第27話
悲鳴にも似た御伽先輩の声。そこでようやく僕は自分の身に起きていることに気付いた。
これは、間違いなく落下している。
意識した途端、全身を浮遊感が襲う。それでも恐怖を感じなかったのは、目に映るすべてのものがスローモーションで動いていたからだろう。
走馬燈もそうだけど、こういう危機的状況では時間感覚が狂ってしまうというのは本当らしい。
あぁ、短い人生だった。でも、御伽先輩を助けることができたし、悪くない最期だと思う。欲を言えば、もっといい関係になりたかったけど、さすがにそれは夢のままの方がいいか。
一切の支えを失った僕の体は、まるで重力にもてあそばれるように落下を続ける。わずかな希望に掛けて身体を動かそうとしてみるが、全然思うように動かない。全身の神経が渋滞しているみたいだった。
黄金色の空。ベージュに染まった校舎の外壁。崩れていく机とテーブルたち。そして御伽先輩の驚いた表情。
……御伽、先輩?
どうしてだろう、御伽先輩の顔を見たら、急に後悔の念が押し寄せてきた。
あぁ、最後になんで焦っちゃったんだろう。これだから僕はダメなんだろうな。
御伽先輩、最後に面倒事を残してごめんなさい。
まるで身体が溶けていくように、すべての感覚が薄れていく。全身を包む浮遊感も霧散して、心地よさだけが意識に留まっていた。
できることなら、このまま目を閉じて、快楽に身を委ねたい。そんな抗いがたい感覚に支配されながら、僕はこのまま地面に――。
「だから、諦めちゃ、ダメだってば!」
無音だった世界に御伽先輩の声が飛び込んできた。でも、こればっかりはどうしようもないよ。だって、自分ではどうしようもないのだから。
僕はすべてを諦め、目を閉じて心の整理をしようとするが――。
――瞬間、身体に衝撃が走り、視界がぐるんと回転した。予想外の方向からの衝撃に、僕の体は覚醒し、全身の感覚が急激に戻ってくる。
ちょっと、どういうこと? 地面にぶつかるにはちょっと早いし、もしかしてこれが走馬燈? もっと穏やかなものだと思ってたんだけど、こんなに激しかったりするの?
一瞬地面が見えたかと思えば、すぐに青空、そして校舎の白い外壁、そしてお花畑が忙しなく移り変わっていく。なんだか、ジェットコースターに乗った時のあの回転によく似ていた。
そして間もなく、轟音と共に本日一番の衝撃が僕の意識を揺さぶった。
正直、体内で地震でも起こったんじゃないかってくらいだ。というか、僕……生きてる?
「――うっ」
起き上ろうとしたけど、身体が動かない。さっきの重い一撃のせいだろうか。それになんだか温かい感触が背中に……あれ、これ前にも似たようなことあったような。
「拓未クン、大丈夫だった?」
すぐ近くから御伽先輩の声が聞こえた。そこでようやく僕は今置かれている状況を把握する。
「えぇ、なんとか……」
草というか花のにおいがするってことは、きっとここは花壇の中なのだろう。園芸部が頑張って世話をしていただろうに、僕のせいでメチャクチャになってしまって申し訳ない。
そうだ、時計は――よかった、無事だ。ちゃんと手の中にある。ちょっと土で汚れちゃったけど、壊れてはいないみたいだ。
「ちょっと、凄い音がしたけど大丈夫なの?」
すぐ上の窓が開いて、紬先輩が顔を出した。その心配そうな表情が、とても嬉しく感じる。
あっ、こっちに気付いたみたいだ。
「もう、二人ともそこに居たのね。怪我とかは大丈夫?」
「はい、なんとか……」
そこでようやく上体を起こす。身体のあちこちがまだ若干しびれているような気がするけど、動けないほどじゃない。あの高さから落ちてこの程度で済んだことが驚きだ。
「えぇ、頭は打ってないみたいだから、そこは大丈夫だと思うわ。まぁ、手足のどこかが折れてたとしても命に比べれば安いものでしょ」
そう言って御伽先輩は立ち上がると、制服についた土汚れを払い始めた。なんとなく想像はついていたけど、やっぱり御伽先輩が僕を抱き留めて花壇に飛び込んだみたいだ。いつも余計なことをしている先輩だけど、今回ばかりは素直に感謝したい。
「それにしても、御伽も拓クンも運が良かったわね。少しでも倒れ方が変わってたら、二人とも大怪我よ?」
僕たちが無事だということに安心したのだろう、紬先輩は饒舌に語る。そういえばかなりの音だったけど、あの塔はどうなっているのだろうか。
興味本位で僕は塔のあった方へと顔を向けた。
「――へっ?」
面白いことに、積み上げられていたすべての机とテーブルは、すべて同じ方向に向かって倒れていた。まるで誰かがトリック映像でも作ったんじゃないかと思うほどだ。
確かに、これは運が良かったのかもしれない。だって、机ひとつでも逆側へと倒れていれば、この花壇に飛び込む前にぶつかっていたかもしれないのだから。
これは偶然なのだろうか。それとも、どこかにいる神様の気まぐれなのだろうか。
いや、そんなことはもういいじゃないか。今はこの時計を持ち帰って、森本さんへ渡そう。
そういえば、主犯のカラスはどうしたのだろう。
うっすらと暗くなってきた空を見上げてみるが、もうカラスの姿はない。あの倒壊音に驚いてどこかへ逃げていったみたいだ。
「さぁ、アタシたちも撤収しましょうか」
御伽先輩の明るい声に、僕もすぐさま思考が切り替わる。森本さんが待っているだろうし、この汚れもなんとかしたい……いつまでも留まっていたら日が暮れてしまう。
「拓未クン、大丈夫? 立てる?」
「はい、ありがとうございます。大丈夫みたいです」
差し出された手を取って立ち上がる。全身土だらけではあるけど、特別痛むような感じはない。これで土の中に小石だとかが混ざっていたら、切り傷も追加されていただろうし、土づくりにも余念がない、園芸部の人たちには感謝だ。一方的に迷惑をかけている気がするけど。
「それにしても、運が良かったわね」
御伽先輩は僕を引き起こした後、大きく伸びをした。まるで、あの救出劇が準備体操だったように思える辺り、御伽先輩の身体能力はやはり高いのだろう。
でも、だからといって今回みたいな危険なことは先輩にはしてほしくはない。
そんな思いから、つい僕は口に出してしまう。
「御伽先輩、無茶しないでくださいよ……」
「無茶もしたくなるわよ、アナタだって、大切な部員なんだから」
そんなことを真っ直ぐに言えるのだから、やっぱり、御伽先輩は悪い人じゃないんだと思う。
今見せている笑顔も、きっと心からの笑顔で、僕の身の安全を喜んでいるのだろう。
「二人とも、仲がいいわね……それで、時計は大丈夫なの?」
突然声を掛けられて慌てて振り返る。そこには、蔑むような目をした紬先輩がいた。どうやら、まだ教室内に残って僕たちの様子を見ていたらしい。
紬先輩、なんでそんな不機嫌な顔をしてるんですか。これは、不可抗力で、そういった意図は少しも……いや、それよりも時計だ。
僕は右手を開いて握っていた時計を紬先輩へと見せた。手の平の上で輝く銀色の時計は、まるで呼吸でもするかのように時を刻んでいる。かなり年季が入ったもののようだし、これで間違いないと思うけど……。
紬先輩は時計を受け取ると、鑑定士さながらに目を細めてありとあらゆる方向から眺める。その姿に、僕の持ち物であるわけでもないのに、緊張してしまう。こういう雰囲気は、どうも苦手だ。
「えぇ、間違いないと思う。確かに受け取ったわ。お疲れさま」
紬先輩は時計を受け取ると、桃色のハンカチで丁寧に包んだ。
この辺り、やっぱり女子なんだと改めて思う。僕だったらきっとポケットの中にそのまま入れてただろうし。あっ、御伽先輩もその辺りの管理は僕寄りかもしれない。そんなことを言ったら背後からどつかれそうだけど。
「ほら、何してるの? 部室に戻るわよ」
急かすように御伽先輩が声を掛ける。先に戻っているわけじゃなくて、ちゃんと待っていてくれるのが先輩らしくて、つい顔がほころんでしまう。
「はい、今行きますっ!」
すっかり長くなった影法師を引き連れて、僕たちは部室へと向かう。その足取りは、いつもよりも、ほんの少しだけ穏やかだった。
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