第138頁目 茜色がうつす景色は?

 水平に伸びたL字型のドアノブに四本の指を掛け、朝日が宙を漂う埃を照らす部屋から抜け出す。足の裏を冷やすフローリングの感触と、少し肌寒く感じる気温。


 ダイニングテーブルから椅子を引いた音で母さんが俺に気づく。


「おはよう。今日は早いじゃん。」

「……ぉれは早起きの天才だぞ?」


 ズレたタイミングで欠伸を噛み殺し、少し太い声で返答する。

 

「何馬鹿な事言ってんの。なんか嫌な事でもあったの?」

「別に。」

「ぼーっとしてないでご飯持ってって。」

「おぁよ。ん? 今日は早いな。」


 俺と違って欠伸をしながら挨拶をしてくる父さん。


「母さんと同じ事言うなよ。」

「知らねえよ。」

「二人共ご飯持ってって。」

「「はーい。」」


 先程より少しだけ強い語気で指示を下す母さん。


 例え母さんがねても、父さんに頭を叩かれても平和はいつだって揺らがなかった。幸せは、いつだって。


 朝ご飯は手抜きだったり、母さんが寝坊してお金だけ渡される事だってあった。でも、毎日父さんと俺の朝ご飯に加えて弁当を作ってくれる母さんは今どき珍しいって婆ちゃんが言ってた。だから、直接言えた事があったかはわからないけど……感謝してる。


 そんな母さんの作った朝ご飯を平らげ、朝のニュースを見つつスマホを弄ればあっという間に家を出る時間だ。


「あれ? 父さんは?」

「今日は午後から。」

「えーいいなー。」

「よくねえよ。どうせなら午後も休みてえ。」

「俺は今から学校だっつうの。」

「俺の分も頑張ってこい。」

「っだよそれー……んじゃ行ってきまーす。」

「おう、行ってこい。」

「いってらっしゃい。」


 家の外は鼻の奥を冷やす透き通った空気が流れている。湿ったアスファルトが仄かな泥臭さを香らせ、眩しい朝日が俺の網膜を焦がす感覚。昨日の夜は雨が降ったらしい。水溜りにローファーを浸さないよう気を払おう。


「うーす。」

「あーす。」

「うー。」


 別に毎日って訳じゃない。でもその日は通学路で幼馴染のショウとカズに会った。


「なぁ、聞けよ。カズ、隣のクラスの水沢が好きらしい。」


 突然らしくもない恋バナを始めるショウ。でも、水沢って……。


「えーと……あの地味な奴?」

「あれは地味じゃなくて清楚っつうんだよ!」


 すぐさま訂正を入れてくるカズ。


「なんだよ。そんな面白そうな話昨日しろよな。」

「メッセに残したらどう悪用されるかわかんねえだろ!」

「そうだなカズ。幼馴染が信用出来ないのか?」

「信用はしてっけど、お前等俺が振られた後に散々ネタにしてきそうでよ。」

「「そんなことはない。」」


 綺麗にショウとハモる俺。父さんに続き本日二度目だな。いや、まぁ、振られた後なら幾らでもネタにすんだけど。多分ショウも同じはずだ。何にせよ。


「もう振られた後の事考えてんのかよ!」

「って事は決戦は近々か。」

「ばっ!? ま、まだはええよ!」

「つまりいつかはすると。」

「え? 何? 直接? 直接すんの?」

「そぅ……だよ。メッセID知らねえし。」


 耳を赤く染め上げたカズが顔を逸らす。実にらしくない反応についショウと顔を見合わせた。


「なんだなんだお前ー! ヒロインかー? ヒロインかよお前ー!」

「そういう部分にときめく女は多そうだけどな。」


 何故かこっちが恥ずかしくなってカズの背中をバンバンと叩いて誤魔化す。ショウの冷静なコメントは無視して。


「宗吾!!」


 後ろからで俺を呼ぶ女性の声。勿論を俺の名を呼ぶのは……。


「母さん?」

「はぁ……あんた……弁当……はぁ……。」

「うぇっ!? 忘れてた!」


 息を切らしながら立ち止まる母さんの手には弁当箱。俺が出るときに鞄に入れ損ねていたのだ。


「おはようございまーす。」

「おはようございます。」

「おはよう……はぁ……カズ君、ショウ君。……ッ……騒がしちゃってごめんね。」

「大丈夫ですか?」

「ありがとう、カズ君。この馬鹿が弁当忘れたもんだから……はぁ……。」

「ごめんごめん、ありがとう。」

「気をつけなさいよぉ。せっかく作ったんだから。」


 馬鹿とは言いつつも怒りはそこまで感じない。高校生にもなって通学路で走ってきた母親に弁当を届けられるというのは少々恥ずかしいが、ここで意地を張って逆ギレする度胸はなかった。スマホ没収されたら勘弁だしな。それに飯に罪はない。俺は母さんが差し出す弁当を片手で掴んだ。


「熱ッ!?」


 予想外の熱を持った弁当箱から無意識に手を離し、弁当箱はゴッと鈍い音を立ててアスファルトの上に転がる。袋に入ってるからわからないけど、もしかしたらヒビが入ってしまったかもしれない。


「ご、ごめん! なんかすげぇ熱くて……?」


 手、じゃない。今度は背中から熱を感じる。


「……?」


 何も考えずに振り返った。カズとショウの後ろがまるで夕方みたいな茜色に染まっている。カズは苦笑しながらこちらを。ショウは無愛想な顔でこちらを。それ等は瞬時に茜で包まれてしまう。俺が何かを発する間もなく。恐ろしさのあまり、すぐに母さんを見た。でも、手を伸ばす前に視界は揺らめく茜で……!


「――ッ!!」


 叫んでも声が出ない。全身が焦がれていく。穴という穴が熱気にじ拡げられ、痛みを流し込まれた。汗もつばも涙も声も全てが痛みに染まってただれていく。力は蒸発し、自力で立ってすら居られなくなった俺は地面に叩きつけられた。まぶたも溶けて開いているのかわからない。この見えてる茜色は幻覚か? 熱い。痛い。寂しい。死――。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!゛!゛」


 衝動のまま手足で地面を殴りつければ、身体が……浮いた。


「ソーゴさん!?」


 逆さまの……マレフィム?


「うばっ!?」


 少しの衝撃とありったけの冷気。ようやく俺の頭が動き始めた。


 ここは雪の中か……。


 俺は重力と雪の抵抗を頼りに長い首を放り出す。すると、俺の身体の周りにある雪が強風によって回転しながら避けていった。


「何を! やっているのですか!」


 俺を怒鳴りつけてきたのはマレフィムだ。ここは日本。いや、地球じゃないんだよな。そして俺も……人間じゃない。


「返事をして下さい。やはり何処か具合でも悪いのでは……。」


 声のトーンを落として俺の心配をしてくるマレフィムだが、俺はそれに反応してやる事が出来なかった。眼の前にはあるはずもない茜色がチラついている。そして、その茜色に黒く染められていく人が……!


「ソーゴさん!!」

「……あ、あぁ。」


 なんとか絞り出す一音。


「この頃うなされてばかりですし、食事量も少し減っている気がします。辛いなら辛いと言って下さい。」

「いや、寝ぼけてただけだ。悪い。馬鹿やった。」


 悪夢を見て暴れた挙げ句荷台から飛び降りるなんてな……だせぇ……。


「寝ぼけていただけなんてそんな訳が……!」

「お嬢さん、それくらいにしておきなさい。」


 声を荒げるマレフィムを制止するテレーゼァ。今は大きい声なんて聞きたくないので助かる。


「ソーゴさーん! 大丈夫ぅー?」


 少し進んだ所で引き車を止めて操舵席からアロゥロが呼び掛けてくる。俺はそれに声で応える気になれず軽く手を振った。すると、テレーゼァが翼を傾けて一言、乗りなさいと言ってくる。俺は出来る限りの力でそれに応えた。


 テレーゼァは翼に俺が乗った事を確認すると、無言で翼を畳んで歩き始める。


「ソーゴさん。『カーサン』とはなんなのですか?」

「……え?」


 思わぬ質問だった。それは日本語での”母さん”という発音である。俺は夢にうなされてそんな事まで口走ってしたのか……。


「何だそれ。」

「何だそれって……ソーゴさんが寝言で言っていたんですよ。人の名前ですよね?」

「知らねぇよ。」

「……。」


 どうにも素っ気ない返事で突き放してしまう。俺だって出来るなら心配なんてさせたくないけど……。


「ルウィア! 坊やは私が乗せて行くわ! 貴方達はそのまま進みなさい!」

「は、はい!」


 テレーゼァの指示に従って引き車は再び前進を開始する。


「村を出てから二日も機嫌が治らないって事はよっぽどの事があったんでしょう。でも、皆坊やに気を使っているとわからないほど愚かではないわよね?」


 テレーゼァが静かに語りだす。それは俺を責めるでもない、確認。


「……はい。」


 俺はそうとしか返せなかった。


「…………サフィーだけれど、西に向かったそうよ。」

「西、ですか?」

「アエストステルという国に向かった可能性が高いそうです。」


 静かに補足を加えるマレフィム。聞いた事のない地名だ。


「聞いたことないな。」

「実は私も聞いた事がありませんでした。最近出来た国だそうですよ。」

「国と扱っていいかも微妙な所だけれどね。あんな所何もないでしょうし。」

「そんな所になんで、白銀竜が?」

「王国と帝国を避ける為でしょう。大河に面している場所ですのでそれを利用したんでしょうね。」

「大河って言っても警戒されてるんだろ?」

「飛んだとは限りませんから。」

「そうね。」

「……じゃあ。」


 次に向かうのはそのアエストステルって場所なのか……。


「サフィーを探すのは大変よ。……自分の子の命が掛かっているんだから。」


 白銀竜母さんは帝国に追われている。捕まったら姉妹達も容赦なく殺されるんだろう。他の親族みたいに……。


「サフィーに会って貴方の母親の情報が得られるといいわね。」

「……はい。」

「母親に会うまでしっかり生きるのよ。私も叶うなら……いえ、とりあえず今日の夜の狩りは見学してなさい。」

「見学ですか?」

「えぇ、昨日の狩りは上手く行えていたけれど、何処か投げやりに感じたわ。怪我をかえりみないような……。」

「そんなつもりはなかったんですけど……。」

「自覚が無いなら尚更任せられないわ。」

「……わかりました。」


 途切れる会話。自分の意見を押し通す気力も湧かない。だが、俺の口は勝手に開いていた。


「あの。」

「何かしら。」


 テレーゼァは歩みを止めず、こちらも見ず。ただ静かに応える。だからこそなのか、漏れ出た言葉は止まらない。


「テレーゼァさんは、白銀竜をまだ友達だって思ってますか……?」

「……えぇ。もう長らく会えてないけれど、出逢えば心はたかぶるでしょうね。日に日に記憶が薄れていく感覚はあるの。でも、仲が良かった。大きな縁があった。それが事実であるという確信が薄れた日はないの。」

「そんな白銀竜が王族に選ばれたって聞いてどう思いました?」

「私が傍に居ればって後悔したわ……。私一人が抵抗したところで何も出来ないのにね……。」

「……もし、その時そこにいて、何も出来ないまま今と同じ結果になってたら、どう、思います……?」


 喉が、震える。まるで自分の体験を吐露とろしているようで。あの悪夢みたいな経験をもう一度しているかのような錯覚。


「私は望んだ未来を掴めなかったの。結局はそれが不満なのよ。私が何処にいたって、何か手助け出来ていたとして、結局私はサフィーが悲しんだ現在にいるのが受け入れられないの。だから何かと理由をつけて後悔するのよ。あの時こうしていれば、”もしかしたら”とね。」

「望んだ未来……。」

「私はその時、既に村から出ていたわ。子供を失って、怒りや哀しみから距離を置くために全てから離れたの。どうしようもなかった。憎い夫を殺したいけれど、我が子の血の片割れを失うのは嫌。そして、その血で我が子のアストラルすら汚れてしまう気がした……。だからこそ取った方法がまさか親友と離れ離れになる切っ掛けになるだなんて思わないじゃない。」

「白銀竜が追われていた時、テレーゼァさんがその場にいたら……。」

「命と引き換えにサフィーとウィルを逃していたかもしれないわね。……いえ、そんなのは自惚うぬぼれ。私の命を差し出した所であの二人が助かった訳ないもの。……だから、私は間違っていなかったのよ。」

「何がですか?」

「ウィルは死んでしまったけれど、サフィーは生きている。私があの場にいてそれ以上に良い結果が得られたとは思えないわ。私は全てを受け入れたのよ。」

「そんなの……そんなの誤魔化しじゃないですかッ!」


 俺の発作的衝動は風に砕かれる。


 受け入れられないから不満なんだよ。

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