第17話 広い海を見た赤ちゃん

常軌を逸している――そんな形容をされる人、しかも少年に会ったことなんて一度もない。コナンくんは大好きで、映画も毎年観に行っているし、たった今もお財布の中に前売り券を買って持っているけれど……「リアルコナンくん」は怖すぎる。マドリの不安ゲージは一気にマックスまで高まる。


マドリは頭の中で、ロイくんがかわいらしいボイスで、コナン風に鋭い発言をするシーンを脳内で思い描いた。


「ねぇねぇ、マドリお姉ちゃん。お姉ちゃんはなんでボクのところに来たの?」


その一方で冬本さんは、舞鳳がそんな妄想をしているとはつゆ知らず、現実的な方法を提案してくれていた。


「そういう相手を取材するとき、自分と比較したら最後、自分はなんてダメなんだ、なんてノーマルなんだって落胆することになります。あるいはこの子は別世界の人だからと断絶してそこで終わりになってしまいます」


舞鳳は納得する。自分は「あの人とは住む世界がちがう」「あの人は自分とはちがって才能があるから」という感じで、他者と自分を分断してしまいがちな人間だ。人と比べて、羨望を感じたり、嫉妬したりということも、顔や行動には表さないけれど、頻繁に行う人間だと、舞鳳ははっきり自己認識している。


「スーパーな人間を取材するときのコツは、テクニカルなアプローチに徹することです」

「テクニカルなアプローチ?」


冬本さんのセリフにはカタカナ英語が多い。こういうのを嫌う人もいるのかもしれないけれど、マドリにとっては新鮮で面白い。


「さっき、マドリさんは耳を引っ張りましたよね。これがボクが仕事として提案した、問題を解決するためのテクニカルアプローチです。これでクライアントがリラックスできなかったら、教えたボクの人格が否定されるわけですか? ボクは自信をなくして泣き出せばいいですか? 違いますね。別の方法を探すなり、同じ方法でもタイミングとか部位とか、力加減を微調整したり、他の方法とミックスしたりして探究すれば、ではこれはどうでしょう? と、もう一度その人にアプローチし、別の提案ができる。自分が一度通用しなかった相手から、逃げたり関係性を切ったりするのではなく、また会いたくなる」

「はい、たぶん、わかります!」

「マドリさんがもし、養子という概念に動揺したとするなら、その動揺の原因を自分の人格みたいなものに求めるのではなく、何て言えばいいんだろう、養子というシステムとか、親子関係に関連する法律の方をターゲットにしていくべきです」


養子というシステム、親子関係に関連する法律――


「えっと……冬本さん」


ダメダメな自分をさらしたんだから……正直に言っちゃえ!


「わたし、正直、面倒くさいです。面倒と言うか、向いていないように感じます。養子のこと調べたり、法律を学んだりって」


記者なのに、面倒くさいとか!

それこそ完全にNGだと思うんだけれど――

ここで冬本さんが下したジャッジはNGではなくOKだった。


「はい。それでいいと思います。でもマドリさん、その「向いていない」という自己認識を、「面倒」という括りに入れると自己否定につながってしまいます。相手が困っているのに、自分は「面倒」って思っている。ダメだなぁ、自分っていう構造に収斂されてしまします。そっちに向かわずに……えっと、たとえばマドリさん、泳げます?」

「あ、泳げません!」


自信を持って答えられます。

もう一度、強調しておきたいくらい。

泳げません。水着も嫌いです!


「泳げないマドリさんが、おぼれている人を見たとき、水の中に飛び込みますか? 飛び込まないですよね? 浮き輪みたいなものを探すか、泳げる人を呼びますよね。そういうことです。この世の中は広いです。法律の専門家もいます。普通の人が面倒くさいと思う手続きを丁寧に進めていくのが大好き! という人もいます。複雑なことやこじれていることに突っ込んでいく、勇敢なマニアたちもいます。自分にそういう要素というか側面がないと、他の人もそうなのかと早とちりしてしまいがちですが、この世には多種多様な人がいて、そういうぴったりな人を、「自分にとって向いていない現場」へ連れてくれば、スピーディに解決します」

「わかった! それが上手なのが――」



ま る お さ ん !



「はい。それは丸尾さんの超得意分野、マッチングビジネスです。では、もう一つ、さっきの設定に、条件を追加します。「だれか! ここにおぼれている人がいます!」というマドリさんの放ったヘルプの声が、泳げる人の耳に届く前に、おぼれている人が死んでしまった場合、マドリさんはどう感じると思いますか」

「もう一度お願いします」

「叫んだ声が誰かに届く前に、目の前の人がおぼれ死んだら、自分はどう感じると思いますか?」

「えええ! それはえっと……」


舞鳳はしばらく考える。

具体的にどう思うかはそのおぼれている相手と、おぼれることになった原因によると思うけど、そういうのを抜きに、抽象的に考えるなら――


「なんでわたし、この人を救えなかったんだろうって、自分の無力さを嘆くと思います」

「仕事で次々と人に会うと、そういう切実さを感じる相手がどんどん増えてしまいます。助けたい人、手を伸ばしたい人、光を当てたい人、協力したい人、逆に、会いたくない人、関わらないで欲しい人、手を切りたい人、闇に葬りたい人も増える」

「闇に葬りたい人!」

「ボクはこう考えます。ストイック過ぎるみたいに評価されるかもしれませんが……救えない段階になってから無力さに襲われたくない。それなら、大変でもいいから日々準備をしておきたい」

「準備」

「はい。それも自分にとっての万全の準備です。さっきの例でいえば、声を広く、遠くへ届かす訓練をしておく。すぐに泳げる人を呼べるシステムを作っておく。危険に対する予測能力を高めておく。周りにある道具を利用するサバイバル能力を高めておく。もちろん泳げるようになっておけば早いですけど、でもおぼれる人を助けるために、水泳をやっている人なんて、レスキュー隊の人以外はいないと思います。そうじゃなくて、今やっている自分の仕事をベースにして、そのスキルをいつでもどこでも発動できるように高めて、さらにそのスキルが、広く応用が利くようにしておけば、緊急事態における汎用性が高いということです」

「つまり……」


舞鳳は自分なりの解釈を、シンプルな言葉に託した。


「自分の仕事をがんばって「頼れる人になっておこう」って解釈でいいですか」

「ええと、どうなのかな。頼れるというと、他の人ありきというか、ボクの感覚としてはそうではなくて……うーん、そうではなくもないか。すみません、宿題として整理しておきますね」



宿 題 と し て


整 理 し て お く



舞鳳は冬本さんの姿勢に、ささやかに感動した。自分の言葉をとことん丁寧に、真剣に受け止めてくれる。しっかりと検証し、修正し、より良いものとして返してくれようとしてくれる人がこの世にいる。


うん。


冬本さんの素敵なところは、相手の言葉というか……情報をすごく大切にしてくれる点なのかもしれない。舞鳳はここで黙り込まず、ストレートにそれを言葉にしてみた。


「冬本さんて、相手の情報をめちゃめちゃ大事にするんですね」

「ん?! それって……」


冬本さんは、初めて広い海を見た赤ちゃんのように、すごく不思議そうな、曇りのない目で、舞鳳の顔を見つめた。


「それこそめちゃめちゃ普通のことじゃないですか?」

「あは! 普通じゃないですよ!」


冬本さんも、自覚はないけれど間違いなく「すごい人」だ。ただ、今日の舞鳳は、それに羨望も嫉妬もしない。潔く、深く、気持ちよく――ただありがとうと感謝するだけだった。

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