第8話 た ま し い

「あの、マドリさん、一つお願いしていいですか?」


一つお願いしていいかな――この前置きがくっついてるお願いって、書店員時代から「いいお願い」だった試しがない。


よく「思い出になると、すべて美しい」みたいなことが言われているけど(言われてない?)そんなはずない。美しいことばかりじゃないよね。


悪夢みたいな日もかなり思い出す。有楽町の本社で開かれる大事な会議に出席してくれだとか(結局は忘年会だった)、キャンペーンの告知のために、駅前でビラを配ってきてくれだとか(しかも平日の朝のラッシュアワー時に! そんなの誰がもらうの)。そしてたいていの場合、「マドリちゃん、かわいいから」とか、気持ち悪いセリフがセットになっていた。


そんなわけで、小学校6年生男子の、内容が見えないリクエストにも、舞鳳は思わず身を固くした。


「え?! どうしよう……断ってもいいなら、聞くけど」

「じゃあ、お願いしていいですか?」


なんだか、恐い。でも――


「あ、うん。いいよ」

「あの……いくらかわからないけれど、さっきの……オレのインタビュー代いらないです。その代わりマドリさんのiPhoneで、あの子の動画撮っておいてくれませんか? この試合、あと10分くらいあるんで」




オ レ の 


イ ン タ ビ ュ ー 代 



マドリは思わず、デイビッドくんの端正な、ある種、美術作品のような顔を見つめる。


「ん? ダメですか?」

「いや、ダメじゃなくて――」


やっぱり――子どもだからといって、デイビッドくんの姿勢を軽く見ていた。自称とは言え、「本気のプロ選手」にインタビューしたんだもんね。

タダで済ませていいはずがない。


プロの見解を聞いて、自分はそれをネタにして記事を書こうなんて、図々し過ぎる。記者になってこれが初めての仕事だけど、舞鳳は初めてのインタビュー相手がデイビッドくんで良かったと心底思った。


「わたし、サッカーの動画なんて撮ったことないけど、それでもいい?」


デイビッドくんは小高い土手の方を指さした。


「できれば最初の5分は引きで撮っておいてください。あの辺の高いところから。そのあとは、このあたりで、思いっきり寄りでお願いします。あとで冬本さんと解析するんで。オレはあっちの、もっと近くで観ます。じゃあ試合終ったら、またここで!」



か い せ き 



難しい言葉がキライな丸尾編集長へ。

これはしょうがないです。デイビッドくんが使った言葉なんですから。


解析って……いったい何を解析するんだろう。ていうか、スポーツのこと、ちゃんとわかっていない自分が言うのもなんだけど……たぶん、デイビッドくんはチームでもあまり上手い方じゃないよね。それなのに、解析とか――


自分ならできるかな?

実力もないくせに、バカじぇねぇのとか言われるのを恐れちゃうんじゃない?

なに本さんだっけ?

デイビッドくんには解析を手伝ってくれるスペシャルな人がいるの?!


走り出しかけたデイビッドくんを、舞鳳は呼び止めた。



「待って! 撮影はわかった。でも……先に謝っておくね。かんだらごめん」

「かんだら?」

「悪いけどカツゼツには自信ないから、わたし」

「え?」

「うわー、ちょっと緊張するな。心臓バクバク。わたし初だよ、実況するの」

「ン?! オレ――実況なんて頼んでないですよ!」


***


デイビッドくんと離れてひとり、「トリックスターズ」の7番、「朝練くん」(名前はまだわからない)のプレーをiPhoneのカメラに収める。そして気づいたのだが、マドリは子どもの見分けをつけるのが苦手かもしれない……ユニフォームは同じだし、似たような背格好の子が多くて、すぐにどの子かわからなくなっちゃうから、ちゃんと「朝練くん」を追えてるか自信がないよ……。


記者のはずがカメラマンになっている。あ、カメラマンじゃないか、ビデオマン?あ、マンでもないか、ビデオウーマン。言葉にするとめちゃくちゃ怪しい職業です。それに比べれば、記者って、そんなに悪い響きじゃない。



記者、か――



マドリは「記者」という仕事の面白さがわかった気がした。


今日、この場に来るまで、デイビッドくんみたいな小学生がこの世にいるなんて、想像もしていなかった。デイビッドくんのお母さんが、書店時代の自分のことを覚えていてくれたことも、本当に意外な発見で、こんな機会がなかったら知る由もなかった。そうした自分の驚きや発見や感動を、この世界にいる、自分以外の誰かに伝えることができる。もしかしたら、その情報をものすごく欲している人がいるかもしれない。


自分の内に留めていたら誰にも知られなかった、弱々しい情報。

自分が書き残さなかったら、この世から消えてしまう名もなき人の発言。

それぞれの人生の、その局面における一生懸命な生き様。


読者の顔ははっきりとは見えない。

こんな私の文章を、誰が楽しんでくれるのかわからない。

書き方の作法も知らないし、文章のテンプレートも無視している。


それはSNSと同じだ。まったく同じ。

でも、それでいいと丸尾編集長は言ってくれている。

それだからいいとさえ言ってくれた。


マドリはネット上で、いろいろな人を深く調べるのが大好きだった。


あ、さりげなく過去形にしたけど、今も好き。


知りたいと思ったら、その人のことをとことんチェックする。写真に映っている物からセンスを割り出し、文章中の表現の癖から性格を読み取り、他の人が知ったら呆れるくらい、さまざまな推測をする。


これはヘンタイと思われるかもしれないから、この瞬間もちょっと書くのをためらっているけれど……舞鳳はじつは、手帳にSNS上のいろいろな人の予定を書き込んでいる。手帳をすぐ脇に置きながら、SNSを閲覧しているのだ。


誕生日はもちろん、たとえば、Aさんが今度浅草に行く、と書いたらその予定を書き込む。Bさんの海外出張の予定だとか、Cさんの子どもの運動会の予定だとか、ムダにイベントスケジュールやら個人的な目標やら欲しいもの、行きたい場所などを書き込んでいる。この行為については、1年や2年のキャリアじゃない。


でも、どういうわけか、自分でも本当に不思議なんだけど、そのキャリアから得たスキルを現実の仕事に活かそうと思ったことは一度もなかった。仮説だけど、舞鳳は「ネットの社会と現実社会を完全に分断していた」のだ。



「修復」という言葉が急に浮かんだ。



日本に来たばかりのとき、ネットにどっぷり浸かり始めたあの日から分断は始まったんだ。子どものときは現実しかなかったから、分断も何もないけど、ネット上の世界が拡がってきて、現実の価値が大きく後退した。


どっちも同じ、この世界にあるのに。


そして――同じ現実でも、どうしてラッシュアワーのビラ配りはものすごく嫌で、初めてのビデオウーマンは楽しいんだろう。



舞鳳がとりとめのない思考をしている間も、朝練くんは笑顔だった。


でも、デイビッドくんによると、普段の彼は自分を追い込み、必死にトレーニングしているらしい。


現実も一つじゃない。見えている顔がすべてじゃない。


その複雑さは苦しいけれど、自分もどこかで誰かにしっかり支えられていると信じられれば、もしかしたら、ひょっとして安心できるかも。


少年サッカーを見ながら、考える内容ではない。


そして……すっかり忘れてたよ。

最後の5分は寄りで撮るっていうことを。


合流後、すぐに素直にミスを謝ると、デイビッドくんは「ありがとうございます! オレ、近くで目に焼き付けたから大丈夫です!」と言ってくれた。


「マドリさん、一つお願いしていいですか?」


舞鳳は姿勢を正し、デイビッドくんの目を見つめる。


「もちろん、いいよ」


どんな展開が待っているんだろう。

でも、きっと大丈夫。


この世界が怖いのはわたしだけじゃない。


デイビッドくんも、朝練くんも自分の世界でその怖さとつき合って生きているんだ、きっと。小さいながらも――あ! また小さいとか思ってる。ダメだな。年齢とか性別とか、顔とか髪とか色とか関係ない。なんていうんだろう――



た ま し い



そう、魂。スピリッツを見なくちゃ。


「マドリさん? 大丈夫?」

「あ、ごめん」


舞鳳はデイビッドくんの魂を見つめる。そんなの見えないけど、見つめようとトライしてみる。


「なんだかそんな目で見られると、ちょっと……恥ずかしいな」

「え? ヘンな目してる?」


いえ、ヘンじゃないです。すごくすてきな目です――ぜんぜん気持ち悪くない口調で、デイビッドくんは誘ってくれた。


「もしよければ、この後、いっしょにお昼たべませんか?」 

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