11. 記憶保護
住宅街のど真ん中に、こんこんと湧き出る大きな池があった。富士山からの湧き水が溜まっているのだろうか、澄んでいて底の水草まではっきりと見える。
私は駅近くにある公園で、桟橋にしゃがんで座っていた。隣では同じように座った生駒が、自分の朝食だったはずのパンを鯉にあげている。
エサが水面に浮かぶと、まるく口を開けた鯉の大群が、飛沫を散らして物凄い勢いで押し寄せる。その度に、隣で見ていた子供達がはしゃいだ。
「こいつら、口が気持ち悪いな」
黒く大きな鯉がパンを奪い去ると、池は再び静かになった。生駒が悪態をついて立ち上がった。
「どうぞ。あたし達はもう十分あげたから」
彼女は腰を屈めると、一番背の高い子供にパンの入った袋を渡した。にぎやかな声を背中に浴びながら、私達は池を離れた。
一人分の隙間を開けて、私達はベンチに座った。
「あたしを呼び出すなんて、珍しいね」
生駒の言うとおり、今日はいつもと逆に、電話で呼び出したのは私である。一昨日かかってきた脅迫電話のことを話している間、彼女は池を見つめたまま、顔色一つ変えずに聞いていた。
「石島さんに話そうか悩んだんですけど、なんか大きな事件にされそうな気がして」
「正解。その場で通信事業者に電話するだろうね。その点あたしは、適当にやるから安心してよ」
「それは安心していいんですか」
私は苦笑いして彼女の顔を見た。生駒は返事をせずに、しばらく考え込んでいた。
「録音は――してないよね。男なのか女なのかも分からなかったの?」
「すみません。ボイスチェンジャーを使っていたみたいで、機械的な声だったので」
「ナカさんのスマホの番号を知ってる事件の関係者は、どれくらいいる?」
「石島さんと違って、名刺を配ってませんからね。四人くらいじゃないですか」
答えた後で頭の中で数え直してみたが、やはり石島、生駒、岡部、藤岡の四人しかいなかった。
「ナカさんの電話番号を教えていないか、会社の人にも聞いておいた方がいいかもね」
「分かりました。今日は会社が休みなので、明日聞いてみます」
私には心当たりのある上司がいた。業者から私に直接連絡したいと言われた場合に、マナー的には当人から折り返させるというのが正しいが、彼は業者に私の電話番号を教えてしまうのだ。
「うん。それから、覚えている内容だけでいいから、どんな言い回しをしていたか教えて」
「そう言われましても、本当に一言だけだったんです。首を突っ込むな、痛い思いをするぞと」
「たくさん喋ってくれていれば、性別と年代くらいは推定できたんだけどなぁ。ひょっとすると、こっちの手の内を知っているのかもね」
もう少し電話を引き延ばすことができていれば、彼女が判断する材料になったのかもしれないと残念に思った。
「仕方がない、ビジネスホテルの前を警官に見張らせるね」
「そこまで大げさにしなくてもいいですけど」
静岡に来てからの私の行動は、ホテルの中にいるか、警官と一緒に行動しているかどちらかなので、機械的な声が言っていた『痛い思い』をされるような場所はない。それに、忙しい警官を私のために割り振ってもらうのは申し訳なく感じた。
突然、おでこに衝撃を受けて、思わず目を瞑った。
「参考人様は気にしなくていいの。テレビに顔が出てるんだから、今まで以上に周りに気をつけないと。昨日の横田だって、ナカさんの顔を覚えていたでしょ」
生駒がデコピンを放った中指の先をこちらに向けていた。
「分かりました、お願いします」
私はおでこをさすりながら礼を言った。
微かに聞こえる生活音に耳を澄ませながら、すっかり暗くなった住宅街を歩く。飲食店の看板の光や、たまに立っている街灯のお陰で、スマホのライトを点けなくても辛うじて足元は見えた。
私は駅前のコンビニで夕飯を購入し、ビジネスホテルに戻るところだった。駅前の大きな通りを外れると、車はほとんど通らず、人の姿も無かった。
足を止め、袋の中で傾いていた弁当を直した。ペットボトルが袋の下で転がり、バランスを悪くしていたようなので、弁当の上に乗せてみた。
視界がチカチカした。見上げると、電球が切れかかっているようで、街灯が点滅していた。
正面に二つの光が浮かんだ。エンジン音を鳴らして車が走ってくる。狭い道だというのに、結構なスピードを出しているようだ。私は体を横にして壁際に寄った。
私に気づいていないようで、さらに速度が増す。恐怖を感じ、力の限り壁に張り付いた。黒色の軽自動車はブレーキを踏むことなく通り過ぎた。
「なんだ、あいつ。危ないな……」
見えなくなったテールランプを睨み、独り言で糾弾する。乗っていたのは若い男女のようだった。
手にぶら下げていた袋が無くなっていることに気付いた。落としていた夕飯の幕の内弁当は、傾きを直したかいもなく、もはやビビンバと化していた。
ビジネスホテルに戻り、フロントで鍵を受け取る。部屋は事件当時からずっと変わらず、三〇三号室だ。
非常階段を上りきり、扉の横に取り付けられた部屋番号のプレートを横目に見ながら、三階の廊下を進む。三〇六、三〇五、三〇四。次の部屋だ。正面を向いた先に、人が立っていた。
黒いパーカーを身につけ、深くフードを被っている。周りに気をつけろという、生駒の言葉が脳裏に浮かび警戒したが、フードの中に覗いたのは見知った顔だったので安心した。
「どうしてここに――」
その人は無言で紙を差し出してきた。受け取ったのは、切り抜かれた新聞の記事だった。見出しと写真、短い本文から構成された、小さなニュースのようだった。
『見てはいけない』
その行為を止めろと、私が必死に叫んでいる。再び頭痛が始まる。
『見たら戻れない』
無意識の内に手が震えている。
『全てを失う』
自分に抗うという罪悪感に身を焼かれながら、見出しに焦点を合わせる。
荷物用エレベータに挟まれた二十三歳女性死亡
記事には、事故の状況を説明するための、エレベーターと人間の位置関係を示す図が添えられていた。赤色の人間はドア付近におり、ぎざぎざのマークが重なっている。私の目が吸い寄せられたのは、エレベーターの奥に描かれた黒色の人間だった。
せき止められていた情報が、ダムの放水のように、どっと頭に流れ込む。処理能力を超えて視界に光の粒が瞬く。
思い出したのは、薄暗いエレベーターの中で向かい合って立つ女の顔だった。曖昧だった髪型、目、口、鼻の輪郭がはっきりしていく。女は私を見て微笑んだ。心の奥に、かつて感じていた幸せの形が浮かんだ。
視界が暗転する。顔を拭ったときのぬめりとした感触。かごの中に飛び散る血と横たわる下半身。ゆっくりと地面にこぼれ落ちる腸。
頭の中で何かがぶつぶつと音を立てて千切れ、視界が狭まり意識が薄れていく。このままでは私は壊れる。再び私は……。
駐車場から続く、同じ制服を着た社員達の列に並んで会社へと向かう。岐路で開発棟や事務棟、工場に分かれ、徐々に同じ方向に進む人の数が減っていく。私が向かうのは一番奥にあるロボットの開発棟だ。タイムカードを切って建物の中に入る。
「戻って来れたのか。事件は解決したんだな」
肩を叩かれて振り返ると、別の部署の同期が軽く手を上げていた。
私には彼の言っていることが理解できなかった。戻ってきたとは、どういう意味なのだろう。事件とは、何かあったのだろうか。
「事件って何だっけ」
「それは機密だったかな、ごめんごめん」
答えを聞く時間はなく、階が違うので階段で別れた。不思議に思いながら私は自席に向かった。
周りの課員に挨拶をして、席に着く。パソコンに向かっていた上司が顔を上げ、驚いた表情を見せた。
「中川。静岡にいるはずじゃ」
「静岡ですか。昨日帰って来ましたけど、何かありましたっけ」
「何って、三島重工や駿河電工の件を調査してるって聞いていたけど」
「すみません、話が見えないです」
同期といい、上司といい、自分の知らないことをさも当然のように話されると、苛立たしさが湧いてくる。若干語気を強めた。
「そうか、こちらこそ悪かったな。確認してみるよ」
パソコンを立ち上げて仕事を始める。なぜかメールが山のように溜まっていて、うんざりした。
午後、上司に付き添われて事務棟に行くことになった。理由を聞いたが、ごにょごにょと口ごもっていて分からなかった。連れて行かれた先は、最上階にある社長室だった。
上司がノックをして扉を開ける。私も彼に続いて初めて部屋の中に入った。
パソコン机に向かっていた社長が立ち上がった。呼び出された理由に見当がつかず、戸惑いながら指示されるままソファーに座る。社長は対面の席に座り、頭を下げた。
「中川君。君にはすまないことをしたと思っている」
上司の顔を見るが、気まずそうに視線を逸らされた。
「大丈夫なんでしょうか」
上司が社長に尋ねた。主語が無いので、何のことを聞いているか私には分からなかった。
「あぁ、刑事さんと話はつけてある」
社長が指を組んで、私の方に体を乗り出した。
「しばらく仕事は休んでくれて構わない。もちろん調査の方もね。君を訪ねてきた精神科医がいるから、見てもらうといい」
精神科医に見てもらえなんて言われても、自分の精神状態が悪いと言われているようでいい気持ちはしない。しかし、私自身今朝からざわざわしていて、相談したい気持ちもあった。
「分かりました」
頷いて、大人しく従うことにした。
上司と別れて会社内にある診療所へと向かった。幸い体は健康なので、身体検査のときくらいしか来たことが無い。
スリッパに履き替えて待合室に向かうが、誰もいなかった。身体検査の時期でもないし、仕事がある昼間には、そう滅多に患者は来ないのだろう。
受付に名前を伝えると、すんなり診察室へと通された。ドアを開けると、アルコールの匂いがふわっと流れ出た。日が差し込む窓が正面にあり、ブラインドがついているとはいえ眩しい。
壁際には簡素な診察台が置かれていた。向かい合いに置かれたごちゃごちゃと紙が貼られた机には、先生が座っていた。
「こんにちは」
先生はカルテを見るのを止めて、こちらを振り向いた。ショートカットで、目鼻立ちのしっかりした女性だった。しっかり診断してもらえるか不安になるくらいに若いようだ。
「そこに座ってください」
私は指差された円椅子に座った。腰掛けて分かったが、先生はかなり座高が短く、背が低いようだった。
「中川さんですね」
そうですと言って頷く。
「今日はどうされたんですか」
「頭がざわざわしているといいますか、ぼんやりするといいますか、調子が悪いんです」
机の上のカルテをこっそりと覗き見ると、顔に似合わない汚い字が書き込まれていた。
「なるほど。昨日のことは覚えていますか」
「出張していた静岡から帰ってきました」
「覚えているんですね。いつ、どうやって帰りましたか」
「電車です。夜の七時頃こっちに着いたと思います」
駅からはタクシーを使って帰ってきた記憶がある。日曜日の夜なので、いつもは多い観光客はおらず駅はがらがらだった。タクシーの待ち場にも飲み会帰りだと思われる、数人の若者しかいなかった。
「なぜ、帰ろうと思ったんですか」
「理由なんて無いですよ。サラリーマンは、月曜日には仕事に行かないと」
先生は納得したようで、なるほどと言ってぽんと手を打った。
「ですが中川さんの荷物は、静岡のホテルに置きっぱなしになっていました。ホテルに泊まっていたことは覚えていますか」
精神科医がどうして、そんなことを知っているのだろう。疑問に思ったことはすぐに忘れた。霧が立ち込めたように、記憶があいまいになっているので、少しずつ手繰り寄せていく。
「ホテル。あぁ、そうですね、確かにホテルに泊まっていました」
ビジネスホテルの外観を思い出した。三島駅のすぐ近くだ。部屋番号は確か、三〇三号室だった。どうしてそんなことを忘れていたのだろう。
「どうして荷物を持たずに帰ろうと思ったんですか」
あの夜、私はパーカーを着た人間から何かを渡された。
「何か、何かを見たんです」
自ずと記憶が戻り始める。脳内の映像に色が戻る。徐々に速さを増し、自分で調節できない。
「そう、新聞の記事でした」
恐怖を感じるほどの、急激な速さで。これは記憶が戻ることに対する恐怖なのか。記憶そのものに対する恐怖なのか。
「――かさん」
ビジネスホテルの狭い廊下で、男は新聞の切り抜きを差し出した。
「見出しには、エレベータに挟まれた女性が死んだと」
「ナカさん!」
叫ばれた自身の名前を認識し、私は正気に戻った。目の前に女の顔があった。
「今日は結構です。ゆっくり思い出しましょう」
先生がカルテを閉じた。
たくさんの汗が背中を垂れていたのに気づいた。背中に手を回してシャツにしみ込ませる。
「ありがとうございました、少し楽になった気がします。えぇと、何先生でしたっけ」
先生の白衣に名札は無かった。彼女も視線を追って自分の胸を見下ろし、はっと気付いたようだった。
「生駒です。ほんとは医師免許も臨床心理の経験も無いんで、精神科医じゃないんですけど」
「え」
後半はぼそぼそと発せられたのでよく聞き取れなかったが、不穏なことを言っていたようだったので、心配になって聞き返した。
「ジョークです。精神科医はコミュニケーションを大事にするそうです」
生駒先生は満面の笑みを浮かべた。
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