時は逝き、君は過ぎる

三角海域

1

 君は絵を描いている。

 静かな部屋だ。君が画用紙に線を引く音しか聞こえていない。

 君の部屋は、いつも暗い。晴れた日も曇りの日も雨の日も、常に部屋のカーテンがしめっきりだからだ。

 わずかに灯る小さな卓上ライトに照らされ、君が引く線は輪郭を作り、平面な世界に奥行きができ、その線の連なりが、人物と部屋を描き出していく。

 描かれたのは、美しい女性と、広いマンションの一室だ。

 君は忘れたかもしれないが、僕はこの女性と部屋のことをしっかりと覚えている。

 二人で選んだその部屋は、木漏れ日の差す日当たりのいい部屋だった。

 町から少し外れた場所にあり、近くには公園があった。時々、僕と彼女は公園に出かけ、とりとめのない話をした。

 君はそんな思い出を絵に見出したりはせず、ひたすらに線を引き続ける。絵を完成させることではなく、君は線を引くことに意味を見出しているように見える。

 朝起きて、適当にレトルトで食事をすませると、君は絵を描き始める。その作業は君が眠るまで続く。

 そんな生活を続けて、そろそろ三年になるだろうか。

 線を引く。線が重なる。重なった線が、形を作る。君は何かを思い出すかのように、ひたすらに絵を描く。だが、それと同時に、何かを思い出すことを拒絶するように、絵が完成すると、すぐその絵をしまいこんでしまう。三年間かけてたまりにたまった絵が、押し入れや、そこらに放ってあるダンボール箱に押し込まれていた。

 君は、これで幸せなのだろうかと僕は考える。しかし、僕にはどうすることもできない。こうして、君を見ていることしかできない。

 呼び鈴が鳴った。君は立ち上がり、ドアをあけた。

「久しぶり」

 戸口には、友人の坂口が立っていた。

「カーテンくらいあけろよ。いい天気だ、気持ちがいいぞ」

 君は何も言わない。坂口は、君の後ろをのぞく。薄暗い室内と、そこら中に散らばる絵。乾いた絵具の匂いもした。君は部屋の机をパレット代わりに使っている。そこに塗り込まれた絵具の匂いが、締め切られた部屋の湿っぽいにおいと混じり合い、独特な香りを放っている。

 それと、坂口は気を使っているのだろうが、君は三日ほど風呂に入っていない。体臭も目立ち始めているころだろう。

「なあ、居山。吹っ切れとは言わない。だが、立ち直ってはくれないか。お前は何も悪くない。責任を感じることなんてないんだよ。安奈ちゃんだってきっと……」

 安奈。吉川安奈。僕が愛した女性。僕が守れなかった女性。

 君が、絵に描き続けている女性。

「居山。少しだけ外で話さないか。少しだけでいい。話したいことがあるんだ」

 坂口は頭を下げた。真面目で、男気があり、真っすぐな性格。僕が安奈と恋人同士になれたのも、坂口の助力があったからだ。

「外に出たくないなら、ここで話してもいい。一分でいいんだ。話だけでも聞いてくれないか」

 君は頷いた。虚空の中に心を閉じ込めてしまっている君も、親友の言葉に反応するだけの心は残っているのだろう。

 君は画用紙を抱え、鉛筆をぼろぼろのズボンのポケットに突っ込むと、坂口と並んで部屋を出た。

 君にとって絵は、この世に自身を存在させるための手段だ。つねにこれらを持ち歩かないと、君は君ですらなくなるだろう。君はそれでもいいかもしれない。だが、それはできない。安奈がそれをのぞまないと君は知っているからだ。

「ずいぶん上達したな。二か月前に見た時もプロみたいで立派なもんだったが、今はもうそういう所も飛び越えてしまっている気がするよ」

 公園のベンチに並んで座りながら、そんなことを坂口が話す。君は公園のあちらこちらに目をやり、絵を描いている。のどかな公園の空気。おだやかな風の中に、君が走らせる鉛筆の音が混じる。

 しかし、君が描いているのは、この公園ではない。公園は公園だが、君が描いているのは、安奈とよく散歩した思い出の公園だった。

「お前が絵を始めるなんてな。あんなに細かい作業が苦手だったってのに」

 坂口は、君が描いている公園の風景を見つめながら、穏やかにほほ笑んだ。

「大学を出て、すぐだったか。同棲を始めたの」

 就職先を大学在学中に見つけ、僕は安奈にプロポーズした。安奈はOKしてくれたが、安奈の両親に認めてもらうため、まずは同棲から始めることにした。

 僕は勉強ばかりで、アルバイト経験もなく、社会に出てからは苦労の連続だった。安奈も働いていたが、失敗ばかりの僕と違い、仕事も人間関係もうまくこなしていた。

 大学の頃から、安奈はしっかり者で、僕らが所属していた映画研究サークルのアイドルのようだった。僕も安奈を憧れの眼で見ていた。

 僕らは大学一年の頃から映研に所属していたが、ほとんど会話をすることもなく、共に三年になった。

 初めての会話のきっかけは、タルコフスキーのノスタルジアは好きになれないということだった。

 その日、たまたま僕と安奈が二人きりだった時に、安奈がふと「みんなタルコフスキーとかゴダールとかを推してるけど、私はスピルバーグとかルーカスも好き。アート作品も嫌いじゃないけど、エンタメも好きなんだ。でも、なかなかそんなこと言える雰囲気じゃないよね」

 と漏らしたのだ。

「キューブリックですら商業映画人みたいに言ってる人もいるからね」

「そうそう。映画って全部まとめて芸術じゃない。アートだからどうとか、そういうの関係ないって思うんだけど、いえないよねそんなこと」

「じゃあどうして僕に話したんだい?」

 僕がそう問うと、安奈は眩しいくらいの笑顔を浮かべ、言った。

「同じ匂いがしたから」

「匂い?」

「漠然とだけどね。君を見てて、同じなんじゃないかなーって。なんて、ほんとは、ヴィム・ヴェンダースが好きって坂口君に聞いたから。私も好きなんだ。パリ、テキサスは何回も観直してる」

 そうして、僕らは映画トークに花を咲かせた。そうして、会話を重ねていくうちに、僕らは恋人となった。

 遠い思い出だ。楽しく、輝かんばかりの記憶だ。

 だが、社会に出てうまくいかない歯がゆさを、僕は安奈にぶつけてしまった。

 彼女はどんな時でも僕を支えてくれていたのに、僕は安奈を拒絶し、家を飛び出した。

 そして、僕を追いかける途中で、安奈は事故にあい、そのまま死んでしまった。

あまりにあっけなかった。命というのは、こんな簡単に消えてしまうのか。

 僕は後悔した。なぜもっと頑張らなかったのか。なぜ優しい安奈にあんなひどいことを言ってしまったのか。

 葬式の時、僕は安奈の両親に頭を下げた。なんといえばいいかわからず、ただ申し訳ありませんと謝った。

 安奈の父親は、小さく「どうして……」とつぶやき、君のせいではないと言ってくれた。母親も同じように、自分を責めるのはやめてくださいと言ってくれた。

 だけど、僕は父親の「どうして……」という小さな言葉に、なんらかの感情がにじんでいるようで、恐ろしくなった。

 葬式が終わると、僕はかつて住んでいた町から離れたところに引っ越し、細々と暮らし始めた。

 毎晩毎晩、吐き気に襲われ、震えが止まらない。罪悪感があふれ、死にたくなる。だが、自ら命を絶つことは、一番の逃避だ。それは許されない。安奈が悲しむようなことは、もう二度としてはいけない。

 そんな日々を重ねる中で、僕は絵を描き始めた。楽しかったころの思い出の中に生きるために。それもまた逃避なのだが、僕にはそれしかなかった。未来に生きる活力はなかった。

 そうして、描かれた過去の中に没入するうち、僕は過ぎ去った過去の思い出の中に生きるようになり、自己が希薄となり、そのうち、自分のことを客観視する僕という存在と、身体を持ち、実際に生活をしている君という存在に分離してしまった。心と体の分離というやつだと、坂口に連れられて行った病院で告げられた。

 そうして、君はいまここにいて、座っている。僕はそれを君のすぐ近くで見ている。君が僕を知覚しているかどうかはわからないが。

「なあ、居山。人に会ってくれないか」

 坂口は絵を見つめたまま言った。

「お前と同じく、大事な人を亡くした人がいる。その人は芸術活動で立ち直った。お前も絵を描いてるだろう。なにか立ち直るきっかけになるんじゃないかと思ったんだ。出かけるのが嫌なら、自分が出向いてもいいと言ってる。どうだ?」

 君はなにも答えない。

「頼む。少しでもきっかけがあるんなら、俺はそれに賭けたい。すぐに立ち直れとは言わない。大事な人を失ったんだ、そんな簡単には立ち直れるはずがない。でも、普通に、せめて傷を抱えていても自分の人生を生きるくらいには前を向いてほしい」

 やはり君は答えない。

「明日、その人を連れてまた来る。どうしても会いたくないというなら、それでもいいから」

 坂口は君を家まで送ると、また明日と帰っていった。君は部屋に戻ると、また絵を描き始めた。

 線。線。線。その連なり、過去、時間。安奈。

 君は、そのまま眠りに落ちた。



 明くる日、坂口が連れてきたのは、柔和な表情の初老男性だった。

「蔵原です」

 蔵原さんは握手を求めたが、君はぼんやりとしてそれに応えない。坂口が慌てたような表情を浮かべたが、蔵原さんは気にする様子もなく、優しく微笑んでいた。

「部屋をのぞかせてもらってもよろしいですか?」

 君は何も言わず、部屋に戻る。蔵原さんが後に続く。

「すいません。彼と二人で話をさせてもらえませんか。一時間ほどでかまいませんので」

 蔵原さんがそう言い、坂口は公園で待つと言い、去っていった。

 狭く暗い部屋。そこら中に紙が散らばり、キャンバスがパーティションのように並べられている。

 蔵原さんは三十分ほどかけて、君の作品を鑑賞した。何も言わず、ただじっとひとつひとつの作品を見つめている。その際も、柔和で優しげな微笑みは絶やさなかった。

「よい絵ですね」

 蔵原さんが言う。

「感情がこもっている。ずっと描き続けていると、絵の中に溶け込んだ感情が見えるようになってくるんです。あなたの絵には、それがある。ただ……」

 蔵原さんは、床に落ちた絵を拾い上げ、言う。

「あなたの場合、自分の感情を削り取って絵に溶け込ませているらしいですね」

 その時、ちらりと蔵原さんが僕の方を見た気がした。僕は存在してはいるがここにはいない。錯覚だとは思うが、なぜかそう思った。

「それを続けているうち、あなたの感情は絵の中に砕けて散らばってしまったようだ」

 蔵原さんは、抱えていた鞄から、木材と彫刻刀を取り出した。

「どうです? 木彫りでもやってみませんか?」

 君は蔵原さんを見つめる。僕もなぜ木彫りなのか気になった。

「あなたは自分という存在を削り、それを線にして絵を描いているようです。描かれた思い出の風景ひとつひとつが、まったくの他人である私にも染みてくるのは、それだけの感情が絵に乗っているからです。削り取った感情はもう戻らない。それなら、取り戻せばいいのです。それには、木彫りが一番手軽でいい。木のぬくもりに触れながら、彫刻刀で木を削るという作業は、感情を発露させる行為と似ているんです」

 君は木材と彫刻刀を手に取り、眺めている。

「絵は線を足していきながら形を生み出していくものです。彫刻は、その逆。削るという引き算から形を生み出していくんです。ただ木を削るわけではなく、余計なものを削りながら、形を作ります。そうして完成した作品は、その人の心そのものなんです。自分を見つめ直すには、彫刻が一番いい。私は、妻と息子を事故で亡くしました。その事実から逃げるように、私は心を閉ざしてしまい、廃人のような生活を送っていたんです。そんな時、よく通っていたバーのマスターから、木彫りの道具一式と、私がいま言ったような言葉を綴った手紙が同封されていたんです。そのあとのことは語ることではないでしょう。自分の心と向き合えるのは、結局自分だけなんですから」



 戻ってきた坂口と共に蔵原さんが帰った後、君は木材を二時間ほどじっと見つめていた。

 木材を手に取り、撫でまわしたりもした。指でなぞり、目を閉じる。表面、角。。

 そして、夜が明けるころ、君は彫刻刀を手にし、木を削り始めた。

 下書きをすることもなく、刃を木材にいれ、削っていく。

 削るたび、木くずがはらりと机に落ちる。はらり、はらり、はらり。木くずが落ち重なっていくと、君の中に何かが形作られてくる。

 刃をいれ、削る。それをひたすら繰り返す。彫刻刀を握る手に力がこもる。

 何を作っているのか、君にもわからない。だが、君の中に何かが少しずつ溢れてくるのが、僕にもわかった。切り離されたと思っていた君と僕という存在が、再び繋がろうとしているように感じる。

 君は木を削りながら、思い出も削っていく。僕が生きる思い出の世界が、少しずつ削り消えてく。

 蔵原さんが言ったことは、どうやら正しかったらしい。木くずが重なっていく。荒くなる君の息が木くずを舞い上がらせ、散らばる。

 君の顔に、感情が戻る。目に涙が浮かぶ。頑張れ。頑張れ。僕は言う。頑張れ。

 君は寝ることも忘れ、ひたすらに木を削り続けた。削られた中から形が浮き出てくるころには、僕は消えかけていた。

 君は木を削る。頑張れ。僕が言う。君はさらに木を削る。頑張れ。僕が言う。木を削る。頑張れ。君が言う。泣きながら、君は頑張れと言う。どれくらい時間がたっただろうか。君(僕)は完成した彫刻を見つめている。

 それは、はっきり言って不格好だった。それでも、君(僕)にはそれが安奈だということがわかる。

 ありがとう。君が言う。

 誰に言った言葉なのか。蔵原さんに? 坂口に? それとも安奈に? それとも、僕に? 君は目を閉じ、眠りにつく。

 ゆっくり眠るといい。君が目を覚ますころには、僕はもう消えているだろう。いや、君の中に戻ると言ったほうがいいかもしれない。

 僕と、僕が生きる思い出の世界は、削られ、そこから未来がうまれた。安奈はもういないが、彼女の存在は永久に自分の心の中に残り続けるだろう。それでいい。それしかできないのだ。残された人間には、それしか。

 木彫りの安奈を抱えながら、意識が少しずつ遠のいてく。

 目が覚め、君は居山というひとりの人間に戻るだろう。僕(君)は願う。

 幸福に生きろ。

 さようなら。



「蔵原さん、いったいどんな方法であいつを立ち直らせたんですか?」

「少しやりかたを教えただけですよ」

「セラピーのような?」

「いいえ。自分を見つめる一番いい方法を教えただけです」

「気になるな」

「そうですか? 坂口さんも、試してみますか?」

「教えていただけるんですか?」

「ええ。かまいませんよ。居山さんもまた次の作品を作っているようですし、三人で作りましょう」

「作る?」

「ええ。とても有意義な作業ですよ」



 

 時は逝くもの。過去も未来も無形未定であり、形あるものは今にしかない。

 

 ※居山修二・蔵原教尚合同作品展入り口に飾られた、蔵原氏の言葉より抜粋。

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