第10話 丸尾さんは有名人でした
「マドリちゃんさっき、本屋さん辞めちゃったって言ってたでしょ」
ジャンボくんのママであるアッキィさんは、七海さんと同じく、出会ったばかりなのに、マドリちゃんと下の名前でちゃんづけ。これはSNSで慣れている状況だけど、文字ではなくこうして耳に響く言葉として届くと新鮮だ。こちらのテーブルでは「食べる」より「しゃべる」に重点が置かれている。LINEのID交換も有無も言わさず、当然のごとく実行された。
「いつのこと?」と七海さん。
「3月いっぱいで退職しました」
「うわ、ついこの前じゃん! やっぱ、本屋ってたいへんなの?」とアッキィさん。
「ええと、人によると思います。仕事がちょっとやり切れないくらい多くて」
「いろいろなことをやらされるってこと?」
「種類もそうですが、量も多くて。それであまりにできない自分がちょっと無理になったっていうか――」
それって本当かな?! 自分が自分に問いかけてくる。
ウソではない。でも本当は「出来ない自分を人に責められたこと」の方が大きな理由。ただ、それは言わないで引っ込めておいた。
「うちの一番上、本屋のバイトが楽勝で決まったって言ってたから、大丈夫かな」
「ジャンボくんより大きいお兄ちゃんがいるの?」と七海さん。
「うん。スーパージャンボくんが」とアッキィさん。
アッキィさんや七海さんの詮索好き感だったら、お互いの家族関係については完全に把握してそうだから、類推するに、この二人は昔からのママ友というわけではなさそうだ。その予測は当たっていてアッキィさんは引っ越してきたばかり。同じクラスになったデイビッドくんに誘われて、ジャンボくんは、小学校のサッカークラブに入ったそうだ。
「正社員じゃなければ、大丈夫だと思います。書店で働くことを楽しめるタイプのアルバイトの子たちもいましたし」
自分の職場を薦められるかどうかは迷う。何人か……うーん、フラットな言葉で表現するなら「癖のある人」がいた。でもその人たちが基本的に隠している「嫌な顔」を誰にでも向けるかというとそれはちがう。95パーセントくらいは「いい人たち」なのかもしれない。あの人のどこが悪いの?!と驚く人もいるだろう。でも自分にとっては、あの人とあの人とあの人の「5パーセントの部分」がムリだった。社会人の悩みは、仕事自体の悩みではなく人間関係の悩みと聞いたことがある。
「アッキィはこっちでやる仕事、見つかったの?」
七海さんはアイスコーヒーをストローでカラカラとかき混ぜながら訊ねた。
「うん。学習センターのカフェ。あれ言わなかった?」
「あそこ?! おお、ヒマそうだし良かったじゃない!」
「すっごいヒマだよ。シェフの山本さんって人が面白くて今のところいい感じ」
「山本さんって、ヒゲのあのコック帽かぶってる人?」
七海さんは人の顔を覚えるのが得意なのだろう。舞鳳はちょっと慌てて、七海さんの顔の特徴をインプットする。動物でいったらリス。クリっとした可愛い目。髪型は変わってしまうけれど、綺麗なブラウン。あごのほくろと、笑うときに口に手をやる仕草も一応、覚えておこう。
初日からこの調子だから、十か月後には知り合いの数が半端ないことになっていそうだ。次に七海さんと会ったときに「どちらさまですか」とならないように、しっかり顔をインプットしておかないと……
「やっぱりママさんたちって、ほとんどの人が働いているんですか?」
「あはは! 当たり前じゃない」
当たり前……そっか。やっぱり当たり前なんだ。
「マドリちゃんは、記者をやっているんだっけ?」
「はい」
あら?
舞鳳は今度はなぜだか素直に、自信を持って返事をすることができた。
「記者って雑誌? 新聞?」とアッキィさん。
「ちがうよね、最近は記者っていったらWEBライターでしょ」と七海さん。
もしかしたら、情報通の七海さんなら知っていたりして。
舞鳳は雇い主である丸尾編集長の名前を出してみた。
「丸尾さん! ええ、マドリちゃん、丸尾さんと仕事してるの?!」
「え、だれだれ、その丸尾さんって」
「すごい、有名だよ、丸尾さん」
「え? 有名なんですか?」
「このヘンのママで、丸尾さんのこと知らない人、いないんじゃない?」
「そんな?!」
「ごめん、ちょっと盛りすぎたかも。でもすごい。丸尾さんに……え?! マドリちゃん、丸尾さんとどうやってつながれたの?」
驚いたのはこっちだ。
ずっと前からやっているSNSの一つで知り合っただけ。仕事を辞めたって愚痴みたいなのをこぼしたらスカウトされた。そして媒体は何かわからないけれど、取材をして来てと言われた。70万円の月給については、町中にウワサが広まってしまいそうなので、ここは伏せてこう。
「丸尾さんっていうのはね、なんていうだっけ、マッチングなんちゃらをやってる人で……マドリちゃん、代わりに教えてあげて」
「え?! わたし?! わたしもよく知らないです。まだお会いしたことないですし、丸尾さんに」
「会ったことないのに、働いているの?!」
アッキィさんも七海さんも驚いた。
「わたしもびっくりなんですけど、そうなんです」
「仕事って、サッカーの取材だっけ?」
「取材対象は何でもいいって言われているんですけど、最初はデイビッドくんのことを書こうと思います」
「え? あの子?!」
「七海さんが言ったんですよ、ウチの子取材したらって」
「あ、そっか! ホンキにしたのね」
「ホンキっていえば、デイビッドくんのホンキってすごいですね」
舞鳳は反対のテーブルで、ご飯なんてそっちのけで、タブレットを見ながらワイワイやっている男子チームに目をやる。
スタイリストか美容師かと思った冬本さんの職業は「アスリート・アナライザー」だった。運動選手の動きを解析して、アドバイスを与え、パフォーマンスを向上させる仕事だ。そして――七海さんは驚くべきことをさらりと言った。
「それこそ、冬本さんを紹介してくれたのが、丸尾さんだから」
こ こ で
ま る お さ ん !
「紹介?」アッキィさんはさっぱりわからないという表情。
「ほら、マッチングなんちゃらって仕事。ねぇ」舞鳳に話を振る七海さん。
「マッチング・ビジネスですか?」
「そう、それ!」
「何それ、ビジネスなの?」
「はい。なんていえばいいんでしょう、適材適所というか、世の中にあるいろんな需要にたいして、ぴったりのスキルを持つ人を供給する仕事です」
「へぇ、すごい仕事があるね」
「あるっていうか、丸尾さん、ない仕事を作ったんです。そしたらすごくうまくいっているみたいで」
「たしかに。うちのダディが丸尾さんに相談したら、すぐに冬本さんを紹介してくれて。輝人、冬本さんにもうぞっこんだもん」
「ダディって?」アッキィさんと舞鳳が同時に訊ねる。
「うちのダンナ。ダディって呼んでるんだけど」
「もしかして、冬本さん、あれを仕事でやっているんですか?」
舞鳳の発言に、七海さんは驚いたような顔をした。
「遊びで子どもにあんな熱心に教えないでしょう。いい大人が土曜日に」
はたから観ると、タブレットでゲームをして遊んでいるようなパパとその息子と友だちのようにも見えるけれど、デイビッドくんの表情はもちろんプロのそれだ。
「あれって、いくら?」
「1時間1万円だったかな」
い ち ま ん え ん !
「た、高くない? わたしの時給の10倍以上だよ」とアッキィさん。
「でも、そのくらいはするでしょ。冬本さんの専門技術からするとめちゃくちゃ安いくらいだと思うけど」
「うわ、その感覚、セレブすぎるって」
アッキィさんは呆れて笑った。
でも舞鳳はなぜか高いと思えなかった。
たぶん、冬本さんの表情があまりに真剣だったのと――自分がすでに70万円をもらっているからだ。もし、その道のトップのひとに1時間、個人的にレッスンを受けたら、出せるかどうかは別として、1万円は安いような気がする。
知りたい。
知らない世界をいろいろ知りたい!
「ごめんなさい。わたしちょっと、向こうのテーブル見てきますね」
舞鳳はそう言い残して、アスリート・アナライザーの取材を開始した。
ひとまず自分の立場と、丸尾編集長の名前は伏せておこう。
「ここ、すわっていいですか?」
「あ、どうぞ」
冬本さんはさわやかスマイル。
「あ、すみません。こちら、ちょっと動かしますね」
舞鳳はそう言うと、さりげなくこっそり手にしていた「お通しの豆の袋」を冬本さんのジャケットのポケットに滑り込ませた。
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