第一話 エディル

 ――ハーブの香りがする……。

 いよいよ鼻まで変になってきやがった。――ああ、もうこれで終わりか。

 ……けど死んだヒロシに会えるなら、死ぬのも悪くないなあ。思えば十六年間ろくなことがなかったけど、まあ、僕の人生、こんなものか。

 三年前の東日本大震災。そこから発生した津波は、僕の両親と弟のヒロシ、祖父母たちを一気にさらってしまった。あのときほど僕だけが生き残ったことを悔やんだ時はない。このポンコツ心臓を持った僕だけが生き残った。それが意味するのは、僕が近い将来、たった一人で死を迎える――ということだ。

 生まれた時からずっと入院していた僕には家族との思い出が少ない。特に十歳になってからこっち定期的に僕に会いに来てくれたのは、一歳違いの弟のヒロシだけだ。

 え? なんでかって? それは両親が医療費の免除につられて、僕を院長に売ったからだ。……詳しいことはわからないけど、多分そうだろう。

 ――そう、僕は院長のモルモット。家族に見捨てられた……孤児みたいなもんだ。でもだからって、ほんとに天涯孤独になるとは思わなかった。そして今、まさにお迎えが近付いている。

 ……案外、なんも浮かばねえなあ。

 心電計の音が遠くなっていく。蕪坂(かぶらざか)院長がしきりに話し掛けているようだが、僕にはよく聞こえない。院長は額に冷や汗を浮かべている。

「新薬注入準備」

 数名の看護師が、こくりと頷き、院長に注射器を渡す。院長はためらわずに、僕の点滴に薬を注入した。

 ああ、もうダメだ。

 僕がまぶたを閉じかけたその時。

「オキヅキ・ケイ」

 落ち着いた、柔らかい声が、僕の頭の中に響いてきた。はっとして、閉じかけたまぶたを大きく見開く。

 すると、目の前に、大きな羊の角を持った、艶やかな長い黒髪の、女の子が立っていた。

 その子は胸の開いた前開きの黒い服を着て、腰には四角い大きなウェストポーチ、太ももには折り畳み式の小さな銀色の鎌をつけ、黒いショートパンツをはいている。二本の長い脚の先は、動物のひづめになっていた。

「……誰だ?」

 十七、八歳くらいの少女は、長いまつ毛に縁どられた大きな緑色の目を僕の方に向けた。

「……生きたいか?」

「は?」

「生きたいか、と聞いている」

 僕はとっさに、辺りを見渡した。あれ? 院長や看護師たちの動きが止まってる……?

「今、このエンブレム・パスの力で、お前と私、双方の時間の流れを止めているが、時間がない。先に治療させてもらうぞ」

 白色と黒色の二つの陶器のようなペンダントを首から下げた女の子は、そう言うが早いか、突然服を脱ぎ、上半身裸になった。僕はぎょっとしてその裸体を見つめる。すると、彼女は人差し指の爪を、細長い緑色のメスのように変化させ、それを僕の服の上に押し当てた。

「え……?」

 僕がそう呟いた瞬間、彼女は、一気に僕の服ごと『開胸』してしまった。

 痛みは、なぜか感じない。僕は呆気に取られて彼女の行動を凝視した。

 これは……ただの『開胸』じゃない。胸部の皮膚を切り裂いた途端、彼女の爪の先が割れ、まるで細い蜘蛛の巣のように、細かく枝分かれする。それと同時に、紅い肋骨がぐにゃり、と湾曲し、ちょうど胸に、こぶし大の穴が開いた。彼女は爪を僕の骨からはがすと、今度は自分の肋骨に当て、同様の行動をとる。彼女の胸にも、こぶし大の穴が開き、そこから緑色の球体が出て来た。恐らく彼女の心臓? だろう。

 ……って、え? ちょっと、そんなことしたら、お前死ぬんじゃ――

 しかし、彼女は悠然と、僕の胸に自分の心臓? を移植する。僕の心臓の上から、自分の心臓をかぶせる感じで、少しずつ血管をつなぎ合わせ、元ある心臓からスイッチングしていく。不思議と、出血がほとんど出ない。最後の血管を縫合した時、彼女は僕の心臓を、器用に自分の体内に収納した。まさに交換(トレード)だ。

 次は、彼女のサクランボのように小さな肺を、さっきと同じ要領で器用に移植した。その後、これまた器用に閉胸する。糸とか、そういう道具は一切使ってない。移植時間およそ三分。閉胸し終えた後、途端に僕は、身体が軽くなっていくのを感じた。人生史上類を見ないすがすがしさだ。

 まさかこれが健康体というものなのか? 初めてだ、こんな感覚は。

 僕が絶句していると、女の子は服のボタンを留めて、にこりと笑った。

「私は、エディル。どうやら苦しくないようだな。この交換は一時的なモノだ。お前の心肺が私の体内でうまく機能するようになったら、また交換しよう。だが、それはお前がこの場でイエスと言えばの話だ」

「……な、何の話だ?」

 僕が怯えた眼差しで彼女――エディルを見つめると、エディルは邪悪に微笑み、首筋に指メスを当てた。

「お前が断れば、即座にお前の首を刎ねる。そう言う話だ」

 そう言うと、エディルは腰の四角いポーチから、黄金の封蝋のしてある手紙を取り出し、僕の前で読み上げた。

「オキヅキ・ケイ。貴殿を、我が時空間鉄道会社より選ばれし『挑戦者』と認める。ゆえに、早急に以下の『試練』を乗り越えるべし。その後、汝我に誓約を誓え。しからば汝に天磐船(あまのいわふね)の乗車を認める……どうだ?」

「はあ?」

 そう言われても、何のことだかサッパリわからない。

「つまり、生きたいなら身体も治り、別の場所で生きれる、ということだ。しかも、永遠の命が手に入るぞ、と言っているのだ。これは」

「そんな言葉一言も入ってなかったけど」

「男のくせにいちいちうるさいやつだ。永遠に健康に生きられるのだぞ。生きたくはないのか?」

エディルはイライラしているようだが、僕はふっと微笑み、素直に思っていることを答えた。

「……正直、わからねえよ。僕が生きるべきなのか、死ぬべきなのか。生きたいことは生きたいけど、どうせこれから生きたところで、人生は取り戻せないだろ? 僕もう十六だぜ? 勉強だってスポーツだってもう取り返しがつかないとこまで来てるわけで。それも周りの健常者と同じスピードで、同じようには生活できないだろうし。それを考えると、このまま生きてても――」

その回答に、エディルの怒りは頂点に達した。

「ええい、もういい!」

エディルが怒りに任せて僕の点滴の管を引っ張ると、勢いよくそれは外れた。腕に血が滲む。するとエディルはにやり、と笑い、僕の首に再び指メスを近付けた。

「おい、もうめんどくさい。お前、その血で手紙に血判を押せ。じゃないと今ここで始末する」

「は⁉ お……おいおい、ジョーダン……」

……じゃないらしい。僕の首筋から血が一筋、流れ落ちている。僕は慌てて腕を指で押さえると、血判を押した。

「あとはの記憶の消去を言いつかっている。」

エディルはそう言うや否や、今度は右手の指を細長い注射針のように変化させ、一瞬で蕪坂院長の首元に刺した。

それと同時に時間がゆっくりと動き出す。僕は院長が気を失い、ゆっくりと倒れていく様子を呆然と見つめていた。むせかえるようなハーブの香りが漂う中、獣のひづめで跳躍し、逃げ惑う看護師たちの首元に指針を刺していくその様は、まるで妖精が華麗に舞っているかのように――見えた。

「……さあ、ケイ。行こう。私におぶされ」

エディルは針を収めると、僕に背を向けた。僕はおずおずとエディルの首に手を回す。次の瞬間、エディルは僕を軽々と背負うと、「よし」と言って、真っ暗な窓の向こうへ駆け出して行った――。

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