い出し、この世界での贖いができたとき、次の人生を歩むために転生するのだ。此処は贖罪の地。

 宇藤さんは喫茶店のマスター。

 辻は医者。

 田居は孤児院の院長。

 しかし、俺はどうしようもない。

 思い出したところで、気付いたところでどうすることもできない。人のためにこの世界の理を教えてしまっては意味がないから。そんなことをしても、相手は自分で気づいたことにならないから生まれ変わることができない。むしろ一生此処に繋がれることになってしまう。

 正解に近づくようにサポートすることしかできないし、それだけで償いになっているのか分からない。終わりが見えない。けれども、絶望しても仕方ない。


 次に導く人を探すとするか。いつか赦されるその日が来るまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

想い出の日常 山羊のシモン(旧fnro) @fnro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ