第2話

「そう言うわけだからね。見せたくても手許にないもんは仕方がない。悪いね、径さん」

 朝っぱらから『径』のはす向かいにあるNKビルの警備室の窓口で、「やっぱりそうですよね……」と由汰は小さく項垂れた。

 襟足の寝癖がまだ少しハネたまま直りきっていない。

 洗いざらしの涼し気な麻混の白い綿シャツの長袖を肘まで捲り上げて、細めのジーパンに履き慣れた茶色の革靴、と言ったいつも通りの身なりで警備室の窓口を訪れたのはつい数分前のこと。

 今朝は五時に目が覚めた。赤の他人が通り抜けたかもしれない家にいるのは、なかなか思った以上に落ち着かない。

 神経がいつもより過敏になってしまい、昨夜は布団に入ってもしばらく寝付くことができず、寝ているのか起きているのか分からないような転寝を繰り返しているうちに朝を迎えてしまった。

朝一番に血糖値を測ってインスリンを打ち、六枚切りの食パン一枚と目玉焼きに味噌汁といった毎朝変わり映えしない朝食を手早く済ませた。

洗濯機と炊飯器を仕掛けた後、歯を磨いて髭を剃り、髪の毛を整える。

いつだって、少しばかり癖のある猫っ毛を整えるのが厄介だった。

暴れ馬のような寝癖をお湯とドライヤーを駆使して直す作業は、もしかすれば血糖値を測定する作業やインスリンを打つ作業なんかよりも面倒な作業かもしれない。

米が炊けると冷凍用におにぎりを握り、荒熱を取っている間に洗濯物を干し、軽く掃除を終えた後に、荒熱の取れたおにぎりをラップに包んで冷凍庫へ放り込む。

 そこから開店時間まで、だいたいいつも作業場にこもるのだが、例の少年たちのことが気になりすぎて朝から日課になっている友禅染めが、今日はまったく手に着かなかった。

 お得意様である――三千雄の代からの――丸山から、姪っ子さんの出産祝い用にと頼まれている金太郎のタペストリーを仕上げなければならないのに。

 生まれる前に渡したいからと注文を受けたのが今月初め。

 あとは地染めと金太郎の前掛けに描かれた「金」の文字を仕上げるだけなのだが、どうも少年たちの所在がはっきりしないものだから、そのことが妙に気になりすぎて、今朝は机に向かったものの色作りに身が入らず早々にやめた。

こうなったら自分の目で確かめるしかないと、思い切ってはす向かいのNKビルの警備室を朝から訪れたのだ。

少年たちが、『径』に入って行く映像を捕らえた防犯カメラがここにある。

 事情を説明してその時のビデオを見せて貰えないかと交渉しに来たのだが、案の定テープは証拠品として警察に押収されてしまい手許にはないのだと言う。

 自分の目で確認すれば少しは納得できるかと思ったのだが。

「ちなみに、うちが映り込んでるのってどのモニターです?」

 由汰は警備室の窓口から少しだけ身を乗り出して、モニターに映し出されているいくつかのカメラの映像を指さした。

 これですよ、と教えられた映像は確かに右上の方に僅かだが『径』の入口の足元辺りを映し出している。

 例え足元だけで顔の確認ができなくとも彼らだと立証できるだけの映像が、ここに至るまでの前後の防犯カメラに映っていたということなのだろうか。

「二十四時間年中無休で稼働してるんですか?」

 部外者である由汰が、朝っぱらから図々しく他社ビルの防犯カメラについてあれこれ訊くのへ、不信な顔一つ覗かせることなく初老の警備員は快く応じてくれる。

 ご近所とあって面識があるからかもしれない。

「防犯カメラってそう言うものでしょう? まあ、十二時間ごとにテープチェンジするから、一、二分はブランクがあるだろうけど」

「一、二分?」

 由汰は窓口に手をつくと体を少しばかり押し込んだ。

「テープチェンジっていつといつですか?」

「朝の八時と夜の八時」

「じ、じゃあ、あの日も夜の八時にテープチェンジを?」

「もちろん」

「きっかりに?」

「あぁ、どうだったかな。その辺も前後一、二分てところだな」

 やや興奮気味の由汰に反して応じる初老の態度はいたって穏やかだ。

若造があれこれ詮索して、探偵ごっこでも楽しんでいるのだろうと、温かく見守るような眼差しだ。

 二十時にテープチェンジしたとなれば、仮にロスタイムが一分あったとしたら、その僅かな空白の時間に彼らが『径』を出て行ったということは考えられないのだろうか。

 唇をいじいじ弄りながら眉を詰めて素人頭で考えていると、「おや?」と初老がモニターを見ながら声をあげた。

「『径』さんとこ、どなたかいらっしゃったみたいだよ」

「え?」

 見ればゾロゾロと複数の物々しい足が大戸口の前で佇んでいる。

 警備室内の時計に目をやった。

 ――八時五十分。

 こんな朝から今度は誰が? いささか、いや、正直に言えばだいぶ、気分が重くなって胡乱な眼差しをモニターに投げていると、

「『径』さんとこも、こう言っちゃなんだが随分古い家だし防犯カメラくらいあってもいんじゃないかな?」

 言われて苦笑した。

「ですね。考えておきますよ。朝からすみませでした」

 気の良い警備員さんにお礼を告げてビルを後にする。

 確かに、そう言ったセキュリティ対策もそろそろ真面目に考えなければいけないかもしれない。




「現場検証……ですか?」

 令状を頭の横でぴらっと提示してみせた、相変わらず目許に油断ならない笑い皺を刻んだ長谷川が、懐にそれをしまいながら頷いた。

「昨日の今日で申し訳ないんですがね」

 NKビルから戻ると、紺のヘアキャップに上下紺の作業服を着たテレビドラマでもお馴染みの、鑑識官を数名引き連れだ長谷川が大戸口の前に立っていた。

 別に気にしているわけではないが、ざっと確認するかぎり今朝は織部の姿はないようだ。

 長谷川は書店に足を踏み入れるなり、令状片手にこれからこの家の中を現場検証すると告げた。

 馴染みがありそうで無いその単語に、由汰の顔が怪訝に曇る。

 腕組みをしてレジカウンターに寄り掛かりながら低い声で尋ねた。

「それって、やっぱり僕を疑ってるってことですよね?」

「まさかまさか! 違いますよ、南さん。彼らが本当に裏口から出て行ったのか検証するためのものですから。そう構えないでください」

 大仰に笑ってみせるも、腹の中では何を考えているのか分からない。

 あわよくば由汰が犯人だと言う証拠を見つけて、早々にお縄にできたらいいのにと思っていないとは、間違っても言わないだろう。

 少年たちが家の中を通り抜けたことで自分は大分神経質になっていると言うのに、その上更に鑑識なんてものを導入されてあちこちプライベート空間をいじられるとなっては頭も痛くなる。

 黙って怒りと不快な気持ちを露わにしていると、

「ごく一部ですから。彼らが見ていた書棚と縁側から裏庭にかけてを重点的に。あなたの居住空間を隅から隅まで調べるわけではないんです」

 見透かしたように長谷川が言う。長谷川は人当たりもいいし対応も丁寧で悪い人じゃないのだろうけれど、その笑い皺は人が良いだけでできたものだけではないだろう。

 由汰は長谷川に目顔だけで分かったと伝えながら壁掛けの時計をちらっと見やった。

 ――九時五分。

 朝食を食べてからそろそろ二時間が経つ。ぼちぼち血糖値を測定しないといけない。

 きちんと血糖値が標準値まで下がっていれば問題ないが、下がっていないようであればインスリンの追加打ちが必要だ。

 また逆に下がりすぎているようなら糖分を補食する必要がある。

「店は十時から開店なんです。それまでに終わらせて帰ってもらえますか」

 取り繕う気もない抑揚のない低い声は、透明度の高いグリーンの目をした由汰を冷たく感じさせた。

 とは言え、本当に彼らが裏庭から出て行ったのか否かはっきりするなら由汰にとっても望むところだ。

 その調査結果を容疑者一である由汰に、長谷川たちが教えてくれるかは別の話だが。

長谷川たちは、約束の時間を十分過ぎたころに作業を終えて帰っていった。




 昼過ぎ。

 例のごとく血糖値を測ってからインスリン注射をし、昼ご飯を適当にすませた由汰は、カウンターに広げた新刊リストを見下ろしながらもう月末かと深い溜息を零した。

 帳簿の入力を後回しにしていたことを思い出したのだ。

 今月は丸山に頼まれた金太郎のタペストリー以外にも神田すずらん通り商店街に店を構える割烹料理屋『やや亭』の暖簾の仕上げも重なって、寝る前にする領収書や請求書の入力がおろそかになっていた。

 以前は入力も全て税理士事務所に頼んでいたが、少しでも依頼料を節約しようと入力だけは自分でやるようになった。

 昨年の十月に糖尿病を発症した時に、死ぬまで一生使わなければならないインスリンを含む医療費を考えたら、少しでも節約しなければならない。

 自分はこの先一生独り身の可能性が高く、いつ合併症を起こして足や目が不自由になるとも限らない。そのためにも出来るだけ貯金はしておきたかった。

ただ、やはり店を一人で切り盛りするには何かと時間に縛られて不自由なことも多く、平多昌子だけにはパートを続けてもらっている。

そうかと言って、今の生活が困窮しているわけではない。幸いにも本屋も染め業も順調で、健康管理以外は何不自由なく生活していけている。

それに、昌子は三千男の代から――由太がここへくる以前から――『径』でパートをしていおり、身内のいない由太にとって信用できる唯一の人でもある。だから、店を用事で留守にする時など、昌子がいるととても助かるのだ。

 新刊リストに溜息を吐きながら、税理士に渡すデータ入力のことなどを考えていると、奥の方から若いインテリ風の男が、本を片手に向かってくるのが見えた。

「いらっしゃいませ」

 新刊リストを端にのけながら、客から受け取った本の題名に一瞬目が留まる。

 ――『視覚・眼科臨床用語辞典 第五版』。

 昨夜、織部に「手が震えているぞ」と指摘された時、押し戻そうとしていた医学洋書だった。

 けして安くない医学洋書の翻訳本をスキャナーでピッとやりながら、雄々しい三白眼が脳裏をよぎる。

 大きな手で掴まれた腕が、今にも火照りだして、由太の胸を悪戯に疼かせそうだ。

 レジを打ち込んで金額を客に伝えると、余計なことを考えそうで、由太はサボっていた帳簿入力のことに再び意識を集中することにした。

 今日あたりまるまる先週一週間溜めてしまった分をいよいよ入力してしまわないといけないなと、頭の中の三白眼から神経を逸らすように、客からお金を受け取った。




「昌子さん……困るよ」

「そんなこと言わないで。ねえ? 一度ゆっくり考えてみてちょうだいよ。悪い話じゃないと思うのよ。少し年はいっているけど見た目はとっても綺麗だしお料理も上手だって話よ」

「そう言う意味じゃはなくて……」

「あら! じゃあなに? バツイチだって言うのが問題?」

 十三時からパートに来た昌子が、客が引いた隙に封筒からさっそうと抜き取った真っ赤なビロードのカバーのアルバムをレジカウンターの上に広げて、挑むような眼差しで由汰を見上げてくる。

 白髪染が取れ掛けているせいで、生え際が茶色く変色し始めている。緩く巻いたボブヘアーが崩れるのをしきりに気にしながら五十代半ばの、由汰と揃いのベージュのエプロンをした昌子は、押し売りでもするように目をギラギラさせていた。

 目力で昌子に勝てる者は、おそらくこの界隈では誰もいない。

 世話好きな昌子がパートに来るなり「あとで大事な話があるのよ」と言われた時から嫌な予感はしていたのだが。

 昌子はカウンターに広げた写真を指さしながら、茫然と立つ由汰に身を乗り出す勢いで熱弁をふるう。

「バツイチって言っても相手の方に問題があって、紗栄子さん自身に落ち度があったわけではないのよ」

 声をひそめて「……酒乱だったんですって」と付け加える。ご丁寧に口許に片手を添えて。

幸い店内には客は一人もいないのだけれど。こう言ったところが、昌子はお茶目だ。

 はあ、と生返事を返しながら由汰はこめかみをぽりぽりと掻いた。

 昌子にはゲイであることをカミングアウトしていない。このタイミングでカムアウトすることが正しいのか測りかねてなんとも曖昧に口籠る。

 まさかお見合い話を持ち掛けられるとは。唐突な上に予想外すぎて対処に悩む。

「三十四歳だけど今の時分、子供を産むにはまだ充分に若いでしょう? それに年上女房ともなればきっと由汰くんの病気についても献身的にサポートしてくれると思うの」

 昌子の父親と三千雄は古い友人ということもあり、近所に住んでいた昌子も昔から三千雄とは親しかった。由汰とも十五年以上の付き合いになる。

 ゆえに昌子は由汰のことを「由汰くん」と名前で呼ぶ数少ない知人の一人だ。

 由汰の母親より年長の昌子は、自分の娘と由汰が同年代ということもあってか時々母親のようだ。いや、時々ではなく、まさに母親代わりのようだった。

「気遣ってくれるのは有り難いけど……」

「ノー! ノーよ! 由汰くん」

 由汰の言葉を遮って昌子のピンと伸ばされた人差し指が顔の前で黙れと主張する。

「昨日すれ違ったお客さんからたまたま聞いたのよ。昨日の由汰くんはいつも以上に顔色が悪かったって。真っ青だったって。忙しさにかまけて低血糖にでもなったんでしょうけど、もしも誰もいない家の中で倒れてみなさいよ。孤独死よ! きっと発見するのはわたしよね。パートに来ても店が開いていないことにハッとしてそこの大戸口のガラスを割って中に入って居間で倒れて心臓の止まった由汰くんを……」

「待って待って! 昌子さん、待ってよ。大げさだって」

「大げさじゃないわよ。よくある話なのよ。みちさんだって、亡くなった時に由汰くんがいたからよかったけど、もうこの家にはあなたしかいないのよ」

 分かっている。それについては自分でも当初よく考えていたことだった。

言われなくても自分がよく分かっているのだ。

 寝ている間に低血糖に陥ってそのまま目覚めることなく息を引き取ってしまうケースだって少なくない。

 怖い。夜眠ることが怖くて怖くて気がおかしくなりそうだった時もある。不安で眠れない夜が続いてついに心療内科で睡眠導入剤を処方してもらうことになったのだから。

 昌子も心配して言っているのは分かっているが、由汰にとってその気遣いこそが煩わしかった。

 由汰の病気を知ってから、昌子には愛情にも近い哀れみの表情が常にあり、それがかえって由汰を息苦しくさせている。

 その哀れむような表情が、自分が心底救いようのない病人なのだと思わされて嫌だった。

 だから、時々、昌子を故意に遠ざけることもある。

昌子と言えば、そんな由汰の気持ちを少なからず察しているようだったが、一向にめげる気配はない。

 毎日、カーボカウントを面倒がって、質素で栄養の偏った食事ばかりをしている由汰を見かねて、よければ夕飯を作っていこうかと申し出てくれた昌子を断ったことがある。

 居住区にいても、その昌子の哀し気な表情を目にするのは正直辛い。いや、苦しい。自分が。気を抜いてほっとできない。

 申し出を断ってからは、それでも懲りずに

ならばと、定期的に手作りの惣菜を差し入れしてくれるようになった。

 もちろん、カーボカウントされたメモも添えて。

 由汰がどんな態度を取ろうとも、昌子の態度は変わらない。

 母親に構われた記憶がない由汰にとって、過保護とも感じてしまう昌子の親切心をありがたいと思うもののどう処理していいのか戸惑う部分も多い。

 いい歳をして母親への甘え方の一つすら知らない。とは言え、昌子に甘えるようなことはしないが。と、言うよりできない。いや、露骨な表情や態度をとっている時点で、既に甘えていると言うことになるのだろうか。

 母親と言うのは子供に反発されようが嫌がられようがそんなことものともせず、こうして嫌な顔一つしないで変わらぬ態度で世話をし続けるものなのか。

 昌子には三千雄の葬式の時にも世話になったし、由汰の入院の時にも世話になった。

一人ではめげてふさぎ込んでしまったかもしれない。

 口に出しては言わないが、いてくれて良かった。

 本当はとても感謝している。

 側に昌子のような人が居てくれてよかったと心底思うのだが、あまり過保護にならずにできれば黙って見守っていてほしいと思うのは由汰の我儘なのだろう。

 正直なところ、もう少し放っておいてほしい。

 顔を合わせるたびに、大丈夫? 気分はどう? 血糖値は安定してるの? ご飯はきちんと食べているの? 時間はちゃんと守ってる? 補食は持った? インスリンは持った? 病院には行った? ああしなきゃダメよ、こうしなきゃダメよと言われると元気であっても欝々とした気分になる。

 嫌いじゃないが、鬱陶しい。

子供じゃないんだと、その都度、内心で腹をたてる由汰は、充分子供と同じだ。

 自分から求めた時にだけ応えてくれさえすればそれでいいのに。

 そう思うのは、きっと、おそらく、病気のせいで卑屈になっているから――本当に? それこそ甘えだろう。

 いや、しかし、見合いはもってのほかだ。

 誰かと一緒に住むなんてことを考えただけで疲れる。母親と暮らしていた時もそうだった。

 例外を上げれば、心落ち着いて暮らせたのは三千雄との生活くらいなものだ。

 三千雄は、どこの誰とも知れない会ったばかりの由汰をこの家に快く迎え入れてくれたのだが。

 三千雄との生活は今までに得ることできなかった安心感を由汰にもたらしてくれた。

 初めてもたらされた存在肯定とでも言おうか。ここに居ていい、そう思わせてくれた存在だった。

 自分でもよく分からないが、出会った時から由汰は三千雄を無条件に信頼していた。

 そんな三千雄も二年前に心不全で亡くなってしまったのだが。七十八歳だった。

 昌子は腰に両手を当てて客が誰もいないのを良い事にキンキン声を張り上げる。

「それともなに?! もしかして由汰くん良い人でもいるの?!」

「え」

「ねえ、いるの?! いるのね?!」

「い、いないよ、そんな人。見ればわかるでしょ?」

「ならいいじゃないのよ。ねえ、お願い! これじゃみちさんも心配であの世でおちおち昼寝もできやしないわ」

「昼寝って……。僕は……」

 本当に大丈夫だから、と言おうとしたその時、ガラガラと大戸口が開いて会話が中断された。

 救いの神様、内心で呟いたのも一瞬。

「あら! 兼子さんいらっしゃい」

 昌子が、往年のアイドルでも見つけたかのように花のような笑みを満面に浮かべて手を打つ。

 神保町で翻訳の仕事をする傍ら海外のアンティークや輸入雑貨の店を構える兼子孝也が夏の暑さをもろともしない爽やかな笑顔で片手を上げながら入って来た。

「やあ昌子さん。今日の髪型も一段と素敵だね」

 歯が浮くようなセリフも彼が言うと様になる。

 四十代半ばとは言え、長身でスラッと背筋の伸びた兼子は実年齢以上に若々しく見えて、どこかヨーロッパの貴族を彷彿とさせた。

 涼し気な薄グレーの開襟シャツと白の綿パンがよく似合う。

 兼子の本業はフランス語の翻訳家であり通訳や執筆業で生計をたてていると聞いた。

 書籍のリストを確認して気づいたことだが、どうやら知らず兼子が翻訳した書籍を『径』でも数冊扱っていたらしい。同時に二つ向うの通りでは住居を兼ねた北欧の輸入雑貨やアンティークを扱ったショップを片手間に構えている。

 ショップの前を通りかかったことは数度あっても立ち寄ったことはまだなかった。

 翻訳業の傍ら半ば趣味の延長上だと言うショップは昌子の話を聞けばなかなかセンスの良い物ばかりで評判は上々らしい。

 基本ネット販売が主流らしく、店を開けるのは週に二、三度だとか。それも、わりと気まぐれで客からの要望があれば都度融通はきかせてくれるらしいが。

 年に何度か買い付けのためヨーロッパへ出向くと言う。

 由汰からしてみたら、自由気ままな、と表現したくなるライフスタイルだった。

「いらっしゃい、兼子さん」

「やあ、南くん。今日は随分と顔色がいいね。この暑さで血糖値も安定しなくて大変だろう? 今日も外は蒸し暑いよ。外出する時は気を付けた方がいい。出かける前に荷物をきちんと確認して」

 チョコや飴玉の補食やインスリンが入っているかどうか、いざと言う時に慌てないようにと続ける。

 ――また始まった、と内心でため息交じりに頭を振った。表情はあくまでも笑顔で、実際には首も振ってはいないが。

 兼子も昌子と同様、何かにつけて小言が多い。年が離れた弟くらいに思っているのかもしれないが、顔を合わせると子供にでも言い聞かせるようにああだこうだと言ってくる。

 兼子は人当たりもよく気さくでハンサムで、大人の余裕というものを兼ね備えているため女性からの受けが非常にいいのだと昌子が常々言っている。

 事実そうなのだろうと由汰も思うのだが、ただ、由汰のことなら何でもお見通しと言いたげな口ぶりや、時折見せる馴れ馴れしい保護者的な振舞いがどうにも苦手だった。

 兼子との付き合いが、まだ日が浅いせいもある。

 つい三ヶ月前に、銀座の百貨店で行われたインドの伝統的な染物でウッドブロックプリント展を見に行った時に、その展示場で兼子と出会ったのだ。

 ウッドブロックプリントとは、インドの染物で正方形の木面に花や鳥など様々な模様を彫り、その彫った部分に色をつけ判子のように布に塗布していく技法のことを言う。

 イギリスにも似たような染物があるが、インドのものはエキゾチックでかつ上品な雰囲気がありなかなか一見の価値ありだ。

 その展示場で不運にも具合の悪くなった由汰をケアしてくれたのがその場に居合わせた兼子だったのだ。その上、偶然にもご近所さんだったこともあり不本意ながらも家に送ってもらったのだ。

 以来、こうしてふらっと度々『径』に立ち寄るようになった。

 面倒を見てもらったこともあり、顔を見るたびに体調についてあれこれ訊かれるのは仕方がないのかもしれないが、悲劇的な病ではあっても、毎日がそう最悪ではないことをいい加減分かって欲しかった。

 襟元を正して、なんとか口許に笑顔を作る。

「それより、今日は何か探しものですか?」

「いや、この先の喫茶店で遅めのランチを食べていたんだけどね、ここを通り掛かったらなにやら楽しそうに話し込んでいるのが見えてつい立ち寄ってしまったんだ」

 兼子とはそういう男なのだ。特別ここで何かを買うわけでもなくふらっと立ち寄っては世間話をして帰って行く。さすがに毎日とは言わないが由汰の様子見とでも言うようにそれでも週に何度かは訪れる。

 頻繁に顔を出すものだからパートの昌子ともすっかり仲良しだ。

「おや? なんの写真? これはまた綺麗な女性だな」

 ふわっと兼子の顔が綻ぶ。女性だったら一瞬にして失神しかねない甘い笑みだ。

「あら! 解かる? とっても綺麗でしょう? わたしもそう思うのよ。由汰くんの為にと思って持ってきたお話なの」

「お見合い?」

 形の良い両眉をくいっと上げた兼子が横目でちらっと由汰を見る。

「ええそうなの。だって由汰くんだっていい加減もういい歳だし、それに病気のこともあるでしょう? そろそろ身を固めたほうがみちさんもわたしも安心できると思って」

「でも南くんはお見合いなんてしないでしょう」

「そんなことはないわよね?! 考えてくれるって言ったものね?!」

 縋るように見つめられて由汰はとうとう大きく溜息を吐いた。

「言ってないよ、昌子さん。僕は困るって言ったでしょ?」

 年甲斐もなく子供のようにぷうっと頬を膨らませた昌子を見て兼子が可笑しそうに笑う。

「無駄だよ、昌子さん。彼は誰かと一緒に住むなんてことできっこないんだから」

 どういうことだと眉間に皺を寄せる昌子を見やってから、意味ありげな視線を由汰に向ける。

「彼は人一倍警戒心が強いんだよ。――それより近頃この辺を賑わせている事件のことは知ってるかい?」

 兼子が嫌気がさしそうなお見合い話から少年たちの失踪事件へと話題を変えた。

 変えてくれたとは言え、失踪事件の話題も由汰にとっては気の重い話だ。

「もちろん知ってるわ。そうだった! そう言えばここにも刑事さんたち来たんだったわね? 青物市場のご主人が言ってたもの。あら、わたしお見合い話より先にその件について訊くべきだったわね」

 大丈夫だった?

 と、不安気に両手を合わせながらさも心配気な表情で、けれど興味津々なのだと言うように目がギラギラしている。

 この目力には、本当に誰も勝てない。

 色々とあれこれ突っ込まれるのも面倒だから、由汰は適当に頷いてみせた。

「それにしても近所で失踪事件だなんて、なんだか怖いわ」

 娘のことでも考えているのか、酷く不安気に目を伏せる。

 兼子がすかさず昌子の腕をそっと撫でた。

「大丈夫だよ。日本の警察は優秀だからすぐに犯人を捕まえてくれる。心配なら娘さんに電話でもしてみたらいい」

 そう言って安心させるように肩を掴むと、そのままゆっくりと腕を撫で下ろした。

 意識して見れば、違和感を覚えるような手つきだ。

 だが、ほだされたようにポカン顔の昌子が、それに気づくことはない。

もちろん由汰も。

色男はどこかスキンシップの取り方も日本人離れしているものなのか、と思う程度だった。

 はっと我に返った昌子が急にエプロンのポケットから携帯電話を取り出して、

「あ、わたし娘に電話しなければだったんだわ!」

 いけない忘れてた、と慌てた様子で書店を飛び出して行った。

 何事だと目を剥いていると隣で兼子がクスクス笑っている。

「あの人も忙しいね。そうだ、知ってるかい? 今週の日曜日まで銀座の百貨店で加賀友禅の花嫁暖簾展を開催しているんだよ」

「ええ、そのことなら駅のポスターで」

 以前、兼子と初めて会った銀座の高島屋で加賀友禅の花嫁暖簾展がやっていることは知っている。時間があれば行きたいと思っていたところだ。

 花嫁暖簾とは、花嫁が嫁ぎ先の家の仏間に掛けられた華やかな暖簾をくぐることで、その家のご先祖様に挨拶をすると言う習わしから花嫁暖簾と言われている。加賀、能登、越中あたりで古くから伝わる伝統的な風習だそうだ。

 大戸口から出て行った昌子を見ていた兼子が、少し長めの髪の毛を撫で上げながらゆっくりと由汰の方に向き直る。

 由汰もそこそこ身長は高い方だが、兼子は視線一個分さらに高かった。

 いつも笑んでいるような細い目は、どこか相手の視線を捕らえて離さなくさせる。じっと見つめられることで心躍る女性も多いだろうが、由汰は相手の心に容赦なく入り込んでこようとする兼子の眼差しがどうも苦手だった。

 これが女性だったら瞬殺でほだされてしまうところなのだろうが。あいにく由汰はゲイで男で、女性が好む男の色気には興味をそそられない。いや、兼子の放つ色香自体が由汰の好みではないのかもしれない。

「その目、今日も凄く綺麗だね」

 二人きりなると決まって言う、兼子以外が言えば確実に歯の浮くセリフ。その言葉に他意があるのかないのか由汰には分りかねたが、もしもあったとして、けれど残念ながらその言葉に由汰がほだされることはない。

 勝手に申し訳ないような気持ちがよぎるたびに、綺麗だと言われた目を伏せたくなる。

 一瞬の気まずい空気の後、兼子が何気ないしぐさで由汰の片手をスッとくみ取る。

 由汰は反射的に握られた指先を強張らせた。

 兼子はきっとバイセクシャルなのだと由汰は思う。人を見る洞察力に長けているのか、兼子は由汰がゲイだとカムアウトする前にそれを言い当てた男だ。

 その性的指向を知ってか知らぬが由汰に対しても妙に物理的なスキンシップが多い。けれど、この歳にして経験値ゼロに近い由汰にとってはそれがいささか悩みの種だった。

 気づけば体と体の距離も拳一個分くらいに近くなっている。

 見上げた視線がすぐそこだ。

「兼子さん……」

「どうだろう。その展示会、もしよければ私と一緒に行かないかい?」

「一緒に?」

「今度の日曜日は第一日曜日だしお店もお休みだろう? ほら前に先代の三千雄さんともよく展示会に行っていたと言っていたじゃないか。なら是非、私とも一緒に見に行こう」

 見下ろしてくる穏やかでいて、どこか悪戯に人を惑わすような熱のこもった眼差しに、危うく吸い込まれそうになる。

 三千雄は、この書店を亡くなった奥さんと営みながら、その傍らで友禅染めを生業にしてきた人だった。

 由汰は十五歳の時から三千雄に住み込みで友禅を習った。始めから興味があったわけではないが、その作業を側でずっと眺めていたらなんだかやってみたくなったのだ。思った以上に友禅の世界は奥が深く、由汰はその魅力にすっかり魅了された。 

 そんな由汰に才覚を見出したのか、三千雄は勉強と見聞を拡げるためにと積極的にいろんな展示会に連れて行ってくれたのだ。

「今度の日曜日、いいだろう?」

「……あの」

 見に行くなら一人で何に煩わされることなくゆっくり見たい。

 一緒に行こうと誘われて、応えはノーなのになんだか頭が勝手に縦に頷きそうになって由汰は眉を顰めた。握られた手がねっとりと熱くて気持ちが悪い。

 頭がぼーっとし始めて目を凝らすと視界が白く霞む。

 言葉がうまく紡げず思わず唇を噛みしめると、靄を振り払うように目を閉じて頭を振った、その刹那、カクンと膝から唐突に力が抜ける。

「――――」

 世界がひっくり返る、と思った瞬間、とっさに兼子に掴まれれていた手を放して寸前でレジカウンターにしがみついた。

「大丈夫かい?!」

 驚いた兼子の声にハッとする。

「ごめんね! ――あ、もしかして低血糖?」

 言われて壁掛けの時計を見た。

 ごめんね? の意味が引っかかったが。

「お昼ご飯食べてから測定はしたかい?」

「……いえ」

 そろそろ測定の時間ではあったが、食後二時間以内に低血糖になったことは今のところないのだが。

 ぼーっとしていた頭も霞みがかった視界も今ではすっかりクリアだ。

 おかしいなと思いながらも、兼子の前でまたも失態を晒してしまったことの方に気を取られて由汰は落胆ぎみに肩を落とした。あれこれ気遣われるのが嫌なのに、ふらついていては元も子もない。

 でも、今のはいったいなんだったのか。

 低血糖のそれとはまったく違う、睡魔にも似た。

 あれこれ思案してみるものの、うまく形容できなくて諦める。

「展示会の件ですが……日曜日の予定がまだ立たないんですよ」

 もちろん見に行く予定ではいる。

 けれど、大好きな友禅染めを見ている間くらい日常から離れたかった。

「だから今回は……」

 一緒に行けないと言外に匂わせれば、そこは兼子も大人の男だ、言わんとしていることを察してくれたようで、それ以上しつこく誘ってくることはしなかった。加えて言えば、どことなくホッとしている風にも見て取れたが、それを口にする前に、大戸口がガラガラと開く。

 顎に人差し指を当てながら思案顔の昌子がしかめっ面で戻ってきた。

「電話、大丈夫だった?」

 由汰が聞けば、項垂れながら小さく首を振る。

「やあね。わたしもう年かしら。娘に電話した途端、なんで電話したのか要件をさっぱり忘れちゃったのよ」

 わたし、アルツハイマーかもしれないわ、と泣きそうな顔で見上げてくる少女のまま大人になってしまったようなあどけない表情の昌子に、由汰は思わず苦笑した。

兼子が帰ってかららも、昌子のお見合い談義は底をつかず、由汰はその話題から逃れるために、どうにかこうにか言い繕って店を出た。

仕方がないので、急ぎでもない用事を散歩がてら片付けるかと。

 銀行と郵便局で幾つかの手続きを終え、一時間半ほどで『径』に戻って来ると、ちょうど昌子がレジの対応をしているところだ。

 由汰は、軽く手を上げて昌子に帰宅を知らせると、居間に万が一のためのインスリンや補食用の飴玉、ブドウ糖の入ったバッグを置いて、再び店に戻った。

 戻ると、昌子が何やらメモ片手にお帰りなさいと小走りで歩み寄ってくる。

「由汰くんがね、出掛けている間に織部さんて方から電話があったのよ。じきに戻るって伝えたら折り返し連絡いただけますかって。はい、これ織部さんて方の携帯の番号」

 なんの用だろうかと、内心で眉を顰めながら昌子に礼を言ってメモを受け取った。

 今朝は長谷川一人が来ていたが。

「どなた?」

「ほら、聞き込みに来た例の刑事さんだよ」

 そう言うと昌子の顔が僅かに曇る。

「ねえ……」

 と言いかけて黙り込む。

「その事件て……いえ、なんでもないわ。嫌ね、あなたもう三十一歳だものね」

 わたしったら何を心配してるのだか、とどこか狼狽えたような笑みを浮かべて、由汰をと言うよりも己を安心させるためと言った様子で由汰の両腕を何度も擦ってみせた。

「いつまでも十五歳のままじゃないものね」

 意味深とも意味不明ともつかぬ言葉をもごもごとと独り言のように呟いて、そそくさとレジカウンターへ戻って行く。

 気になって思わず呼び止めた。

「昌子さん」

「ねえ、それより」

 と、遮られてしまう。

「織部さんて方、由汰くんになんの用かしら?」

 振り返った昌子は、いつもの昌子に戻っていた。先ほどの意味ありげな言動はなんだったのか。

 気になりはしたが、客が本を片手に歩いてくるのを見て、今はいいかと諦めた。

「なにか聞き忘れたことでもあったんじゃないのかな。心配することじゃないよ」

 そう言うと、数秒眉をしかめて考え込んだ昌子が、ぱっと眉を上げると、「そうね。わかったわ」といつもの笑顔でレジへと去って行く。

 ちらっと壁時計を見ると十六時半を少し回ったところだ。あと三十分もすれば昌子のパートタイムが終了する。昌子のシフトは月曜から金曜の十三時から十七時までだった。

 レジから、昌子が由汰に受話器を作った手を耳にあてる仕草をしてよこす。

 電話してね、のサインに、「分かったよ」と口パクだけで応えた。

 夜にでも、仕事が終わったあとに。





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