動かぬ馬車



 簡潔に言うと、馬車が動かなくなった。


 帰りがてら一応畑を見て、すぐに帰るのはわざわざ妻を連れ出しておいて何なので領地をゆっくりのんびり馬で闊歩していたところ。

 領地初見の妻は日にも当たらず風にも当たらず領地を見られて、馬に乗るリュークは緊張する必要もない。

 現在における理想の形だった。

 それ、なのに。


「駄目ですね。完全に動きません」


 やっぱり連れ出すなら町の方だった。

 事実としてはそんな誘い出来ないのに、リュークは思った。

 馬車の車輪が石に乗り上げ、壊れたのかそれきり動かなくなったのだ。


「仕方ないな、一度邸に――」

「奥様の身体をお冷やしになってはいけませんから、リューク様は奥様と一緒にお先にお帰りになってください」

「早まるなティム」


 馬車の状態を御者と一緒に見ていた従者が振り返って言ったことに反射的にガシッと肩に手を置く。


「ですが、秋といえども風は冷たいのでじっとしていれば身体は冷えます。リューク様は平気だと思われますが、奥様は風邪をお召しになってしまうかもしれません」

「こうしようティム、俺はここに残るからおまえが共に……」

「奥様が他の男と馬に乗ってもよろしいのですか?」

「駄目に決まってるだろ!」

「……面倒ですね」


 思わず胸ぐらを掴んでしまった。

 すぐに落ち着き、襟を整えて謝って話を続ける。


「どうしてもとおっしゃるのであれば、私も馬車の馬でついていくことは可能です」

「だが……それは結局俺が彼女と一緒に乗るということだろ? それは心の準備がな……」

「してください。今すぐに」


 何だか今日の従者は容赦がない。

 リュークは考える。相乗りは無理だ。何が無理って近すぎる。


(相乗りの意味は分かっているのか、密着するんだぞ。離れる? 不安定になるだろう。あ)


「ティム、」

「次はどのような案ですか」

「俺が手綱を引いて誘導すればどうだ」

「……それでリューク様がよろしいのであれば」

「駄目です、兄様」

「ミア」

「忘れたの?」


 馬車の傍らこそこそ話している二人の元に急に現れたのはディアナについていた侍女だ。

 兄である従者に歩み寄った妹が兄に何事か耳打ちし、耳を傾けている方は真剣な表情に。

 それが終わって、兄妹は最後に顔を合わせ頷き合う。

 そしてリュークに向き直ってきた。


「リューク様、奥様は馬に乗ったことが一度もないそうです。リューク様が引かれるとなっても一人でバランスを取るのはいささか難しいかと……落ちてしまうかもしれません」

「なんだと? じゃあ駄目だ」


 却下。何よりも安全が第一だ。


「リューク様、これは難しく考えることではありませんよ」

「あの……」


 小さめの声が遠慮がちにかけられた。

 その声をリュークが聞き取らないはずはない。妻の声だ。

 声を認識するなり振り向くと、明るい橙のドレスとは反対に不安そうな表情をする彼女の姿。

 瞬時に、どこから聞いていたのだろう。と疑問が過る。気を悪くしているかも。との思いも。


「いやこれは……」


 何が何やら弁解する理由は本当はないのに焦って口を動かしていると、彼女の後ろに移動したミアが自らを指さしている動作が目に入る。指さしは前に立つディアナにもおよび、その交互の指さしが繰り返される。

 侍女。妻。侍女。妻。

 口が動く。おなじ。

 そうか、ミアがいたときからか。と理解してわずかに顎を引く。

 さてそれでは落ち着いて状況を説明しようと、リュークは平常心を取り戻して表情筋の掌握も行う。


(そういえばミアは馬に乗れたんじゃないか? だがミアも体格はよくはないしな……)


「わたしは大丈夫です、あの、リューク様のお邪魔はしたくないので……ですので、気にしないでください。お手伝いできることがあれば……」


 邪魔?

 リュークははた、と思考を止める。

 癖となった新妻からの目そらしによって馬車を見つめていた視線を、彼女に戻す。

 リュークが見ても視線は合わない。俯いている。白い手袋で覆われる手は胸の前で握られており、だからか、弱々しい印象を受ける。

 違う。声自体が控えめで、控えめすぎて、言動も同様だ。

 気を遣わせた。その事実が、リュークを動かした。


「少し、我慢してくれ」

「――え、きゃ、」


 足が進んだのは彼女の元。大股で歩み寄るやいなや、断りだけいれて返事を待たずに抱き上げる。

 そっとしたつもりではあったけれど、前振りほとんどない行動に驚いた声がした。それさえも、小さい。


「りゅ、リューク様、あの、」


 戸惑い満ちる表情で見上げられていることは声で感じていたが、耳に入らなかったように彼女を抱いたまま歩く。

 そして、手綱を持たせて待たせてはいるものの、元は暴れ馬らしからぬ様子で大人しく止まっている自らの馬に慎重に乗せる。


「そのまま、少し待ってくれ。できるか?」

「は、はい……」


 思いつくことがあって、一度背を向けた方に戻る。

 あっけにとられている様子の侍女の元へ行き、尋ねる。


「ミア、彼女が羽織るものは持ってきていないのか」

「――あります」


 侍女は素早く馬車の中へと戻り、花の模様が刺繍されているショールと帽子を持ってきた。

 太陽は高い位置にあり、雲はあるが途切れ途切れで青い空にアクセントを加えているだけ。日差しを遮る必要はある。

 足早に戻ると、ディアナは青毛の馬に慣れない様子で不安定に座っていて馬が一歩でも動けば落ちそうだ。

 リュークは手綱持ちをいつの間にやら代わっていた従者に、手綱と引き替えにショールと帽子を渡す。それから、ディアナの後ろに跨がり手早く手綱を彼女の前で握る。


「大丈夫だ、背筋を伸ばせるか」

「……はい、ちょっと、待ってください」

「ゆっくりでいい。どのみちあなたは落とさない」


 乗っている馬が微動だにしないことに気がついたのか、ディアナは徐々に丸めていた怖がる背中を伸ばしてゆく。


「よし、ティム」

「どうぞ」 


 帽子とショールを受け取るために手を離すと、ディアナがびくりとしたことが分かった。


「心配しなくてもこの馬は賢いから動いてはいけないことを分かっている」

「そ、そうなのですね」


 その様子に頬が緩む。端から見ても頑張っている様が可愛らしかったのだ。後ろ向きなので気と頬が緩む緩む。

 そうしながら、ショールを羽織らせ帽子をかぶってもらい、リュークはまず動く旨を同乗者に伝える。


「そろそろ動く」

「はい、わ、分かりました」


 動いて慣れてもらうしかないか、と落ちるかもしれない恐怖を感じさせるような腕はしていないし、落とすつもりは毛頭ない、落とさない自信があるので下に視線を向ける。


「先に戻る」

「はい、ごゆっくりどうぞ」


 従者の言葉に見送られ、進み始めた。



   ◇◇◇



 後ろからでは一見侯爵しか乗っていないように見える青毛の馬の上の背中を見送った従者は、その背中が十二分にも遠ざかっていってから馬車方向に向く。


「車輪、元に戻そうか」

「了解です」


 従者の言葉に同じく侯爵と夫人を見送っていた御者が動く。馬車の方、車輪にかがみ込む。


「直る? 本当に壊れたとかは嫌だ」

「直りますよ、ほら。動かしてみます」


 御者が馬車を引っ張る馬の元へ行き、馬を進ませると馬車は難なく進む。


「じゃあ、僕たちはここで少し休んでから行こうか」


 よいしょとその辺りに座ろうとする。


「いけないわ兄様、汚れちゃう」

「ミア、ごめんよ。一仕事終えてつい」

「もう」


 妹に注意され、従者はしりはつけないようにしゃがみ込むだけしゃがみ込む。


「それにしても上手くいったものだなぁ」

「兄様が信用されてるからよ。だって、リューク様、ご自分で確かめようとなさらなかったもの」


 従者は「どうかな?」と言いながらも少し照れた。


「奥様には悪いけれど、こうでもしないと」

「大丈夫、きっとディアナ様にも必要なことだから」

「そうだな。けどたぶん、使わない筋肉を使って明日は筋肉痛だろう。ミア、帰ったらマッサージをして差し上げるんだぞ」

「分かってるわ、兄様。でも、とてもお似合いよね並んだところを見ると」


 実は、馬車が動かなくなるのは石に乗り上げなくてもそうなる予定だった。

 ただ、石に乗り上げたとき、念のため確かめようと馬車を止めたとき今がチャンスだと従者は「仕掛け」を発動させたのだ。

 小さな仕掛け。馬が脚を進めても馬車は頑として動かない、車輪が、か。だが、車輪を確かめられてしまえば、仕掛けは暴かれる。

 信用の度合いはさておき、どうせ早々に話を移して意識を逸らすつもりだった。

 そんなバレたらどうなるか分からない危険と隣り合わせなことをしたのは、従者たちのイタズラ心などであるわけがない。

 一重に主人夫婦の距離を縮めるきっかけを作りたかったのだ。荒療治でもいいから、その状況を作る。

 邸から出るときに相乗り方法を押さなかったのは、あそこでどうにかして相乗りにこぎ着けていても二人きりではなかったからだ。


「緩んでたなぁ、表情筋が」

「兄様、私リューク様を見直したわ。見た? 抱き上げたとき。驚いちゃったし、こっちがきゅんてしちゃった」

「そっか、お兄ちゃんはちょっと驚いた」


 後は押すしかないと主人の考えている暇を削ろうとしていたとき、奥方が現れたときのことを思い出す。

 奥方の前としては一番慌てふためいていたのではないだろうか、それからやはり無表情に戻して思考を働かせ出しただろう主人。なのに、従者が何か言う前に彼は急に行動を起こした。

 大胆にも前置きとほぼ同時に抱き上げ、従者たちも気にすることなく馬に歩み寄り乗せ(馬に不慣れな奥方にかける声は最近では珍しく柔らかめで、このとき顔が緩んでいたことを従者はすぐ傍で目撃した)、準備を整えて「先に戻る」との一言だ。

 この場で一番驚いているのは自分に違いないと従者は考える。だって主人のヘタレな姿を唯一見ているのだ。


「やっぱり男らしいのだから、存分に発揮すればいいのに!」

「そうだよなぁ。でも、何で急にスイッチ入ったんだか……」


 それだけが疑問で、従者は首を捻る。

 彼らがそこを発つのはもう少しもう少し後。


(もう問題ないっていうことか)


 従者は秋晴れの空を見上げて一息ついた。






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