第3話

 今日も一日滞りなく仕事を終えると、レジを締めて、在庫確認と注文の確認をしてから居間にあがった。

 昌子が帰る前に、今日は忘れず縁側の窓を閉めたこともあり、いつも以上に居住区の方は蒸し暑さがこもっていて、上がるなり全身にじわっと一気に汗がにじむ。

 意の一番にエアコンのスイッチを入れて、そのまま居間と地続きになっている作業場の襖を明けるとそちらの電気を点けた。

 これでなんとか居間にも明かりが届くので、不自由なくご飯が食べられそうだ。

 レンジに冷凍庫から取り出したおにぎりを一つ放り込んで、朝まとめて作っておいた味噌汁の鍋を火にかける。

 昨夜多めに焼いておいたサバの塩焼きを冷蔵庫から出しておく。

 それから人差し指の先で血糖値を測ってから、ペンタイプの注射で脇腹にインスリンを打ち込んだ。

 だいぶ部屋が涼しくなってきたところで台所に立ったまま手早く夕飯を済ませるとそのまま風呂場に向かった。

 向かう前に居間のちゃぶ台に投げておいたメモに目をやってから時計を確認する。

 二十一時を少し回ったところ。

 急ぎの用事であったなら織部から再度催促の電話があったはずだ。それが無かったと言うことは、きっと大した用ではないのだろう。ならば、構わず先に汗を流したい。

 シャワーだけで風呂を済ませた由汰は、Tシャツにスウェットパンツという姿で頭をタオルで拭きながら、ちゃぶ台のメモをつまみ上げた。

 随分と由汰に対して当たりの強かった織部を思うと、折り返し電話をする気分も知らず重くなる。

 あの織部が由汰に向けた辛辣な態度は、はたして容疑者である自分に対してだったのか、ゲイである自分に対してだったのか。

 いずれにせよ、理不尽な物言いについ腹を立ててしまった自分自身も大人気なかった。そうかと言って、それを謝るつもりは毛頭ないのだけれど。

 メモを睨み付けていてもどうにかなるわけでもなく、タオルをちゃぶ台に放るとやおら諦念めいた溜息を吐く。

 気は進まないものの、このまま無視もできず、しぶしぶ携帯電話に手を伸ばす。

 織部はまだ仕事中だろうか。

 出なければそれまでだし、留守電に繋がれは名乗るだけ名乗って切ってしまおう。

 あとは、必要であれば向こうからまた連絡がくるだろうから。

 けれど、予想に反して電話は2コールで繋がった。

『織部だ』

「南です」

 通話口から聞こえた低くて落ち着いた声に、心なしか由汰の耳が緊張する。

『……遅かったな』

 腕時計でも確認したのか。少しの沈黙ののち、織部がそう告げてくる。

「急ぎだったのなら、そう伝言してくれればよかっただろう」

 分かっているのに織部相手だとどうも喧嘩腰になってしまう。

 だが、その言い回しに気分を害した気配はなく、逆に軽く鼻で笑われてしまった。

『現場検証の後、長谷川から何か注意事項はあったか』

「特になにも」

 そう答えている間にも電話の向こうで車の行き交う音が聞こえてくる。

「外?」

『ああ。――少し事件について色々噂が立ち始めていてな。もしかしたら興味を持った輩がそっちに行くかもしれない』

「記者とか?」

『記者もそうだが、こういった刑事事件にロマンを抱いて記者まがいなことをして楽しむマニアみたいな連中もいる。危害を加えることはないだろうが、昨日俺たちがお前に話した事件内容や詳細をあれこれ話されると困るんでな』

 口外するなと念を押すための電話だったと言うわけか。

「言われなくても、あれこれ言い回るつもりはないよ」

『ならいんだが』

 通話口から聞こえる織部の息遣いが、奇妙に鼓膜を震わせてどうも由汰を落ち着かなくさせた。

「話ってそれだけ?」

 早々に話を切り上げて電話を切ろうとまとめに入る。

『そうだな。それに、様子も見ておきたかった』

「様子――」

 なんのことだと怪訝に眉を寄せた時、バンバンバンバンッと店の大戸口が乱暴に叩かれて思わず体が跳ね上がった。

 反射的に携帯を両手で握りしめると、笑いを含んだ織部の低い声が通話口から漏れてくる。

『俺だ』

「なに?」

『俺だよ』

「……えっ?」

『一部のマニアとやらがさっそく押しかけてきたとでも思ったか』

どこか揶揄うような織部の声音に、由汰は一瞬でもそう思ってしまった自分に舌打ちしながら、上がり端の引き戸を開けた。

店の電気は点けずに靴だけを履く。

 大戸口の前で佇む大柄な影を確認してから戸を開ける。

 見下ろしてくる三白眼を睨み上げながら、由汰は携帯電話を切った。

「なんの真似だ。来るなら来るって言ってくれれば」

「たまたま帰る途中だったんだ。そのタイミングで電話を掛けてきたお前が悪い」

「僕が悪いって」

「入るぞ」

「え、ちょっ、ちょっと勝手に困る! 何時だと思ってるんだ」

 咎める由汰を背に、

「今時の子供じゃ、まだまだ起きてる時間だろ?」

 言いながら無遠慮に店を通り抜けて、上がり端に腰を掛けると長い足を持て余しぎみに組んで後ろ手に両手を付いた。

「なんだ、随分と暗いな。本当にもう寝るつもりだったのか?」

 居間の電気が消えていることが不思議に思ったのか、後ろに両手をついたまま顎を上げて天井を見上げる。

 由汰はその質問を無視して、不機嫌そうに溜息を吐きながら居間に上がると冷蔵庫を開けた。

 風呂上りに何も飲んでいなかったので喉が渇いている。

 背後の織部を振り返って、

「お茶でよければ」

 と、ぶっきらぼうに一応尋ねると、素直に頼むと言う返事が返ってきた。

 グラスを織部に渡すと、由汰も斜め後ろの板間に腰を下ろす。

 わざわざ家にまで来てどう言うつもりだと、とっとと追い出そうと思ったが、ついでだから気になっていることをこの機会に訊いてみるのも悪くないかと気を取り直す。

「現場検証の結果ってもう出たの?」

 グラスに口をつけながら、「いや、まだだろう」と暗い店内に視線をなげたまま、僅かに気の抜けた返事を返す。

 こんな時間でもきっちりと髭の剃られた頬顎を見ると、織部の人となりが見えてくるようだ。

 見かけに寄らず身なりに気を遣う男なのか、織部は体格のわりに漂う空気には清潔感があり、あまり野暮ったさを感じさせなかった。

 白い半袖の開襟シャツが、汗と一日の労働で少しくたびれている。

 僅かに、鼻梁の高い精悍な横顔に疲れが滲んでいるように見えた。

「ねえ、検証結果って教えてもらえないのかな」

「どうしてだ」

 店内に顔を向けたまま目線だけをよこしてくる織部に、

「だって気になるだろう。彼らが本当に裏庭から出て行ったのか。性分でね、駄目なんだ、そう言うのはっきりさせないと。気になって家の中にいても落ち着けない」

 少し拗ねたような言い方になってしまった由汰を、店内に視線を向けたまま形のいい口端に笑みを浮かべただけで受け流す。

「そう言えば、今朝NKビルの警備室に行ってきたよ」

「なぜだ」

 織部から視線を逸らしてちゃぶ台に肘をつくと顎を乗せた。

「自分の目で確認すれば少しは気持ちも落ち着くかと思ったからさ。無駄骨だったけどね」

 そこまで言って「そうだ!」と顎を乗せたまま織部に視線を戻す。

「テープチェンジのこと知ってる? 夜の八時と朝の八時の二回」

「それが?」

 グラスのお茶を一気に飲み干した織部が目を眇める。

「あの日も夜の八時にテープチェンジをしたんだとしたら、彼らはもしかしてそのほんの僅かな隙に、この店を正面から出て行ったってことはない? 警備員さんが交換に一分くらいかかるって言ってたけど……」

「やめとけ。素人がおあれこれ探りをいれるもんじゃない」

 そう言って鼻息で一蹴するが、織部の口調はさっきより硬く目は笑っていなかった。むしろ由汰を諫めるように睨みをきかせてくる。

 そんな風に睨まれれば大概の人間はすくみあがって黙ってしまうだろう。

 けれど、その野性的な双眸が悔しいかな由汰には至極魅力的に見えてしまう。

「前後の防犯カメラを照らし合わせて確認しても、正面から奴らが出て行ったことは考えにくい。そんなに一人でいるのが嫌なら恋人でもなんでも呼べばいいだろう?」

「あいにく、恋人なんてもんはいなくてね。それに……」

「それになんだ? 恋人はいなくてもヤル相手くらいはいるんだろう?」

「いるわけないだろう。下品な言い方はやめてくれ」

「とにかく興味本位であれこれ調べて回るのはやめておけ。警察の邪魔になるだけだ。それともあれか? 自分は犯人じゃないってアピールのつもりか?」

 皮肉めいた織部の言葉に、馬鹿にされたと感じて思わずムッとしてしまった。

「お前は知らないだろうが、裏庭に面した通りには驚くほど防犯カメラがない。しかも、その上抜け道とあって車の出入りも多い。奴らが仮に裏庭から抜けて誰かの車に乗り込んだとしても足どりを追うのは難しい」

 空になったグラスを片手で弄びながらおもむろに説明を始める。

「おそらく、犯人は通りに防犯カメラがない事を知っている。この店のセキュリティの甘さもな」

「ってことは、犯人はこの店に出入りしていた可能性があるってことか」

「まあ……そう考えるのが普通だが」

 そこで一旦言葉を切ると、靴を脱いで昨夜同様、無遠慮に上がり込んでくる。

 織部の自由な行動に、あれこれ突っ込む気も失せていた。

 ちゃぶ台にグラスを置くと、天井に手を伸ばして電気の紐を引っ張る。

「お前自身が奴らを裏庭からどこかへ連れ出したって線もまだ拭えない」

 カチャカチャと何度か紐を引っ張る。

「僕にはあの夜のアリバイがある」

「あぁ?」

 紐を掴みながら目線だけ下げる織部が、再び紐をカチャカチャしながら、

「ああ、そうだな。染物教室の生徒からも裏は取れている。だが……なんなんだこれは」

 とうとう紐を放り捨てて眉をしかめた。

「切れてんのか?」

「だが……なんだよ」

 織部はため息交じりにその場に胡坐をかくと周囲に視線を巡らせながら、

「お前が奴らを裏庭から逃がす手助けをした共犯って可能性もあるし、教室の終わった二十一時半以降のお前のアリバイはないってことだ」

 それについて証明する手立ては残念ながらない。一人暮らしなのだからアリバイを証言してくれる人がいなくて当然だろう。

 こういう時のために、各部屋にカメラという名のセフレでも住まわせておくべきだったなと心の中だけで皮肉を零した。

「おい、いつから切れてる」

「なにが?」

「電球だよ」

「ああ、昨日の夜かな」

「なんだよ、一日経ってんのに換えてないのか。替えは?」

 作業場だけの明かりでは不服なのか、点かない電気にご執心の織部をおいて、空になった二つのグラスを洗い場へと持っていく。

 そのまま水を出してグラスを洗い始めた。

「替えなら、多分、中二階にあるはずだけど……」

 怖くて未だに見に行けていないとは到底言えず、

「急いで換える必要もないし、日中は忙しかったから」

 とっさの言い訳も思いつかずどうも歯切れが悪くなってしまう。

 背後で織部が立ちあがる気配がして振り返った。

「なに」

「ただの平屋だと思っていたら、中二階なんて洒落た部屋があるのか? どこだ」

 手拭いで手を拭いて、こっちだと縁側に案内する。

 相変わらず殺風景で頼りなく街灯に照らされているだけの薄暗い庭を横に、灯りのない暗い縁側の奥を指さした。

「あそこ。あの梯子から上に行けるんだ」

「ほう」

 由汰よりも少し前に立った織部が興味あり気に頷く。

 相変わらず何か恐ろしいものでも燻っているように、四角く縁取られた暗く湿った梯子の上は由汰の背筋を冷えさせる。

 知らず、恐怖心から腕を擦っていた由汰を、きりりとした両眉をくいっと上げて不思議そうに見下ろしてきた織部が、何かを察したようにゆっくりと庭に目をやると、やおら肩を揺らしながら押し殺すような声で笑いだした。

 由汰を振り返った思いがけず屈託なく笑う織部の顔に、一瞬見入ってしまったことを悟られまいとして由汰は慌てて眉を顰めた。

「お前、怖いんだろう」

 ニタリ顔で図星をさされて言い返せなくなる。

 両腕を擦りながら大仰に大きな溜息を吐いてみせてから、

「彼らがもしもこの家の中で身を隠すとしたら中二階じゃないかって。昨日の夜、そう思い始めたら急に怖気づいて上がれなくなった」

 いい大人がと馬鹿にされるのを覚悟して、正直に吐露すると、

「まあ、ちょうどシーズンだしな」

 と、あっさりと流されて少し拍子抜けする。うん、と中途半端な相槌を打ちながら、

「まあそう言うわけだから、検証結果を教えてくれたら取りにでも行くさ」

 明日買いに行ってもいいし、と踵を返して縁側を戻り始めた時、

「俺が見て来てやるよ」

 意外な申し出に振り返ると、既に織部は梯子の下だ。

「灯りはどこなんだ?」

「懐中電灯しかない」

 なら持って来いと、真っ暗な中二階を見上げながら手の平だけを伸ばしてよこす。

「いいのか? 別にそこまでしてくれなくても」

「いんだよ。奴らがいないかも確認してきてやる。ついでだ。早くしろ」

 急かされて、正直ありがたい申し出だと思いながら、由汰は手のひらサイズの懐中電灯を織部に手渡す。柄の先についた紐を筋張った指先に引っ掛けると、軽快な身のこなしですいすいと梯子を上っていく。

 それを落ち着かない気持ちで中二階に消える織部の姿を黙って見送って、昨日みたいに野良猫が庭をうろついてないか警戒しながらそわそわする腕を擦った。

 ほどなくして降りてきた織部の手には替えの電球の箱が握られていた。

 やっぱり買い置きがあったのだ。どこかホッとして肩の力が抜ける。

 居間に戻る過程で箱を手渡されて素直に感謝の意を述べた。

「踊って喜べ。上には人っ子一人いなかったぞ」

 と、揶揄いながら「電球は自分で換えられるな?」と確認を入れてくる。

 織部は本当にただのついでだったのか、電球を取って来てくれただけで上がり端の戸に手をつくと、拍子抜けするほどあっさりと靴を履き始めた。

 三千雄が亡くなってから、こんな遅い時間に誰かが一緒に家に居るなんてことがずっとなかっただけに、どことなく残念な気持ちがよぎる。

 織部相手になぜそう思うのか判然としないが、誰かといてホッとできたのは久々だ。

 昨日の織部は随分と威圧的だったが、今日の織部は少し身近に感じて突然の来訪だったとはいえ妙に馴染んでいた。

「もう帰るのか?」

「ああ。なんだ、他に何かあったか」

「いや……ないけど」

「安心しろ。この家の中に奴らはいない」

「なあ、気になってたんだけど、どうしてそう言い切れるんだ?」

 何気なく訊いた言葉に織部の動きが一瞬止まる。

 不思議に思って肩越しに覗き込む由汰を横目でじっと見やってから、何か言いたげに一度だけ口を開きかけて、けれどそのままふいっと無言で視線をそらす。

 すくっと立ち上がって歩き出す織部に、

「ま、待って!」

 まだ聞きたいことがあるのにと、慌てて由汰も靴を履いて暗い店内を出口へと向かって消えかける織部の背中を追いかけた。

「待ってよ。なあ、その……一つ訊いてもいいかな」

「なんだ」

「ゲ、ゲイって、社会的に不利だと織部さんは思う?」

「……なに?」

 唐突過ぎる質問だとは分かっていたが、タイミングを逃した結果がこうなってしまったのだから仕方ない

 足を止めて半身だけで由汰を振り返えった先ほどまで少し砕けかけていた織部の表情が、途端険しくなる。

 帰り際に、こんな質問をなんの脈略もなくされればそうなるだろう。

 完全にタイミングを見誤ったと織部の反応から後悔するも、口から飛び出してしまった質問はいまさら無かったことになどできない。

 由汰は動揺する自分を外身だけでもなんとか平静に保ちながら、声が上擦らないように慎重に口を開いた。

「僕は、ちなみに今まで生きてきたなかでそう感じたことはないんだけど」

 なるべく織部を逆なでしないよう穏やかに訊いたつもりだったが、当然のように織部の反応は思わしくない。由汰の質問をどうとったらいいのか分らないようで、警戒するような色が三白眼の奥に見え隠れする。

「なぜそんなことを訊く」

「なぜってそれは……」

 そう訊かれると正直自分でも分らない。

 ただ、昨日の刺々しい織部の態度が気になったから、その訳を聞きたくて。

 もごもごと言い淀んでいると、それを見かねたように口を開く。

「そう思うのはお前がいかに身軽かってことだ。一見、世の中が同性愛者に対して寛容になったように見えるだろうが、実際はまだまだえげつない。下手すりゃゲイってだけで社会的信用も出世の道も失うことになりかねないくらいにな。そればかりか、そいつ自身の人間性の評価もガタ落ちだ。不利どころか俺は恐ろしくてたまらないね。特に社会の中で責任ある立場にいるような奴らからしたらな」

「刑事とか?」

 なんの含みもなく純粋に頭に浮かんだことを言っただけだったが、なぜだかその一言が織部の癇に障ったのが解った。

 薄暗い中で、織部の目に怒りとも取れる苛立ちが滲む。

「いいか、お前がよっぽどの箱入りか、もしくはお仲間同士の馴れ合いに浸りすぎて感覚が鈍っちまったのか知らんが、ホモセクシャルに対する世間の風当たりはお前が思う以上に強い。そんなもん警察なんて場所で揉まれて生きてりゃ嫌ってほど痛感させられるんだよ」

「つまり、それってあんた自身ゲイに対して何かトラウマ的なものや恨みを抱えているわけではないってことだよね。今いる環境がそうさせてるってことか? それとも他に何かりゆ……」

「理由なんてもんは無い」

 と、由汰の言葉尻を奪って吐き捨てる。

 はたして本当にそうなのか。織部の言動に、どこか違和感を覚えた。

 拒絶や嫌悪感というよりも、そのものに対する底知れぬ恐怖が織部の腹の奥底に埋まっているように思えてしようがない。

 どうも腑に落ちず、腕を組んで不服げに首を傾げる。

「理由もなく非生産的なんて言ったりするかな?」

 織部も同様に腕組みして仁王立ちになると、高い位置から由汰を見下ろした。

「そもそもホモフォビアってのはそう言うもんだろう? 同性愛者に対する嫌悪感や拒絶、偏見というのは言葉で説明できるもんじゃない。理由なんてものは無いんだよ。いいか、いつまでも馬鹿なことほざいてないでさっさと寝ろ」

 とは言ってもだ。由汰は指で唇をいじりながら小さく呻る。

 デカイ図体して仕事もできて自立した立派な大人に見えるのに、何も恐れるものなど無いような男が、なぜそんな小さな枠に捕らわれてネチネチと燻っているのか解せない。

「子孫を残せないことがそんなに異常視されなきゃいけないことなのか?」

「お前な……」

 鬱陶しそうに吐き捨てながら、忌々し気に目を眇める。

「無い頭使って少しは考えろ。お前だって知ってるはずだ。世間での自分の立場を確立するために隠れて結婚するホモセクシャルが後を絶たない現実をな」

 なるほど。由汰は指で唇を摘むと軽く引っ張った。

 つまりは体裁だ。

 社会的信用を得て世間の評価を上げるためには家族を持つのが手っ取り早い方法だということなのだろう。とどのつまり長い物に巻かれるフリをしろという訳だ。

「なるほどな。そう言うこと」

 非生産的人間は世間に認められない。もしくは認められづらいと言う意味か。

 小さい頃に両親が離婚して、他の女との間に子供を作って出て行ったと言う顔も覚えていないフィンランド人の父親も、ろくに面倒も見ず子供をほったらかしにして遊び歩いていたふしだらな母親も、自分の家族があると言うだけで世間からは認められて評価されていたとでも言いうのか。

 ろくでなしだった母親は評価されて、ゲイであるというだけで自分は除け者にされる。

 世の中、所帯を持ったら一人前か。

 由汰の心の乾いた部分が、くだらないと呟く。

 織部みたいな男がそんな下世話なことを言うことも、なんだが凄く残念に思えて胸が鈍く痛んだ。

「満足したか」

「ああ……」

 訊かなければよかったと先に立たない後悔を感じながら、由汰は少しだけ自己嫌悪に陥った。

 他人の価値観にあれこれ言う資格など自分にはない。言いたいことはまだあったけれど、自分の意見を織部に押し付けるわけにはいかない。

 諦観めいた気持ちとともに頭を少しばかり冷やすべきだなと、織部から視線をゆっくりと逸らす。

 あからさまにガッカリしたことを悟られないように、慎重にゆっくり肩のラインをなぞるように。

 織部の肩越しに大戸口を照らす頼りない街灯の明かりが目に入った。僅かに目を細めながら顔を伏せかけたその時、視界の端で、ゆらり……と何かが動く。

 一瞬見過ごしそうになって逸らしかけた顔を止めると、伏せかけた目を戸口に向け直す。

 ゆらり、とまた何かが動いた。

 由汰の目がはっきりとそれを捕らえて瞠目したまま息を飲む。

「……南?」

 顔は見えない。けれどしかし、見えない顔が確かにこちらをじっと見つめている。

 名前を呼んでも反応のない由汰を不信に思った織部が目を眇める。次の瞬間、由汰の目線が自分の肩の向こうを見ていると気づくと、隙のない動きで勢いよく背後を振り返った。

 ゆらりと揺れた影は織部の視界に収まることは無かったが、ひっそりと静謐の佇む無人の大戸口から目を離さないまま後ろの由汰に問いかける。

「何を見た」

 ――何を? 人だ。逆光のせいで黒いシルエットしか見えなかったが、確かに誰かがこちらを覗いていた。

 不気味なぐらい静かに、気づいた途端、音もなく戸口から遠のいた黒い影。

「おいっ」

 ハッとして、自分が両手で口を押えていたことに気が付いた。

「人をっ……」

 上擦った声で慌てて答える由汰を確認するように、一度振り返って再び戸口に向く。

「顔は? 背格好は? 見えたのか」

 と、由汰を落ち着かせるように、今度はゆっくりと言い聞かせるように問いかける。

 事件のことで少し神経が過敏になっていたせいか、過剰に反応してしまった自分を忌々しく思う。ただの通りすがった人影をそう勘違いしてしまったのかもしれない。

 早鐘を打つ胸をどうにか宥めながら、

「何も見えなかった。こっちを見ているように思ったけど、僕の見間違いかもしれない。後光でシルエットしか見えなかったし、それにもしかしたらただの通りすがりかも」

 どうにか、平常通りにそう答えたものの、織部は由汰の言葉を信じていないらしい。

 そのまま慎重に足音一つ立てず戸口に近づくと、戸枠に身を寄せて外の様子を伺う。

 見間違いかもと言ったものの、本能はそう思っていないのか固唾を飲んだままその場から動けない。

「電気を点けたほうがいい?」

「いや、いい」

 外に目をやったまま答える織部を見守るしかないようだ。

 しばらくして戸口から離れると、店内もくまなく見て回った織部が由汰のところに戻ってくる。

「例の粋狂なマニアかな」

 自分に言い聞かせるためと、緊張した空気を取り払うために「記者かマニアか」の話を持ち出してみたけれど、織部の反応はどこか険しい。

 冗談を言っている場合ではない、とでも言いたげな表情に由汰は眉根を寄せて首を傾げた。

 どうもおかしい。

 最初から何か噛みあわない。

「なあ、僕に何か隠してることないか」

 気づけばそんなことを訊いていた。

 この家に彼らは居ないと言い切る織部と、勘違いかもしれない人影を警戒しろとでも言いたげな顔の織部。

「この事件、彼らの居場所も犯人の目途も、もしかして見当がついているんじゃないのか」

「余計な詮索はするな」

 都合の悪いことを訊かれると横を向いて否応なしに話を終わらせようとするのは織部の癖なのか。

 大戸口へと身を翻す。

「なあ、本当は見当がついてるんだろう?」

 追いかけながら織部の横顔に問いかける。

「そんなあからさまに分るような顔するくらいなら教えてくれてもいいじゃないか」

 あからさまに分るような顔と言われたのが気に障ったのか、歩みを止めないまま黙っていろと言いたげにじろりと睨まれる。

「このままじゃ、今度こそ気になって家にいられない」

 少々オーバーに言い募ると、戸口をガラガラと開けた織部が、足を止めて大きな溜息を吐いた。

 怒らせてしまったかと反射的に身構える。

 間近で三白眼に睨まれるとなかなかに迫力があって思わず謝ってしまおうかと思ったが、一瞬諦念めいた色が織部の表情に垣間見えたことで踏みとどまった。

「取り敢えず、伝えられることがあれば伝えてやるから、下手に詮索なんてしないで、お前が犯人じゃないって言うなら大人しくしていろ。間違っても捜査の邪魔になるようなことは絶対にするな。分かったな」

 夜分を考慮して顰められた声からは、織部の感情を読み取ることができなかったが、彼がなんとなくだが、かなり譲渡してくれたのだと感じて頷くかわりに小さく肩を竦めてみせた。

 けれど最後にと、戸口の鴨井をくぐる織部にひょいと一歩近寄って懲りずに口を開こうとした由汰に、それに気づいて振り返った織部がぴしゃりと告げる。

「おしまいだ。余計な話題はもう口にするな」

 先ほどの話題を性懲りもなく蒸し返そうとしたのを察したのか、警告を匂わす目で一瞥されて、口にする前に終わらされてしまった。

 諦めて気を取り直す。

「さっそく電球を換えるよ」

「戸締りも忘れるな」

「了解、刑事さん」


 

 

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