グリーン・アイ«前編»

織リ子4

第1話

 最後の客に釣銭を渡しながら南由汰みなみゆたはチラッと壁に掛かった時計に視線を投げた。

 と言うのも、二人の男が最後の客と入れ違いに入ってきたのは、閉店時間を十分も過ぎたころだったから。

 レジの締め作業をしながら、もう店仕舞いなのだと由汰が言うより先に、慣れた手つきでバッチを提示される。

 ――警視庁捜査一課。

 どこか険しい顔の刑事たちは、挨拶もそこそこに二枚の写真を取り出すとそれを由汰の正面にかざした。

「実は今、人を探してましてね。失礼ですが、この少年たちに見覚えはありませんか?」

 都内でも有名なインターナショナルスクールの制服を着た二人の少年の顔写真。

 由汰は内心で眉を寄せた。

 面倒なことは極力避けたい。それでいたって今日は朝からあまり体調が思わしくないのだ。

「……事件ですか?」

「いえ、詳しいことはまだなんとも申し上げられないんですがね」

 浅黒い顔に感じの良い笑い皺を浮かべた背の低い中年太りの長谷川は、「こんな遅い時間にすみませんね」と付け加えながら外の初夏の陽気にやられたのか、じわっと滲んだ首筋の汗をハンカチで拭う。

「いえ、ちょうど店仕舞いするところだったので、大丈夫ですよ」

 そう言って平静を装ってはみたが、聞き込みなんてドラマの中だけの話だとばかり思っていたから、突然のことにちょっとばかし緊張がはしる。

「どうです? 見覚えありませんかね?」

 由汰はレジカウンターの上に並べられた二枚の写真を交合に見やりながら無意識に唇を指でいじった。

「五日前にこちらの店に来ているはずなんですがね」

「ええ」

 確かに、見覚えがある。客の顔をちくいち把握している訳ではないが、この少年たちについては覚えがあった。

「あるにはあるんですが……」

目を眇めながら口許に指をあてたまま黙り込む。

なにかが、違う……。

写真に違和感のようなものを覚えて、それを探りだせないまま由汰は片方の少年を指さしながら答えた。

「こっちの少年は覚えていますよ。僕に対して声を掛けてき……」

「なんてだ」

「え」

「なんて声を掛けてきた」

 被せるように質問を投げかけてきた上背のデカい織部尚政おりべなおまさに反射的に顔を上げて眉を寄せた。

「お兄さんもハーフなんですねって」

 由汰が指さした少年は見るからに外国人とのハーフだ。

「それで?」

 どこか険を感じさせる織部の声にいささか気分を害しながらも、

「それで……」

 と、そこでなんとなく言い淀んでしまった。

「どうした」

「あいや、こっちの子も一緒だったはずなんですけど」

「だけどなんだ?」

 急き立てるような織部の言い方についムッとしながらも、

「分かりません……。でも、なにか……写真と違う」

 写真を覗き込みながら、小首をかしげて無意識にまた唇をいじる。

物を考える時の癖なのだ。

 もう一方の男の子は黒髪に黒目をした一目見て日本人だと分かる容貌だった。

 確かにこの少年も店に来ていたはずなんだが、けれど何か違和感を覚えて由汰は口ごもった。

 まじまじと正面から顔をつき合わせたわけではないのだ。まして、まともに会話をしたわけでもない。

 それでも何か、何かを感じたと思ったのだが……。

「おいっ」

「えっ」

「見たのか見てないのかはっきりしろ」

「――は?」

 人が閉店時間後にも関わらず、こうして必死に思い出そうと努力していると言うのに、その言い方はないだろう、と露骨に歪めた顔で織部を仰いだ。

「僕が言いたいのはね、この写真と少し印象が違った気がするってだけで見てないなんて一言も言ってないでしょう」

「どう違って見えたんだ?」

 その傲慢な態度を遠回しに指摘したつもりだったが、残念ながら通じなかったらしい。

 由汰は織部からふいっと視線を外すとレジの締め作業に戻りながら頭を振った。

「すみませんね。何がって聞かれると僕も思い出せなくて。でも確かに二人はここに来ましたよ。うちは専門書だけを扱っている書店ではありますけど、そのジャンルは多岐にわたるので学生や主婦層も多いんです。それに、ハーフの子なんてあまり見かけないですしね。それなりに覚えてますよ」

「それなりにな」

 と、織部の含みのある言い方に眉を顰めながら由汰は作業する手を少しばかり乱暴に動かした。

「曖昧な言い方だな」

「お力になれず残念です」

 と、素っ気なく返す。

 正直、こんな時間に来られて迷惑じゃないと言えば嘘になる。

 お腹だって空いていたし、愛想良く対応するにも今日はだいぶ体調が悪かったから。

 中でも今が一日の中で最高に絶不調だ。全身がハードな水泳を終えたばかりのように重くて怠かった。

 できることなら、このまましばらくしゃがみ込んで、床に――実際には土間だが――座っていたいくらいに。

 そんな状況にも関わらずこちらが親切に対応していれば、この織部の態度ときたらなんなのか。

 緊張していたのに少し気が抜けて、真面目に請け合う気も失せた。

「家出でもしたんですか? その子たち」

 少しばかりイラッとして適当に思いついたことを口にする。

「ここに居ないとなれば、その線もでてくるだろうな」

 言われた意味がすぐに理解できなくて、由汰はほんの数秒レジを締める手許を止めると、次の瞬間きつく眉を寄せた。

「どう言う意味だ?」

 訝し気に刑事二人を睨むと、織部が皮肉げに口端を吊り上げる。

「まさか、僕を疑ってる?」

「違うのか?」

唖然として思わず瞠目する。

 まさか、よもやこんなことが? 赤飯でも炊いて祝うべきか、うっかり真剣に悩むところだ。

 自分が生きている間に容疑者扱いされる日が来るなんて。

 それも一日の一番疲労している時間帯の、最高に体調が絶不調の時に。

 冗談なら笑えるが、目の前の織部の表情はそれが冗談ではないと雄弁に語っている。

「悪いことは言わない。もしも、こいつらをこの家のどこかに囲ってるって言うなら、今この場で包み隠さず、とっとと吐いたほうがいい」

「吐いたほうがいいって……」

 まさか本当に冗談だろ、と思わず首を傾げながら片頬で嘲ってしまった。

 本気でそんなこと言っているのか。そもそも『囲う』などと言う表現が正しいのかもはなはだ疑問だ。

 少しでも協力しようと思っていた自分が急に馬鹿々々しくなる。  

 客からの注文リストが入ったファイルをカウンターに取り出して、ペラペラとめくりだす。

 敬語で対応する気も一気に削がれた。

「悪いけど、他を当たってくれ」

「言われなくとも。だが、今はお前に訊いている」

「お前って……刑事さん、あなたね」

 さすがに咎めようとして身を乗り出すと、手の平一つで遮られた。

「ご託はいいからさっさと答えろ」

「なに……」

「悠長にお前と話し込んでいられるほど、こっちは暇じゃないんだ」

「こっちだって……」

「よく聞け。訊かれていることが理解できていないならもう一度だけ言ってやる」

「だから」

「囲っているのか、囲っていないのかどっちなんだ」

「囲ってないよっ」

 夜二十時過ぎとあって少し疲れていた。いや、今日はだいぶ疲れていた。朝から血糖値も安定せず身体も重い。悟られまいとして最後の力を振り絞って平静を装ってはいるが、実のところこうして立ちっぱなしで作業しているのもそろそろ限界なのだ。

 今日はパートの平多昌子ひらたまさこが用事があるからと急遽一時間ほどで帰ってしまった上に、世間では学校が夏休みに入ったこともあってビジネスマンに混じって学生客もひっきりなしだった。

 その対応だけでもバタバタしていたというのに月末とあって出版社への請求書の支払いやなにやらで今日は一日忙しなく、ろくにお昼ご飯も食べられていない。

 二十時の閉店時間をようやく迎えて、これから在庫の確認や客から受けた本の注文の手続きなどがまだまだ残っているところへ、この刑事たちの予期せぬ来訪。

 あげく意味も解らず頭ごなしに容疑者扱いされては、少しばかり気が立ってしまっても仕方がないだろう。

「顔色が悪いな。どうした? ここにきて、まさか逃げようなんて往生際の悪いこと考えるなよ?」

「だから……」

 勘弁してくれ。

 顔色が悪いのは血糖値が芳しくないからで、後ろ暗いことなど何もないのに逃げるわけがない。

 何を言っても悪い方にしか取ってもらえないのではと思ったら否定して言い募るのも億劫になった。

 レジカウンターに両手をついてだるい体を支えると、正面の織部をじっと見やる。

 三白眼。

 黒目(虹彩)が小さく、白目の部分が多く見える目の形のことを言うが、織部の場合は黒目の下に白目が広がっている。

 こういった目は苦手を通りこして正直嫌いだ。

 時折この目をした人間を見かけることがあるが、その目を見ると、昔から背筋に恐怖にも近い嫌悪を感じる。子供のころのトラウマが原因なのは分かっているのだが。

 だが、なぜだろう。

 忌々しいことに、なぜだかこの男の目には雄々しいものを感じてしまう。

 それどころか、じっと息を潜めて遠くから獲物を狙うような、野性的な双眸はともすれば色気さえ感じて、その目の奥の強い光から目を逸らせなくなりそうだ。

 この状況下で、こんな男に一ミリでも魅力を感じてしまった自分に無性に腹がたった。

 ノーネクタイのボタンを一つ外した半袖の開襟シャツから覗く首や腕は浅黒く日焼けして、厚く筋肉の張った肩や胸は日ごろからよく鍛え抜かれているのが服の上からでも見て取れる。

 外来種の血が混じっている一七七センチの由汰よりも、ゆうに頭一個分は高い。

 場数を踏んできた刑事の隙の無さと、男の放つ威圧感はカウンター越しでもこうして正面に立たれると、大きな壁を目の当たりにしているようだった。

 大げさな例えかもしれないが、体感的にはきっと言い過ぎではないだろう。

 強く張った男らしい頬骨にくっきり隆起した鼻梁と大きくて引き締まった厚い唇が、この男の傲慢な征服欲を如実に表しているようだ。

 年齢は三十代半ばあたりか後半か。

「そもそもどうして僕なんだ」

 なんの根拠があってその少年たちを由汰が囲っていると言っているのか。

「お前だって近頃よく耳にするだろう。その辺のイカれた男が未成年の男子に猥褻な行為をするなんていう話を。最近じゃ珍しい話でもなんでもない」

 確かに、つい最近も男性教師が教え子の男子生徒を無理やり自室に連れ込んだなどといったニュースを聴いた気がするが。

だからと言って、

「それとこれと、どういう繋がりがある」

「お前の性的指向が、男相手だということは分かっている」

 なるほど、

「……それで?」

 顔にゲイだと書いたつもりはなかったが、警察と言うのはどこからでも情報を集めてくるものだ。

隠している訳ではないものの、自分がゲイだと積極的に触れ回っているわけでもない。

 今はもう他界していないが、この家の前の主の南三千雄と翻訳家であり輸入雑貨店を近所で営む兼子孝也かねこたかやと母親の再婚相手であるフランス人のジャンは由汰がゲイであることを知っているが、それ以外の人には仮に気づかれていたとしても自分の口から言ってはいないし、母親代わりのような昌子だって知らないのだ。

 以前に、時々通っていたその手のBarは置いておいたとしても。

 とは言え、警察の見解がその理由からだと言うなら、あまりにも安直過ぎてなんだかがっかりな気分にさせられる。

 それに、同性愛者を小馬鹿にしたような、蔑むような含みを、織部が一瞬口許に浮かべたのも気に入らない。

 日本でも同性婚がある一定の地区で認められた今となっても、やはり同性愛者に偏見を持つ人はまだまだ多い。

 この男のように法に平等な正義の味方の警察の中にあっても、あからさまな軽蔑を浮かべてみせる者もいるくらいなのだ。

 性癖ではなく性的指向と言っただけでもまだましか。

 言われ慣れてきたことだから、改まって腹を立てるようなことはしないが。

「だからって容疑者扱いするなんて馬鹿げてるだろう。そもそも思っていたとしてもそれを警察が口にしていいのか?」

 織部は魅力的な口端を軽く吊り上げて鼻先で笑ってみせた。

「非生産的な人種を認める認めない云々は俺個人の見解であって警察は関係ない」

「なに?」

 由汰は思わず綺麗な顔を歪めた。

 好き好んでゲイになったわけではない。だからといって自分のセクシャリティを煩わしいと思ったことだってほとんどないのだ。自分がそうだと気づいた時、それなりに戸惑ったり悩んだりはしたが、事実そうなのだから由汰はそれを認めて受け入れた。

 長い人生の中で天秤にかけたら、自分自身を一生偽って生きていくよりも楽だと思えたからだ。

 子孫を残せないのは確かだが、それは女性であっても残せない人だって中にはいるわけで、決して軽々しく非生産的なんて言っていいものではない。

 さらに言えば、この場で個人的見解を述べるなんてこともやめて欲しかった。

「いい加減にしないか、織部。すみませんね、南さん。こいつは少しばかり口が悪いもんで。どうか気にしないで下さい」

 気にする気にしない以前に不謹慎な言動をとらないよう前もって躾けておくべきじゃないのか。

 と言うか、長谷川の存在を完全に忘れていた。

 織部に対して諫めるようなことを言いながらも、そう言う長谷川も随分と長いこと傍観していたではないか。

 おおかた織部に焚き付けさせて由汰の反応や出方を観察していたのだろう。

「僕は、後ろ暗いことなんて何一つとしてありませんよ」

 極力大人な対応を心掛けたかったが、それでも言葉尻に不機嫌さが滲みでてしまったのか、長谷川が少し困ったような表情を浮かべる。

「我々は別にあなたを犯人だと断定しているわけではないんですよ」

 それは驚きだ。織部は断定しているようにしか見えないが。

 ふと何かが引っかかった。

 自分はこの刑事たちに「南」だと名乗っただろうか――。

「僕の名前も素性も調べた上で、それでも断定しているわけではないと?」

「それはぁ」

 バツが悪そうに長谷川が顔を顰める。

 やおらやれやれと言いたげに長谷川は大きく息をついた。

「いえね、正直に言いますと実はこの少年たちの足取りがこの店を最後に途絶えてましてね。それを知るにあたって事前にこの店について少しだけ調べさせていただいたんですよ」

「店、ね……」

「決して南さんを容疑者だと断定したわけではないんです」

 なるほど。あくまでも、彼らがこの店を最後に行方を絶ったからと言いたいらしい。

「説明してもらっても?」

 長谷川は仕方ないと言いたげにしぶしぶ説明を始めた。

 少年たちの名前は光音ライト・エメリーと堀北蒼流ほりきたそうると言うらしく、都内のインターナショナルスクールに通う十五歳の中学生だ。

 キラキラネームと言うのを三十一歳の由汰でも聞き知ってはいるが、こう目の当たりにすると彼らが初老を迎えた頃のことを思って同情しそうになるのは自分だけだろうか。

 光音はあきらかにハーフといった顔立ちで色素の薄いブラウンの髪にブルーのグラデーションの入った薄グリーンの目をしている。  

一方の蒼流と言えば黒髪に大きな黒い目をして一目見て日本人だと判る。

 ただ、今の子は顎が細くて目鼻立ちもはっきりしている上に、肌も白いので日本人離れした雰囲気はあった。

 どちらも綺麗とカテゴリーされるであろう少年たちだ。だとしても、変態野郎に攫われてどこかに囲われていると推測するのは、あまりにも短絡的で飛躍しすぎだろう。

 それに、由汰はゲイであってもロリコン趣味はない。

 彼らが行方不明になったのが五日前の金曜日。

 学校を出てから都内のファストフード店で夕食をとり、その後、神保町にあるこの書店『こみち』で見かけたと言う目撃証言を最後に足取りが分からないのだと言う。

 受験を控えた思春期真っ只中の少年たちだけに、家出という線も拭えないのではと由汰は思ったが、五日間も消息不明ともなるとやはり犯罪に巻き込まれた可能性もでてくるのだろうかと思いなおす。

 神保町の古書街は場所によっては道も狭く古い建物も多いため防犯カメラもまばらだ。

 まして『径』は古書街が広がる界隈からも駅前の神田すずらん通り商店街からも少し外れた古いオフィスビル群の細い路地に面している。

「ご存じないかもしれませんがね。ほんの僅かですが、斜め迎えのビルの防犯カメラに、この店の入口の足元辺りだけがほんの少しだけ映り込んでいるんですよ。その足取りから少年たちがここに入ったのは間違いないんですが、出て来るところが映ってなくてですね……」

 と、そこで長谷川は言葉を濁した。

 入って行った映像はあるのに出て行った映像がないなんてことはあり得ない。

 事実、この家のどこにも彼らはいないし、由汰が彼らに何かをしたなんてこともないのだ。

 なるほど。出て行く映像が無かったから、織部も長谷川も由汰が彼らに何かをしたと疑ったのか。

 だとしても、そこに性的指向云々を持ち出してくるのはやはり間違っている。

 再びレジカンターに並べられた二人の写真を交合に見やりながら、無意識に指で唇をいじった。

 ふと、その様子を織部にじっと上から見られていることに気がついて、なぜだか慌てて指をカウンターに戻す。

「だとしても、五日前って言うわりには話を聞きに来るには遅くないですか」

 ふと疑問に思って長谷川に問う。

「実は失踪届が出されたのが今朝だったもので、そのために初動捜査が遅れてしまいましてね……」

 と言いながら、長谷川が意味深な視線を織部に投げる。

 二人のやり取りがどこか気になったが、まあいいかと流した。

 近頃の親というのは子供にさほど関心がないのだろうか、五日間もたってから失踪届を出すなど常識から外れているようにも思えるのだが。と、考えてからふと自分の母親のことを思い出して、いやそうでもないかと頭の中で苦笑った。

 そういう親はきっと世の中にごまんといるのだ。

「ですから、ここで何か彼らの手がかりがつかめればと思ったんですが。お分かりいただけましたか?」

 渋々とは言え、きちんと説明してくれた長谷川にいつまでも臍を曲げているわけにはいかないだろう。

 納得できたかと言われれば到底できないが、事情は理解できた。

 質問の続きをしたいと言う長谷川に、由汰も気を取り直して頷く。

 けれど、できれば手短にお願いしたい。とまでは、なかなか言い出せなかった。

 長谷川はポケットからメモ用の小さな手帳を取り出した。

「その日、二人に何か変わった様子はありませんでしたか?」

「そこまで、注意深く見ていたわけではないですから」

「喧嘩をしていたとか、緊張していたとか何でもいんですが」

 手帳から視線を上げる長谷川に、由汰は思案顔で首を傾けた。

「それは無いと思いますよ。強いて言うなら二人ともなんだか凄く楽しそうでした」

「楽しそう?」

 長谷川の目に期待の色が浮かぶ。

「それは、尋常じゃなく興奮していたと言うことですか?」

「え? いえ、そこまででは。そう言う意味じゃなくて」

 安に楽しそうだったなんて言った自分の言葉を少し後悔する。

「時折、奥の書棚辺りから楽しそうな笑い声が聞こえてきただけで……その程度です」

 ああそうですか。と、長谷川が少し残念そうに肩を落とすと手帳に何かを書き込んでいく。

「それで、二人は何時ごろここを出ましたか」

 由汰は壁に掛かった時計を見やりながら、

「二十時」

 即答すると織部の眉尻がこれみよがしにピクリと反応した。

「それなりにしか覚えていないのに、時間だけは随分とはっきり言い切るんだな」

 疑いの眼差しを隠そうともしないその三白眼に、気圧されまいと負けじと睨み返しながら、

「うちはご存知の通り二十時で店仕舞いなんでね。ついでに言うと今はもう既に二十時を過ぎているから営業時間外というわけになるけど」

 と、多少の嫌味を入れながら、

「彼らは閉店ぎりぎりまでいたから、まだいるようなら改めてまた来直してくれって、声をかけようか悩んでいた時だったから、その辺はよく覚えてるんだよ」

「ほう」

 力説させたわりに受け応えはあっけない。

「で? お前はそいつらがそこの大戸口から出て行くのをその目できちんと見たわけか」

「え……」

 そう訊かれて、思わず言葉に詰まった。そう言われてみると、あの日、自分は彼らが出て行く後姿を見ただろうか。

「そいつらに出直せと言うつもりで、その時お前はどこで何をしていた?」

 射るような眼差しで、三白眼がどうなんだと問うてくる。

 由汰は思い出そうと無意識に唇を指でいじりながら、先週の金曜日の夜の記憶を追った。

 なぜ彼らが帰ったと思ったのか。

 ここの大戸口は開閉にガラガラと大きな音を立てるから直ぐに人の出入りがあれば分かる。

 けれど、その音すら自分は聞いただろうか……。

 あの日は、確か週に一回の染物教室の日で。

 二十時半までには生徒さんが来るから、閉店時間を気にしながら染物の準備をしておかなければと思って……

「……そうだ。染物教室の準備をしようとそこの小土間に入って」

 由汰は書店と木製の引き戸だけで区切られた土間続きの隣の部屋を指さした。

「あの部屋で週一回の染物教室の準備をしていて、出てきた時にはもう姿が無かったからてっきり帰ったものだと……」

 思ってしまったのだ。

 まさか本当にこの家の中に――?

 動揺が顔に表れてしまったのか、それを見て織部が目を細める。

「この戸口以外で外に出られる場所は?」

「ここ以外で? ……庭から裏道に出れるけど」

 けれど、その為には居住区としている部屋を通り抜けなければならない。

「窓のカギは? 庭に通じる窓のカギだ。開いてたのか閉まってたのか」

「あ、開いてた。っというか、暑いとよく窓を開けっぱなしにしてるから」

 日中暑いと居住区の方の窓は開けっぱなしにしていることが多く、夕方には閉めようと思っていてつい仕事をしていると忘れてしまうことがよくあるのだ。

 だから開いててもなんら不思議には思わない。

「ついでに訊くが、昨日の夜から今朝六時にかけてどこで何をしていた」

「……昨日の? なぜ昨日のことを? 失踪は五日前って」

「すみませんが、お答え願えませんかね、南さん。みなさんに訊いて回っていることなので、型通りの質問だと思ってください」

 長谷川が宥めるような口調で苦笑してみせる。

 うまいこと丸め込まれた感が否めなかったが、このやり取りもそろそろ心底終わらせたかったし、さっきよりも更に重くなった体を感じて、とうとうあれこれ抵抗するのを諦めた。

「昨日は店が定休日で、午前中に日用品の買い出しに出かけて、午後に少し書店の事務仕事を片付けた後はずっと奥の部屋で、居住区の方のですが、そこで染作業をしていました」

「染作業、ですか?」

「友禅ですよ。たいしたものじゃないですが、時折注文を受けることがあって染めてるんです」

「ほほう、友禅とは、良いご趣味をお持ちで。それから?」

「それから、日付が変わったころに寝て今朝は七時に起きました。いつものルーティンです。ついでに言っておきますけど、僕は独り身だしご覧の通りこの家には僕しかいませんから僕のアリバイを証明できる人間は誰もいませんよ」

 後から訊かれるのも面倒なので先に言っておく。

「不信な人物を見かけたとかはありませんか?」

「いいえ」

「そうですか。いやぁ、とても参考になりましたよ、南さん。失礼な質問ばかりですみませんでしたね。ありがとうございます」

 長谷川は由汰の機嫌を取りなすように半音高めの声で目許に笑皺を刻んだ。

 由汰も辛うじて口許に笑顔を作って応える。

「それにしても!」

と、今度は突然愉快そうな口ぶりで、

「南さんは本当にお綺麗な目をしているんですね!」

「え」

「いや、書店に入った時はちょっと面喰いましたよ。一瞬精巧にできた人形が立っているのかと思ったくらい驚きました。いるんですねぇ、ここまで澄んだグリーンの瞳の方って。あほら、だいたい欧米の方でも何色か混ざったような――ああ、そうそうグラデーションのように色味が重なってるでしょ? ですが南さんの目は瞳孔の真っ黒い中心を囲むようにグリーン一色で。ずっと見てると不思議な気分になりますよ。まさにガラス玉のようだ」

「それは……ええ、まあよく言われますよ」

 急に何を言い出したかと思えば、長谷川はどうもずっと由汰の目の色が気になって仕方なかったようだ。

 何とも言えず、曖昧な笑みを浮かべて返してみるが、なおも興奮は冷めやらぬようで。

「そうでしょうね、そうでしょうね。何というか、その黒髪とのコントラストがまたいっそ引き立てますよね、グリーンを。珍しいって言われませんか」

「……そうですね」

 気味悪がられることも多いですが。

「いやぁ、美しい」

 そう言われることも確かにある。実際、子供のころはこの容姿のせいで随分と嫌がらせを受けたが、大人になってからは長谷川のような輩の方が多かった。

「グリーン一色の目なんて初めて見ますよ。失礼ですが――」

 人の外見をあれこれ評している時点で失礼だと思うのだが。

「南さんはどちらのハーフでいらっしゃるんですか」

 グリーンの目がガラス玉のようだとか、肌理の細かい生白い肌が蝋人形のようだとか、日本人よりも色素の濃い塗れ羽のような黒髪がまたアンバランスでなお良いだとか、顔が小さいだとか。

さんざん言われ慣れてきたセリフたちに加えて、またも訊かれ慣れた質問に内心げんなりしながらなんとか口許に笑顔を作る。

「父がフィンランド人なんですよ。母は日本人で」

 さらに、訊かれる前に付け足してやる。

「ついでに言うと、僕は日本から出たことがないので日本語しか話せませんけど」

 ほほう、と満足気に感嘆の溜息を吐く。

 どうでもいいが、用が済んだのであれば早く帰って欲しいのだが。

 内心で大きな溜息をつきながらついと横の織部に視線を向けると、甘さも何も削ぎ落とされたような苦み走った男は、長谷川とはうって変わって、腕組みをしたまままるで関心なんて無いかのようにガラス戸の向こうの通りに視線を投げている。

 織部みたいな男は、他人の外見などにあれこれ興味を持つなんてことはないのだろう。

 せいぜい関心を抱くのは己のアイデンティティと仕事と出世と女と金くらいに違いない。

「では南さん、我々はこれで失礼しますが、先ほどおっしゃってた違和感がなんなのか、思い出したらこちらに連絡いただけますか?」

 と、スラックスのポケットから名刺ケースを取り出してその中の一枚をぺらっと取ってよこした。

 ついでと言わんばかりに織部もカウンターに名刺を置く。

「わかりました。何か気づいたら連絡します」

「我々も、また何かありましたら連絡させていただきますので」

 分りました、と答えながらこれでようやく帰ってくれると胸を撫で下ろした。

 秒刻みでどんどんどんどん体のだるさが増していく中、カウンターで体を支えているのにもそろそろ限界が近い。

 ――なのに、

「そうだ。ちなみに彼らはどの本棚あたりを見ていました? よかったら最後に少しだけ店内を拝見してもよろしいですかね」

 どうやら招かれざる客は、悲しいかなまだ帰ってはくれないらしい。

 長谷川の余計な一言に心のなかで舌打ちしながらも、それをおくびに出すことなく由汰は「いいですよ。狭い店内ですが好きなだけ見て行ってください」と、半ば投げやりに答えた。

 どうにかもうしばらく気合でやりきるしかなさそうだ。

 しっかり足を踏みしめて歩かないとよろけてしまいそうで、さり気なく書棚に手をつきながら確かこの棚の辺りだったと二人を奥の書棚に案内する。

 床から天井まで文字通り書棚になっているそこには、メジャーな専門書からマイナーなものまでぎっしりと本が敷き詰められていて、その本達を眺めながら長谷川が感嘆とも落胆ともつかぬ溜息を吐く。

「骨が折れますよね。僕も彼らがどの本を見ていたかまでは分りません。上の方を見たいときはそこにある梯子を使ってください」と付け加える。

 まじまじと一冊一冊、目を皿のようにして身を屈めて下段から見ていく長谷川を横目に、由汰は後ろの書棚にもたれようとして、だが、ちょうどそこへ中途半端に飛び出した本を見つける。

 医学洋書の『視覚・眼科臨床用語辞典 第五版』だ。少しぼーっとしかけてきた頭でしばらくそれを眺めて、一点を見過ぎて焦点がだぶりだす中、自分には一生かけても理解なんてできないだろう洋書の医学専門書籍をそっと押し込めようとして、

「手が震えているぞ」

 耳打ちするような低い声に、目の前の焦点がカチッと戻る。

洋書を押し戻す手前で、己の手が小刻みに震えているのに気がついた。

とっさに引っ込めて握り込む。

織部に指摘されるまで気が付かなかった。

 しかも危ない、少しぼーっとしてしまっていた。体のだるさと手の震え。数値で言えば70を切ったあたりか。いや、60辺りまで下がってきているかもしれない。

 思えば昼もろくに食べないままインシュリンを打って、補食も摂らず気づけば二十時過ぎだ。低血糖になっても仕方ない。

視界が霞んでないだけまだましか。

けれどこれ以上は、頭が少しぼーっとしてきたとなれば、眩暈まで起こし始めたら厄介だ。

 手の震えを織部がどうとったか分らないが、探るような冷ややかな眼差しをさり気なくかわしながら、

「あの、僕ちょっと席外しても?」

 織部を通りこしてあえて長谷川に尋ねる。

「ああ、構いませんよ。見終わったら声かけますんでね」

「すみません」

 と、一言据え置いて、踵を返しながら後をついて来ようとする織部を肩越しに振り返った。

 なんだと口を開きかけて、それを長谷川に遮られる。

「南さん、この辺の写真撮らせてもらっても構いませんかね」

「ええ。お好きなだけ」

 がりはなの手前からでは、奥の棚に隠れて見えない長谷川に声だけ投げてから、黙ったまま背後に立つ織部を胡乱げに見上げた。

 お前は長谷川と一緒に書棚を調べなくていいのか。

 言おうとして、いやどうでもいいかと開きかけた口を閉じた。

 無言で佇む織部をそのままに、由汰は上がり端へと続く磨りガラスの引き戸をスーッと開けて靴を脱ぐと、一段上がった板の間に上がる。

 引き戸の奥は店と違って初夏の熱気で空気がむっとしていて淀んでいた。

日中のほとんど由汰は店にいることが多いため、居住区の方は基本エアコンを切っている。

このまま戸を開けっぱなしにしておいて少し空気を循環させよう。

 『径』は、大正初期に建造されて改築を繰り返されてきた年期の入った古い平屋だ。

 外装は漆喰の横板張りで、板(下見板)を下から互いに少しずつ重なり合うように取り付けたもので、今日日、国内ではあまえり目にすることも無くなった様式ではあるが、欧米諸国などではまだよく見られたりもする。屋根はなんの変哲もない一般的な瓦屋根だ。

 その昔、漬物屋だったとされる建物には大戸と呼ばれる路地に面した入口があり、それは全面ガラス張りの襖のような大きな引き戸で、外を歩いていると中の書店の様子がよく見て取れた。

 今時木枠の戸や窓は、セキュリティ面でも防寒対策にもあまり有効的ではなかったが、壊れている訳でもないし由汰自身も気に入っていることもあり、出来る限りこの空襲を免れた年代物の建物を保持していたくて、近所の建具屋さんにたびたび交換を薦められるのをことごとく断ってきている。

 大戸を開けて中に入ると、奥に向かって二十畳の土間が広がる。

 昔の雰囲気を活かしてそのまま土間を店として利用しており、壁から壁に、床から天井にかけてひしめき合うように書棚が並ぶ。

 大地震でもくれば、一瞬にして大量の本と書棚に押し潰されるだろう。

 土間を挟んで右側に八畳と十二畳の二つの小土間が、奥と手前にと縦列してあり、どちらも木製の引き戸で区切られているだけの土間続きの部屋だ。

 昔はここがお勝手、つまり台所として使われていたが、今は十二畳の部屋を書庫に、八畳の部屋を週一回の染物教室に使用している。

 一方、書店の土間を挟んで左側は住居となっており、土間より一段高い作りになっていた。

 上がり端(居間)へと続く戸は磨りガラスの引き戸になっていて、その戸を開ければ板張りの上がり端、つまりは居間に直結しておりキッチンやトイレ、風呂場などが所狭しとまとめられていた。

 居間の更に左側には縦列して六畳の畳の部屋が二つ。それぞれ押入れが備え付けられており、寝室と染物の作業場として使っていた。

店の前の通りに面した部屋が寝室で、その裏の庭に面した部屋が作業場だ。

作業場には、三千雄とその妻の――由汰は会ったことはないが――仏壇が置いてある。

作業場の襖を開ければ縁側があり、縁側を挟んだガラス戸の先には、猫の額程度の庭がブロック塀に囲まれてあった。

庭には鉄柵の勝手口があって容易に裏道へと抜ることができる。

 人が住むにはちょっとばかし古すぎるほどのものではあるが、なかなか広いし風情があると由汰は思う。

 元の家主の三千雄が、住みやすいように色々と手を加えていることもあり、生活するにはなんら不自由はなかった。

 エアコンもついているし、風呂だってボタン一つで湯が沸かせる。

 ただキッチンだけは昭和初期のままで大分傷がいっている部分もあったが、そのまま使うのには問題なかったし、お湯が出るだけましだ。

 由汰は気だるい足取りで、テレビとちゃぶ台と二枚の座布団、それと隅っこに小さな多段棚が置かれただけの殺風景な居間をのろのろと抜けて台所に行く。

 途中、仕事用のベージュのエプロンを頭から抜き取ってちゃぶ台の上に投げながら。

 水切り籠に入ったままのグラスを取り出して、二つ扉の背の低い冷蔵庫からポカリスウェットのペットボトルを出すと、覚束ない手つきでグラスに注いだ。

 血糖値を上げるには、ブドウ糖を含んだゼリーやポカリスウェットなんかが吸収も速く手っ取り早くて便利だった。

 直接それ専用のブドウ糖を口に入れるのが本当は一番いいのだが、今は在庫を切らしていて無い。

 熱気を孕んだ居間は、一瞬にして由汰の額にじわっと汗を滲ませる。

 体のだるさといい手の震えといい織部といい、今日は色々と由汰をイラつかせる。

 とにもかくにも、取り敢えずポカリを飲んで刑事が返るまでの間一時凌ぐしかなさそうだ。

 本来であれば測定器で血糖値を図ってからにしたいところだが、今はそれすらも面倒だった。ポカリを飲んでから、その後測ればいい。

 とは言っても時刻は二十時過ぎ。ポカリではなく、できることならきちんと夕飯を食べたい。

 なのに、とグラスに口をつけながら何気なく振り向いて、

「うわっ……!」

 と、由汰は思わずグラスを落としかけた。

「な、なにを勝手に上がり込んでっ」

 腕を組んで居間の土壁に寄り掛かりながらじっとこちらを見やってくる三白眼と目が合って、驚きに危うく手を滑らせるところだ。

「警察だからって、無断で上がり込んでいいのか」

「お邪魔しますって聞こえなかったか」

「言ってないだろっ」

 あからさまに嘯いてみせる織部は口許を歪めながら軽く肩をすくめてみせた。

「様子が可笑しいんでどこかへ逃げやしないか心配でな」

「勘弁してくれないか。何度も言うけど、何もしてないのに逃げるわけないだろう」

 ったく、と悪態をつきながら由汰はポカリを一気に胃に流し込んだ。

 グラスを流しに置きながら呆れ顔で織部を睨み付ける。

「なあ、あんたのその決めつけたような言い方、どうにかならない?」

「さっきも長谷川が言っていただろう。別に俺たちはお前を犯人だと断定しているつもりはない」

「どの口が」

 思わず吐き捨てる。

 断定していなくとも、そうじゃないかと推定してはいるんだろう。

「……具合が悪そうだな」

「関係ないだろ」

「顔が青い」

「ほっといてくれ」

「緊張で喉でも乾いたか。手の震えも」

「違うよ」

「言っておきたいことがあるなら今の内に」

「だから……」

 ――そんなんじゃない。

 あくまでも織部にはそう見えるのか。何度目かになる否定の言葉を口にしようとしてやめた。

 力なく首を振る。

 正直に糖尿病だと言えばこの男は素直に信じるだろうか。

 それも贅沢病と言われているⅡ型糖尿病ではなく、膵臓のβ細胞が破壊されて二度とインスリンが分泌されないⅠ型糖尿病だと言ったら。

 日本人の多くはこのⅠ型の存在をよく知らない。

 ゆえに当初Ⅰ型糖尿病を発症した時も皆口を揃えて暴飲暴食でもしたんだろうと揶揄うように囃し立ててきたものだ。そういった輩もこの病気も由汰にとって煩わしい以外のなにものでもない。

 十カ月前に突然Ⅰ型糖尿病を発症してこの方、病気との付き合いと仕事の両立がうまくいかなくてストレスの多い毎日を懸命にこなしてきている。

 生活習慣も色々と変わらざるを得なかった。

楽しく美味しく頂いていた毎日のご飯も、カーボ(炭水化物)カウント(計算)が面倒で毎日同じものを食べて腹を満たすだけのものになったし、好きだったお酒も低血糖になりやすくなるため飲まなくなった。

 血糖値によっては意識が朦朧とすることもあることから、長年愛用してきたバイクHONDA CBR250Rも泣く泣く手放した。

 今ではもっぱら徒歩か電車だ。

 体にも変化は現れた。疲れやすくなったし急に冷え性にもなった。

 足がよくつったりむくんだりするようにもなった。そういった些細な変化も日々のストレスになる。

 糖尿病は、インスリンを打てばいいってものでもなく、血糖値というものは運動量や気温、ストレスなんかで高血糖にも低血糖にもなるため、食事だけ気を付けていれば良いっていうものでもない。

 長年試行錯誤した末に、自分に合ったさじ加減を見出していくしかないのだ。

 カウントしたカーボ分のインスリン注射をしたのに、その後の測定でまったく血糖値が下がっていなかったり、低血糖を避けるために補食を摂ってから寝たのに朝方低血糖で起きられなかったり。

 足りなかったかと追加打ちしたインスリンの量が多かったのか、逆に低血糖になってしまったり。

 女心と秋の空。

 ホルモンのバランス云々で前触れもなくころころと態度が変わるような子宮でしか物事を考えられない厄介な恋人と同棲させられているようだ。

 それも一生付き合っていかなければならない恋人だ。

 おまけに金もかかる。

 どうしても別れたければ、その時は自分がこの世とおさらばするしかない。

 由汰は大きく溜息をついた。気負って否定する気力も無い。

もっと言えば、この男相手にご丁寧に説明してやる気も無かった。

「疲れてるんだ。夕食もまだだし。ご希望に添えなくて残念だけど隠してることなんて本当に何もないよ」

 由汰はふらふらっとちゃぶ台に手を突くと座布団に腰を下ろした。

 さすがに立ちっぱなしは辛くなってきた。

 動いたからか頭も少しクラクラしてきている。

 ポカリを飲んだから十分もすれば気分も盛り返してくると思うが。

 平静を装うなんてこともできなくなって、織部が目の前にいるのにも構わず黙って項垂れる。

「十年くらい前に、ここの元の家主と養子縁組をしているよな」

 唐突に事件とは関係ないことを訊かれて、ちゃぶ台にもたれかけていた顔を上げる。

「そうだけど。それが何?」

「遺産を相続するための養子縁組だったわけか」

 何かを含むような嫌な言い方だった。

「だったらなんだよ。さっきからあんたなんなんだ。勝手に人のことあれこれ調べて、それはプライバシーの侵害に当たらないのか? 警察なら何を調べても関係ないって?」

「建物は古いが、この立地なら売ればいい値がつくだろうな」

 なんだってこうも話が噛みあわないんだ。

 項垂れながら手の甲で額を押さえた。

「南三千雄とはどういう関係だった」

 どういう関係とはどういうことだ――。

 訊かれたことがよく分からなくてクラクラする頭をどうにか回転させて、その意味にようやく辿り着く。

 眉を顰めて顔を上げると、見下ろしてくる三白眼と目があった。

 その目に意外にも揶揄うような蔑むようなものは無く、思いのほか真面目な面差しになぜだか胸がざわざわした。

「なんでそんなこと訊くんだ」

 諦念めいた気持ちから、少しだけ掠れ声になる。

「その綺麗な顔になら、ゲイでなくてもほだされちまうのかと思ってな」

 そう言って細めた目になんだか危険な色が滲んで見えたきがして、思わず瞠目した。

「……な、に言って」

 関心なんて無いような顔していたくせに、織部の口から綺麗な顔なんて単語が飛び出したものだから、まっすぐ見据えてくる三白眼に耐えかねて慌てて顔を逸らした。

 タイミング良く「終わりました」と長谷川の声が店の方から飛び込んでくる。

 とっさに何を動揺してか勢いよく立ち上がったせいで、由太の体がぐらっと傾いた。

 「あっ」と、視界が天井を捕らえかけて背中から倒れるのを覚悟した瞬間、力強い手に腕をぐいっと引っ張られる。

 引き寄せられて、はっとして仰げば、織部が由汰の腕を掴んで距離にして二十センチのところから見下ろしていた。

「いったい、何なんだ!」

 言われて反射的に腕を振り解く。

 掴まれたところが熱を帯びたようにじんじんした。

「持病なんだよ」

「持病だ?」

 何か聞きたげにじっと見下ろしてくる織部から逃れるように、ふらつきながらもう一度立ち上がると、上がり端の戸に手をつく。

 なぜ持病だなんて馬鹿正直に言ってしまったのか。男との距離の近さに柄にもなく動揺してしまったのだ。織部を前にするとどうも調子が狂う。

 苦手な三白眼を前にしているからか。それとも――。いや、やめておこう。

「聞こえたろ? 終わったってさ。もう、帰ってくれ」

 落ち着きなく跳ねる心臓の音を悟られまいと、なんとか平静な声でそう告げることができた。

 病気のことで同情したり気遣われたり、奇異な目で見られるのは自分が否応なく病人だと思わされて嫌だった。

 だからできる限り平静を装って気づかれまいと気張っているのに、不覚だ。

 そんな由汰の気持ちを察したわけではないだろうが、織部は持病について触れることなく長谷川を連れて帰って行った。

 上がり端を下りると、肩越しに、「また、連絡する」と一言言い残して。




 刑事二人を大戸口まで見送りもせず、上がり端に腰掛けたまま、頭のクラクラと手の震えが治まるのを待っていた。

 体のだるさも、だいぶ回復してきている。きちんと糖分を摂って十分もすればこんなものだ。

 織部たちが帰って気が抜けたのもあり、今日はなんだかこのままお風呂に入って寝てしまいたい衝動にかられるが、悲しいかな、片付けなければならない仕事はまだある。

 その前に腹ごしらえだった。

 由汰は冷凍庫から一つ160グラムに測っていくつも作り置きしてあるおにぎりを一つレンジに投げ込んでボタンを押した。

 朝にまとめて作っておいた鍋の味噌汁を火にかける。

 そうしているうちに、熱気で満ちた部屋を冷やすべく冷房のスイッチを入れると、テレビの横の多段棚から測定器を取り出した。

 食事の前に血糖値を図らなければならないため、万歩計ほどの大きさの血糖値測定器に針を装着して左の人差し指の先に刺す。鈍い痛みにももう慣れた。

 現在の血糖値は81mg。

 悪くない数値だ。

 となると、やはりポカリスウェットを飲む前は、60mg近くまで下がっていたということになる。

 血糖値は基本70mg以上ないといけないのだ。

 それ以下だと低血糖で虚脱感や倦怠感、眠気や震え動悸などが起こってしまう。

 その症状は人によってさまざまだが、50mg以下などになると意識を失う場合もある。

 低血糖の何が怖いかって、最悪な場合、失神してそのまま死に至るケースも少なくない。

 しかし、どちらかと言えばⅠ型糖尿病はインスリンが全く機能しないため、高血糖になることの方が断然多い。飲食をすれば必ず血糖値が跳ね上がる。それを防ぐためにインスリン注射を都度打つのだ。

 高血糖になったらその場ですぐどうこうと言うことはないが、高血糖が続くとゆくゆく様々な合併症を引きおこし、失明したり腕や足を切断しなければならなくなる。男性にはインポになる者も多い。最悪の場合死に至る。いずれにしても死に至る。

 常に70mg以上110mg未満が好ましい値とされていた。

 炭水化物には、それぞれのグラムに対して単位が決まっている。

 それは炭水化物の中に含まれる糖質の量をざっと表す単位で、例えば米であれば80g一単位、食パンであれば六枚切りを一枚で一単位。

 それぞれの単位を計算して、その時に必要なインシュリンの量を調整するのだ。

 簡単なようですごく面倒くさい地道な計算だ。

 全ての食材や調味料の単位を覚えられる訳でもなく、外食ともなるとそれがはたして何グラムの糖質を含むのか、カロリーがどれだけなのか。全て事細かに表示されているケースは多くない。

 経験で培ってきた勘に頼るほかないのだが、経験の浅い由汰にとってはまだまだそのさじ加減が難しかった。

 これくらいかと当てをつけてインスリン注射を打つ。

 食後二時間で血糖値測定を行って、インスリンの量が足りないようであれば追加打ちをすると言った感じだ。

 急いでいる時や外出先でなど、この作業はちくいち面倒臭かった。

 十か月前、突如として舞い降りたⅠ型糖尿病という一生治らない厄介な病。

 そのせいで、食に関しても毎日同じ物を食べるだけのつまらないものになった。

 同じものを同じ量だけ作り置きしておく。

 そうすれば、いちいち単位の計算をしなくても、毎回同じ量だけのインスリン注射をすればいいだけになる。それでも血糖値はうまいこと一定の数値を保ってくれないから、体の負担に加え精神的疲労も募る。

 毎回代わり映えしない質素な食事に、時たまたまらなく惨めな思いにさせられる。

 今日もそんな気分になりかけているが、そうそう落ち込んでいる暇もない。

 適量と思われるインスリンの量を確定して、シャツの裾をまくり上げて脇腹にペン型のインスリン注射を打ち込む。

 最初は、自分の体に自分で注射を打つなんてことが怖くてうまくできなかった。

 何度も失敗して安くないインスリンを無駄にしたこともある。

 けれど、十カ月経った今となってはそれも手慣れたものだ。

 使用済みの針を回収箱に入れた時、カチカチっと音と同時に居間の電気が点滅し始めた。

「替えがあったかな」

 一人ぼそぼそと呟きながら、吹きこぼれそうなほど沸騰している味噌汁の火を消して、隣の薄暗い作業場を抜けると、さらにも増して蒸し暑さを孕んだ縁側へでる。

 縁側を行った奥に、梯子のような階段が天井裏から床上数十センチあたりまで伸び下がっている。

 中二階と言って、天井と屋根との間の空間を利用して作られた納戸のことを言う。

 屋根裏部屋と言ったほうが昨今では分りやすいかもしれない。

 高さがないから真っすぐ立つことはできないが、中腰くらいであればなんとかいけた。

 めったに上ることはないが、消耗品などの在庫や日ごろあまり使わない物をしまっておくのに重宝しているのだ。

 奥まった縁側にも中二階にも灯りはないから、懐中電灯をポケットに入れる。

 不気味なくらい静かだった。

 見慣れているはずの、縁側のガラス戸の向こうの、そうと呼ぶには狭すぎるほどの庭は、僅かな街灯と月明かりだけでなんだか不穏だ。

 短い廊下の奥に、年寄りが上るにはいささか急すぎる梯子を見る。

 今晩に限って、なんだかその場所だけに淀んだ空気が吹き溜まって見える気がした。

 歩みが鈍くなる。

 古くて歩くたびにギィ、ギィと軋む板床の音が妙に鋭く耳についた。

 木製の梯子に手をかけて、頭上の天井裏へ続く闇を見上げる。

本当に電球の替えを買っておいただろうか。三千雄が亡くなる前に使い切ったんじゃなかっただろうか。

いや、三千雄が死んでもう二年近く経つ。その後も一度くらいは替えているはずだ。随分前のことであまりよく覚えていない。

 梯子をぐっと握る。

 別に今探しにいくことも無いんじゃないだろうか。

 インスリンを打ってしまったし、先にご飯を食べてからでも遅くないのでは。

 急いで行かなくていい理由を無意識に頭の中で作り出していく。

 でも、こういったことは気づいた時にやってしまった方が面倒じゃない。

 何を躊躇しているのか、ただ上に上がって替えの電球を取って降りて来るだけのこと。     数分とかからない。

 由汰はそう自分に言い聞かせると一つ大きく頷いた。

 よし、と気を取り直して下段に足を掛けたその時だった。

 ガンガンガンガンッ――

「な、なに――っ」

 恥ずかしいほど両肩が跳ね上がる。

 劈くような金属音。

 恐る恐る振り返ると、夜の闇に紛れて、頼りない街灯に照らされた二つの丸がこっちを向いて光っていた。

 ――猫!

 白と黒の大きなぶち猫が庭の鉄柵の扉に飛び乗ってこちらを見ている。

「な、なんなんだ。……脅かさないでくれ」

 バクバク鳴る胸を抑えながら、上擦った声でぼやく。

ぼやきながら項垂れて、脳裏に舞い戻ってきたものに、舌を打った。

あろうことか、思い出してしまった、このタイミングで。織部に見せられた少年たちの顔を。どこか人形のような、綺麗な顔立ちの。

 本当に縁側を通って、彼らはあの鉄柵の扉から裏道に抜けたのだろうか。

 項垂れた頭をもたげて、ハッとする。

縁側の窓を、開けっ放しにしたままだったことに今更になって気がついた。

今日もまた。うっかり過ぎるだろう。これだから――と、頭を振る。

とにかく、早く閉めなければ冷房が無駄になる。

 じっとりと汗ばんだ手で急いで窓を閉めた。鍵を閉めた指先が心なしか震えているように思える。

 何を怖がっているのか。

 得も言えぬ悪寒が背筋を走る。

 今さっきまで、鉄柵上にいた猫はどこへ行ってしまったのか。

 いつも以上に部屋の中が静かに感じて、思わず唾を飲み込んだ。

 窓にしがみついて鍵をつまんだ状態で、中二階へと続く梯子を見上げる。

 天井にぽっかりと真っ黒く開いた四角い穴の奥は、飲み込まれそうなほどに暗い。

 にょろり、と、今にも生白い腕が闇から伸びて降りてきそうだ。

 あの穴の奥を見たのはいつだっただろうか。

 彼らが行方をくらました後、いや以前。

「まさかね……」

 そう呟いて、中二階へと抜ける四角い穴が急に恐ろしくなって目をぎゅっと閉じて顔を背けた。

 まさか――そんなわけない。

 もしも、彼らがあの鉄柵の扉から外に出て行っていなかったとしたら?

万が一にもこの家の中にまだいるとしたら?   

それはもしかして中二階ではなかろうか。

「……そんなわけないだろう」

 否定してみるものの、窓にしがみついたまま、顔を中二階に向けられず由汰は立ち尽くしてしまった。

 いないと頭では分かっていても、体が怖気づいて動けない。

 大丈夫だからと自分に言い聞かせる。

 あの織部がそう判断したのだ――かもしれない程度ではあったが――彼は鼻もちならない男だけど、きっと誰よりも鼻は効くような気がした。

 彼が少年たちは裏庭から出て行った――かも――と言うならそうなのだ。

 だから大丈夫。彼らはこの家のどこにもいない。

 そうだ、替えの電球は明日朝起きたら探しに行けばいい。

 カチカチするのは煩わしいが、今晩くらいはその調子で点いていてくれるだろう。

 そう思ったら少し気分が落ち着いてきた。

 空腹だから変なことを考えてしまうのだ。

「今日は魚でも焼こう」

 中二階に意識が行かないように、わざと口に出して言ってみる。

 少しだけ、後でインスリン注射の追加打ちをすればいい。

 お握りに味噌汁に焼き魚。

 それを食べたら今日はもう寝てしまおう。

 そう決めて、由汰は足早に縁側を離れると台所へ戻った。



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