第8話 鏡の前の決意

腫れた顔そのままに、僕は団地に帰ってきた。


この時、住んでいた団地は2LDKの市営団地だった。


気分の良かった僕はドアを開け、珍しく僕は「ただいま」と声をかける。


その声に、反応したのか、莉乃が走って玄関までやってきた。


「キ、キンドラ。珍しいじゃん『ただいま』なんて言うの」


「え?そう?」


(そう言われてみれば、そうだな…いつもなら逃げるように部屋に籠るし…)


莉乃は僕の顔をじーっと見てきた。


その顔を見て暗そうな表情をし


「また…やられたの?」と問う。


「うん…」と僕は頷く


すると、莉乃は拳を握りしめて怒鳴った。


「お兄ちゃんをいじめる奴ら、私、許さない!」


明らかに興奮して言う言葉、今にも貴志達に殴り込みをしに行きそうで、怖かった。


だから、僕はこう答えた。


「ありがとうな、莉乃。でもね、今日はイジメられただけで終わったわけじゃないんだよ?」


「でも!私、お兄ちゃんが、こんな毎日、酷い目に遭っているの、見てられないよ!誰?イジメて来てる奴ら!私、ぶっ飛ばしてやる!」


それを見て、何故か僕は笑ってしまった。


「あはは…」


「え?なんで笑ってるの?」


「莉乃、さっき僕は『今日はイジメられただけで終わったわけじゃないんだよ?』って言ったよね?」


そう僕は言うと、莉乃は不思議そうな顔で見てきた。


「話は後、遅くなってごめんな、お腹空いただろ?ご飯作ろうな」


そう言うと僕は部屋に戻り、泥まみれの制服から着替えようとした。


そんな中、莉乃が部屋に入ってきた。


「キ、キンドラさ…」


「なに?」


「そのまんま、シャワー浴びてきなよ。お米なら後、炊くだけだから」


と彼女は着替え中の僕の目線を逸らし、タオルを渡してくれた。


莉乃は、既にお米を研いだり、洗濯物を入れて畳んだり、家の手伝いも積極的に出来る子だった。料理にも挑戦しようと試みたこともあるが、母親が「包丁が怖いから」と言う理由でまだ、包丁を家では握った事がない。



「う、うん」


僕はタオルを受け取り、先にシャワーを浴びる事にした。


莉乃はすれ違う僕をじーっ見て


「久しぶりに一緒にお風呂入る?」


と声をかけてきた。


それを聞いた僕は、耳まで真っ赤になり


「ば、バカヤロウ、イキナリなに言ってるんだよ。」と返す。


「昔は一緒に入ってたじゃん」


「あの時は、まだお互い小さかったからだろ?」


莉乃は寂しそうな顔をした。


(なんで、寂しそうなんだ?)


僕は不思議に思った。






ザーッ






シャワーを浴びる。体があちこちと痛かったが、顔は特にヒリヒリして痛かった。


僕は今日あった出来事を思い出す。


(フリースクールか…)


先生の言った言葉が妙に引っかかった。


体と頭を洗い、シャワーを浴び終えると、体を拭こうとする。


しかし、痛みが出てなかなか上手く拭くことが出来なかった。


一つ一つの痛みが殴られた時の嫌な思いを思い出させる。


(あいつら…)


そう思い返すと、僕はだんだんと怒りが湧いてきた。


トランクスを履き、洗面台に向かい、鏡を覗く


そこには、顔が腫れ、痣(アザ)だらけでぽっちゃりした体型の醜い僕の姿が映った。


『「だって、私は『君』を変えたいんだ。変えられるんだ!」』


『「ライト!今日から君は生まれ変わるんだよ?だから、その『記念』だよ?」』


薫の言った台詞が、あの時の記憶を呼び起こす。






バンッ!






次の瞬間、怒りがピークに達し、僕は鏡を平手で叩いた。


醜い自分を叩くように…そして、じーっと鏡に映る自分を睨みつけた。

そして、誓った。






(変わるんだ…僕は変わるんだ)







すると、莉乃が驚いた様子で飛び出してきた。


「キ、キンドラ?」


妹の目には、裸の僕が映る。


「大丈夫?」


彼女は僕に問う。


僕は変わらず、鏡に映った醜い自分を睨んでいた。


「痛そうだね…」


莉乃は悲しい顔で僕の痣だらけの体を見た。


その声に、僕はようやく莉乃に気がついた。


「あっ、ごめん。びっくりさせちゃったね」


「ううん…お兄ちゃんが感情的になるの…珍しいから、驚いたけど…」


僕は冷静さを取り戻し、妹に


「お腹空いたよな?適当に何か作ろう」


そう言って服を着替えた。





この日は母親は夜勤で、帰りが翌朝になる事がわかっていた。


テーブルの上に2000円が置かれてる。


つまり、2、3日は「これで何とかしろ」と言う母親からの合図だった。


母親は、離婚後、携帯電話のコールセンターの派遣の仕事をしていた。


『時給が良いから』そんな理由だった。詳しい時給はいくらか知らないけれど、夜勤でいないことも多く、夕飯の当番は僕がやることも多かった。


ただ、夜勤の日は必ずと言っていいほど、2、3日は帰って来なかった。

きっと、男の人と一緒にいるのだろう…僕ら兄妹は何となくそう感じていた。


それは離婚の理由が「母親の浮気」と「父親のDV」と言われている。


浮気が発覚した後、父親がカッとなり、その勢いで母親をビンタしたのだ。そして、母親は「DVだ」と騒ぎ立て、離婚まで話が行ったのだった。


母型のお父さんつまり、お爺ちゃんは、その話を聞いて、母親を勘当した。


それ以来、お爺ちゃんから、連絡は来ていない。


我が家の生計は、母親の給与と父親の慰謝料と教育費、たぶん全部合わせて30万くらいだった。


30万もあれば、それなりに生活出来るだろう?と思われるかもしれないが、母親は酒への依存が強く、毎日のように居酒屋に行き、タバコも一箱吸い、夜はどこかへ行ってしまう。そんな毎日の繰り返しで、しわ寄せが僕ら兄妹へとやってくる。


この頃は、僕はそこまで考えていなかった。ただ、ただ「貧乏なんだ」そう思っていた。


着替え終わった僕は、炊飯器のスイッチを入れ、冷蔵庫の扉を開ける。

中にはスーパーでタダで貰える牛脂、キムチ、豚肉のロース肉、中国産の安いにんにくなどが入っていた。


莉乃はワクワクしながら、僕の顔を見てきた。


「お兄ちゃん、今日は何作るの?」


「豚キムにしようか?」


すると、莉乃は嬉しそうにはしゃいだ。


「キンドラの作る豚キムだぁ!やったぁ!」


「あははは、肉久しぶりだもんな」


肉がある事が珍しかった。


いつも、この1年母親が作るおかずと言えば、目玉焼き、ノリ、味噌汁、たくあん、機嫌が良い時は、豚肉入りの野菜炒めもあったけど、基本質素な生活をしていた。


そして、太った1番の理由は大量のお米だった。


食べ盛りの僕は、ピークの時は1日4杯はふりかけをおかずに、おかわりをしていた。


小学生の頃は、母親が離婚する前はクラスで一番太っていた。それまでは食事は質素なものではなかったのだ。

中学に上がり、イジメを受けるようになって、僕は徐々に痩せていった。


それでも、まだ身長145センチにして、体重は55キロとこの歳では重たい方に入る。


小学生の頃は体重60キロ以上あった。


食事を作り、二人っきりの食事をする。


「やっぱり、キンドラの作る料理は、美味しい!」


「そう?」


「うん、昔お母さんが作ってくれた料理みたい!」


そう言うと僕は笑みをこぼした。


「お兄ちゃんさ?今日、そんなに怪我したのに、どうして機嫌が良いの?」


「えっ?そんな風に見える?」


僕は問う


それに対して彼女は笑みを浮かべて


「前のお兄ちゃんが、戻って来たみたい」と喜んでいた。


「実はね…」


僕は莉乃に今日あった出来事を話した。


それに莉乃はかなり驚いた様子で、自分の事のように喜んだ。


「あのキンドラに、彼女が出来た!?嘘でしょ?」


莉乃は言う。


「いや、お祭りに行こうって誘われただけで、『彼女』じゃないって…」


「でも、でも!でも!!女の子から誘われるなんて初めてだし、そもそも、キンドラ!赤面症どこ行ったの?!」


「いや、恥ずかしかったよ…もう、逃げ出したくなるくらい」


僕は顔を真っ赤にする。


それを見て莉乃は、高笑いをした。


「あはははははは!キンドラに彼女!マジウケる!」


彼女は腹を抱えて笑っていた。目には薄っすらと涙が浮かんでいた。


「そ、そこまで笑う事ないじゃん」


「だって、だって、だって…あははははは!」


「ったく、あんまり僕をバカにしないでくれよ」



そう言うと僕は食べ終わった食器を片付けた。すると、莉乃は


「あっ、私が洗うよ。」


と言ってくれた。


でも、莉乃が洗うと何故かベトベトする事が分かっていたので


「いや、いいよ。」と僕が洗う事にした。


そして、いつもの様に、僕ら兄妹は別々の部屋に分かれて、いつもの様に過ごした。


しかし、この日の妹はどこか違っていた。


しばらく、すると…







コンコンッ









部屋をノックする音がした。僕はドアを開ける


「キンドラさ…」


どこか、その顔は元気が無さそうに見えた。


「どうしたの?」


すると、突然、妹は僕に抱きついた。


「痛っ!」


抱きつかれた勢いで、殴られた所に痛みが走った。


莉乃は泣きながら


「お兄ちゃん…『いつものお兄ちゃん』が、戻ってきてくれたんだね…よかった…よかったよ…」


僕はその時、莉乃が本気でこの4ヶ月心配していたのだと理解した。


でも、まだ何も『始まってもいない』し、まだ何も『終わっていない』


そして、これから起こる『始まり』は、僕ら兄妹の『運命』を変える事になるなんて、この時知る由もなかった。

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