王城内地下室にて(3)


 アゴ髭のおっさんの言葉で、ようやく俺は記憶を失っていることに気付いた。

 自分の名前を思い出せない時点で気づけよ、と数分前の俺を殴りたい気分だったが、どうやら俺は元来適当に生きてきた人間のようだ。

 忘れていることにほとんど違和感を感じていなかった。

 ここに来るまでの記憶が無い上に、さらに俺の周囲にいる連中も、俺の事を知らないらしい。

 本格的に訳がわからん。

 

「イェルハルドさん、姫様が意識を取り戻しました!」


 上に繋がっていると思われる階段から、男達が降りて来て言った。

 多分さっき銀髪の女を運んでいた奴らだろう。


「そうか。水を多めに飲ませておけ」

「はい。その男はどうしましょう?」


 俺を見ながら聞く。


「我々の意思だけでは決められん。姫様とアークに一度合わせる」

「戦士長に?」

「ああ、何者か分からぬ以上、この男の技量を確かめるしかあるまい」

「はい。国王には……?」

「まだ報告してはならん。外部にも一切情報を漏らすな」

「了解」


 返事をすると男は再び階段を上っていった。

 階段の奥からはほのかに明かりが漏れ出している。

 上には何があるんだ?

 姫様とか言っていたな……。


「記憶を失っているというのは本当か?」


 突然、妖精と一緒にいたフードの男が聞いてきた。


「どうやらそうみたいだな」

「にしては随分と落ち着いているな」


 物珍しいものを見るような目で言ってくる。


「別に。ただうじうじ考えても答えは出ないと思っているだけだ」

「すごいな。俺は何人か記憶を無くした人間を見てきたが、全員動揺して文字通り我を忘れていたよ」


我を忘れるか……。


「だろうな。記憶を無くすということは、辿ってきた道、ある種自身のルーツを失うということだ。

結果的に自我が大きく揺さぶられる。実際、今の俺は自分が何故こうして地上に立っていられるかも理解していない。地に足が付いていないとはこういう感覚なんだろうな」

「はは、どう見ても冷静じゃないか。君が何者なのかますます興味が湧いてきた」


男は、さっきよりも弾んだ声でそんなことを言ってきた。


「男に興味を持たれても嬉しくねえな……」

「そうかい。なら一方的に自己紹介させてもらうよ」


 そう言って男はフードを脱いで、俺に手を差し出してきた。


「青魔術師団のリーダー、ディルクだ。よろしく名無しくん」


 そいつはリーダーと名乗ったが、意外にも茶髪の若い男だった。

 屈託のない笑みを浮かべて、白い歯を見せている。

 きっと好青年とはこういう男のことを呼ぶのだろうな。

 俺とは正反対の人間だと直感的に思った。


「名無しの浪人だ」


 俺はそう言って男が差し出した手を軽く握り返した。


「ろーにん? とは何だね?」

「何だそりゃ、知らん」

「はは、おかしいな、君が今言ったんじゃないか」


 ろーにん?

 確かに意味の分からない言葉だ。

 何故俺はそんなことを口走ったんだ?


 ――と考えていると、一瞬頭に鋭い痛みが走った。


「くっ!」


 が、すぐに止んだ。

 くそ、なんなんだこの痛みは。

 ……さっきから痛みが走るのは、何かを思い出そうとした時だ。

 頭に無いものを思い出そうとして脳が悲鳴を上げている。

 そんな感じだ。

 もしかしたら記憶の断片に触れているのかもしれない……。


「どうした? どこか痛むのか?」

「ふぅー……いや問題無い」 


 記憶のことは考えていても仕方ない。

 過去の俺がどういう人間であろうと俺は俺だ。

 今、ここにこうして立って物事を考えられる俺がいる。

 それで充分だ。

 しかしとりあえず、今俺がどういった境遇に置かれているか確かめる必要はありそうだな。


 ディルクの方を見ると、ある違和感に気づいた。


「ん? そういえば、さっきあんたの横で空を飛んでいたやつはどうした?」

「ああ、フェルのことか。 あいつは何やら君を怖がっていたみたいだから戻って貰ったよ」

「たしかに、キイキイうるさかったな」

「はは、そう言わないでやってくれ。 普段は人に迷惑をかけるようなやつじゃないんだよ」


 という事は、嫌われているのは俺だけってことか。

 なんでだ?

 あれか、俺の持つ常人離れしたフェロモンが妖精には刺激が強すぎたとかか。

 まあそんなところだろうな。

 つか、あの妖精は戻ったって、どこに戻ったんだ?

 突然姿を消したようにしか思えんが。

 そのことについて聞こうと思っていたら背後から声をかけられた。


「ディルク、あまり不用意にその男と親しくしないで。 そいつは私達の敵かもしれない」


 刺々しい声。

 アルマとかいう女だ。

 見ると明らかに俺を睨んでいた。


「なに怒ってんだよ」

「怒らせたのはあなたでしょう……?」

「覚えがないな」

「なら思い出させてあげます。あなたは竜神の名を騙って私を辱めました」

「それはあんたが勝手に勘違いしただけだろ」

「言うに事欠いてそれですか……」


 俺の言動に呆れたという表情だ。

 だがそれでも続ける。


「仮にだ。仮に百万歩譲って俺が嘘をついていたとしよう」

「百万歩も譲らなくても事実です。そもそも自分で嘘だってさっき言ってたじゃないですか」

「だが、それも仕方なかった事だと思わないか? 俺は記憶を失って右も左も分からない状態でここにいた。ちょっと混乱してしまうのも無理はない」

「はあ……。初対面でここまでふてぶてしい男は初めて見ました……」

「それほどでもない」

「別に褒めてない!」


 ビシッと突っ込まれる。

 面白いなこいつ。

 打てば響くとはこういうことか。


「あーなるほどな。 女には定期的に不機嫌になる日があると聞く。今日はその日というわけか」


「……」


 カチャ、と

 アルマは無言で剣の柄に手を添える。


「待った待った! アルマさん、斬るのは無しです!」


 ディルクが慌てて仲裁に入った。

 アルマは剣を半分抜きかかっていたが、はっとした表情をして鞘に戻す。


「……理解しました。どうやら私はこの男とは相性が悪いようです。今後一切無視します」


 この女、ディルクが止めなければ間違いなく抜いていたな。

 尤も、俺としてはこのまま襲い掛かってきてもそれはそれで面白いと思っていたが。

 まあ、その時は容赦なく……。


 ……ん?

 何だ?

 今俺物騒な事考えてなかったか?



「ディルク、服を脱げ」


 突然アゴ髭のおっさんが言った。


「え?」


 俺とディルクが振り返る。

 おっさんはアゴ髭をさすりながらディルクを見ている。

 その表情はどこか物憂げにも見える。

 あの表情は……そう、恋する乙女の表情だ。(多分)


「あの、イェルハルドさん、それはどういう……?」

「馬鹿、決まってんだろ そういうことをわざわざ聞くもんじゃねえよ」


 俺はディルクを肘で小突いて、小さな声で耳打ちする。


「え?」

「アゴ髭なんて綺麗に揃えやがって、一目見て怪しいと思ったんだよ」

「言ってる意味が分からないな」


 ディルクが小声で聞き返す。


「分からないのか? あのおっさんのディルクを見る表情……あれはまさしく恋する乙女の顔だ」

「な、なんだって!?」


 ディルクが素っ頓狂な声を上げる。

 少し声が裏返っていた。


「おい、なにをしているディルク。はやくしろ」


 おっさんが俺達を見て言う。


「は、はい! 少し待ってください!」


 ディルクは俺に小声で続ける。


「き、君の言っていることは間違っていると思う。俺はイェルハルドさんのことを昔から知っているが、そんな素振りを見せたことは無い」

「本当にそうか? お前が気づかなかっただけじゃないのか?」

「いや、そんなはずは……」

「実は、俺の数少ない記憶に残っていることがあるんだ」

「本当か? なんだい?」

「深層心理的に、アゴ髭を整え、いつもさすっている奴は男色の気があるらしいんだ」

「な、何!?」


 ディルクは大きな声を上げる。


「それは本当か!? 確かにイェルハルドさんはアゴ髭をいつもさすっているが……」

「ああ、アゴ髭をさする癖は、深層心理では父性への渇望を現しているんだ。無意識的にそうした欲求が男性の象徴であるアゴ髭をさすることに繋がるらしい」

「そんなことが……」


 もちろん、全部今俺が作ったでっちあげだ。

 嘘は大胆なほど効果がある。

 と、俺の体に染みついた感性が言っている。


「いやでもおかしい、どうしてそれが服を脱ぐことに繋がるんだ?」

「んなもん、決まってんだろ」


 俺は人指し指を突き立てた。

 それをディルクの目の前に見せてから、今度は左手にトンネルを作る。


「……?」


 そしてその指をトンネルに突き刺しながら言った。


「あのおっさんはついにお前が欲しくて我慢できなくなったってことだ」

「ふぁ!?」


 またもディルクは素っ頓狂な声を上げた。

 こめかみには冷や汗が流れていた。


「そ、そんなまさか……」

「おい、ディルク! はやくしたまえ!」


 おっさんの声が響く。


「……呼んでるぞ」


 俺がおっさんの方を、トンネルから引っこ抜いた指で指し示すと、ディルクの顔からはサッー!と血の気が引いていった。


「あ、あのイェルハルドさん、お気持ちは大変ありがたいというか、光栄ではあるのですが……俺以外にもいい人はたくさんいるっていうか、俺はそっちの趣味はまだないっていうか……」

「なにを言っとるんだお前は? いいからはやくその魔術師団のローブを脱ぎたまえ」

「え? ローブだけでいいんですか?」

「当たり前だ馬鹿者」


 おっさんがそう言うとディルクは死の淵から乗り越えたような安堵の表情をしていた。


「……よかった」

「何がだね?」

「い、いえ何でも! しかし、ローブを何に使うんです?」

「その男を王女の寝室に連れて行く。しかし、城内の他の者に見られるわけにもいかんだろ」

「なるほど。 そういうことでしたか」


 おっさんとディルクは二人で同時に俺を見てくる。

 え……?おいおい……、勘弁してくれ。

 俺まで仲間に加えようってのか……?

 悪いが俺にそっちの気はねえ。


 ってのは冗談で、どうやらあのださいローブを俺に着せるつもりらしい。

 フードを使って顔を隠すってことか。

 つまり、俺という存在を外部に知られたくない事情があるようだな。

 一体俺はどういう状況に置かれているんだか。


「まったく、君のせいで酷い誤解をしたよ」


 ディルクがローブを脱ぎながら言った。


「いや、まだ案外誤解じゃないかもしれないぜ?」


 俺は不適な笑みを浮かべながら言う。


「まだそんなことを……俺はイェルハルドさんを尊敬しているんだ。あの人に限ってそんなことはあり得ん。たしかに、女性との噂は全く聞いたことが無いが、それはイェルハルドさんが誠実だからだ」


 自分に言い聞かせているようにも見えるな。

 ひょっとしたら何か心当たりがあったのかもしれない。


「ほらこれを着て、フードを深く被るんだ」


 そう言ってローブを渡される。


「はぁん……」


 デザインが妙ってこと以外に、特に拒む理由も無いので、それを受け取った。


「にしても、君は変わった服を着ているな。どこの国の衣装だい? って言っても記憶が無いか」


 ディルクが俺の服を見ながら言った。


「俺から見ればこの服の方がよっぽど変わってると思うがな」


 袖を通しながら応える。


「文化の違いってやつか。 ってことは君の出身地はどこか遠い国なのかもしれないな」


 なるほど。

 そうか、その手があったか。

 服や持ち物を詳しく調べれば、俺の過去に繋がるかもしれないな。

 ナイスだディルク。


「これでいいか?」


 ローブを着終わった俺は、フードを深く被りながら言った。

 見た目よりも軽く、着心地もいい。

 それに思ったより丈夫な布で造られている。

 これなら、多少の刃物ぐらいは通さないんじゃなかろうか。


「へえ、案外似合ってるじゃないか」

「案外は余計だ」

「いやすまない。先ほどの恰好があまりにその、アレだったものでな……」

「アレとは何だアレとは」


「みすぼらしく不清潔で野蛮な恰好という事でしょう?」


 いきなりアルマが突っかかってきた。

 どうやらこいつは俺のことが嫌いらしい。


「お前はそんな恰好の男を神と崇めたんだ、喜べ」

「くっ……一生の汚点になる」


 本気で屈辱の表情を浮かべていた。

 分かりやすいやつだな。


「では若僧、今から王女の寝室に案内する」

「へえ」


 王女ね。

 聞くからに偉そうな身分だな。

 もし、あからさまに偉そうにしてるやつだったら一発かましてやろう。


「くれぐれも粗相の無いようにな」


 俺がそう考えていると、おっさんは見抜いたかのように厳格な顔で言ってきた。

 俺という人間がどういう人間か少し理解してきたみたいだ。

 だが、まだまだ測り損ねている。


「任せろ」


 自身満々に答える。

 そうして俺は、おっさんの後に続いて階段を上っていった。



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