12. 救済

 上司に薦められ、翌日も出社してすぐに診療所を訪れた。先生は昨日と同じように診察室の椅子に腰掛けていた。

 私は挨拶を交わして円椅子に座った。

「お体の調子はどうですか。何か変わったことはありましたか」

「昨日よりは良くなりましたが、まだ頭がぼんやりします」

 先生がカルテに書き込む。

「分かりました。では今日は、催眠を試してみようと思います」

「催眠ですか」

 催眠と聞くと、テレビのバラエティ番組に出てくる胡散臭い催眠術士のイメージが浮かぶ。『あなたはもう、椅子から立ち上がることができません』というお決まりのやつだ。

「催眠は科学的に証明された現象で、アメリカでは治療法の一つとして認められています。人間は日頃、意識がブレーキとして働いた状態で活動していますが、意識のレベルを一時的に下げて無意識に持っていくことができるんです」

 私の不安を感じ取ったのか、先生は説明を続けた。

「中川さんは、過去と最近の記憶を少しずつ失ってしまっているようです。それも忘れたのではなく、自ら蓋をするような形で。頭がぼんやりするというのは、最近の記憶が失われてしまったことによるものだと思います。催眠で無意識の状態を作り出して、蓋をしていない記憶を認識するのが、解決に繋がると思います」

 記憶を無くしたことに対して心当たりがないのだが、そもそも記憶を無くしていたらそれも分からないはずだと気づいて考えるのを止めた。この頭の不快な状態が治るなら、催眠でも何でもして構わない。

「分かりました。お願いします」

 先生に促されて、診察台の上に仰向けに寝た。診察用なので文句は言えないが、少し固かった。

 先生の手が腹に触れる。服越しだが、暖かさが伝わってきた。

「ゆっくり呼吸をしてください。吸って、吐いて」

 先生が口にするリズムに従って、呼吸を繰り返す。深呼吸なんてものをするのは、幼い頃のラジオ体操以来だろうか。体の力が抜けてきた気がした。

「それでは、ライトの光を見てください」

 机の上に置かれていた懐中電灯を手に取り、スイッチを入れて光をこちらに向けてきた。直視すると眩しいので、目を細めた。

「あなたはライトが見えます」

 ふわふわと動くライトの光を目で追う。

「あたしの手が見えます。壁が見えます」

 先生が視線を誘導する。私は言われた方向を見た。

「時計の音が聴こえます。木々の葉が擦れる音が聴こえます」

 視覚の次は聴覚のようだ。目を閉じて、言われた音に耳を済ませる。

「背中は診察台に触れているのを感じます」

 触覚。やはり少し固い。

「私が数字を逆に数えると、あなたの催眠状態は深くなっていきます。五、四、全身の力が抜けていきます、三、二、一」

 考える力が失われていく。体がぽかぽかしていて、気持ちがいい。

「深く眠ります」


 聞き覚えのある声で名前を呼ばれている。私は目を開いた。

「――真治君」

 女が私の名前を呼んで手を振っている。色気のあるたれ目。肩まで伸ばした黒髪。荷物を挟んで立っているのは妻の遥だ。

「やっぱり、疲れているんじゃない? 私一人でやっておくよ」

「大丈夫。それに、遥だけじゃ動かせないよ」

 私は背中を反らせて三角形のハンドルを引き、遥は反対側から荷物を押した。

 私達は工場の中にいた。重い段ボールが山ほど積まれたパレットを、ハンドリフターで引っ張っていた。段ボールの中にはロボットに取り付けるためのモーターが入っていて、とんでもなく重い。

「それはそうなんだけど。よし、もう少しで休める!」

 エレベーターの前まで辿り着いた。ボタンを押すとベージュのドアが開いた。産業用なので、かごの中は薄暗く空調が無いが、床面積が広く二トンまでのものを運搬できる。

 入り口の段差に苦労しながらもパレットを引っ張り、エレベーターの中まで運び入れた。乗りきらないことを心配していたが、ハンドリフターのハンドルを立てればぎりぎり人二人分の隙間を残して収めることができた。私はエレベーターの奥側に立ち、遥は入口側に位置取りした。

 私は操作盤を指差した。

「そこから、ボタン押せるか?」

「任せて、こう見えてスマートだからね。うぇ、思ったよりきつい」

 遥が二階のボタンを押すと、ドアが閉じてエレベーターが動き始めた。礼を言うと、どんなもんだと言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。

 荷物を挟んで立つ遥は、私と同じ制服を身につけており、裾が若干油で黒く汚れている。彼女は同じ開発センターの同期で、パラレルリンク型のロボットであるクロノスの開発を行っている。左手の薬指には、シンプルな銀色の指輪が輝いている。

 入社式の頃は、綺麗な子がいるくらいにしか思っておらず、社内恋愛なんてこれっぽっちも考えていなかった。しかし、同じく同期の岡部と一緒に、三人で行動するようになってから、私と岡部は彼女に惹き付けられ、意識するようになった。かといって、誰も自分の年齢が若い(と思っていた)し、当時の楽しい関係を続けたい思っていたので、お互いの気持ちは知りつつも、私達は行動を起こさなかったが、遥が会社の先輩からアプローチを受け始めたことで、状況は急激に変わってしまった。

 告白すると伝えた日、岡部は待ってほしいと言った。しかし、先輩からディナーに誘われているところを見た私は、我慢できずに岡部との約束を破って思いを伝えてしまい、私達は付き合い、やがて結婚することになった。

 性格が違うからこそ支え合える関係で、価値観が一緒でいつも同じ方向を見ていて、肩肘張らずに付き合えるのは遥だけだったし、結婚したのは自然な流れだったのだと思う。未婚率が増加し周りから焦らされることもなくなった世代に、彼女と会うことがなければ結婚することは無かったとさえ思える。

「ニヤニヤして、何を考えてるの。ひょっとして私に失礼なこと?」

 遥が制服のお腹の部分を引っ張って見せた。話の流れから、とんでもない勘違いをしているようだった。

「違う違う、全然関係ないんだけど、ふと思い付いてさ。遥と会わなければ、俺は結婚しなかっただろうなって」

「突然何を言い出すんだか……」

 彼女は視線をそらして苦々しく笑った。

 操作盤の上にある階数のランプに『2』が点灯したとき、がくんと地面が揺れた。


「何?!」

 遥が叫ぶ。私も慌ててエレベーターの中を見渡した。

 背筋に寒気が走る、不安になる揺れ方だった。

 音と加速度に対する感覚から判断する限り、エレベーターは止まっていた。階数のランプは二階であることを示しているが、ドアは開かない。異常な状態のようだった。

「非常ボタンを押してくれ」

「分かった」

 今度は冗談を言うこともなく、遥はすぐさま振り向いて、受話器のマークが描かれている非常ボタンを押した。反応は無く、ボタンの隣にあるスピーカーから音は聞こえない。

「誰か、誰か出て下さい!」

 遥が叫びながら何度もボタンを押すが、スピーカーは沈黙を守っていた。

「故障しているみたいだな」

「どうしよう。このエレベーター、落ちないよね?」

 落ち着きなく壁をぺたぺたと触る彼女は、パニック状態に陥っているようだった。

「大丈夫。電気は点いているし、すぐに復旧するよ」

 安心させようと思い、私は天井の薄暗い電灯を指差していたが、彼女は視線をよこすことなくドアの隙間に手を挟み入れて力を込めた。ゆっくりと鉄の扉が動き、肩幅くらいの隙間が空いた。

 開いたドアの間に見える景色から、エレベーターがどの位置にいるのか理解できた。かごは二階に到達しておらず、目の前はコンクリートの壁だった。見上げると、上方から明るい光が差し込んでおり、二階の地面が見えた。三十センチくらいの隙間だろうか、通るのは至難に思える。

 遥は段ボールの山に足をかけ、その上に登った。

「まさか、出るつもりじゃないよな?」

「大丈夫、私はスマートだからさ。出たら助けを呼ぶから、真治君は待ってて」

 両腕を突き出し、ドアの上の隙間に上体を差し入れる遥。私は駆け寄って引き戻そうとするが、荷物とハンドリフターが邪魔して近づけない。無理をして動いてかごを揺らしたら、エレベーターが動きかねない。

「危ない、止めろ!」

「それから、さっきの話だけどさ。きっと――」

 ぼそぼそした声が聞こえる。もぞもぞと動く上半身が、壁の向こうへと吸い込まれていく。残った下半身が左右に揺れる。


 再び、がくんと地面が揺れた。

 私は荷物を飛び越え、遥の下へ駆け寄った。通り切れていない足に手を伸ばす。

「私も、きっとそうだったよ」

 エレベーターが大きく揺れた。電灯が点滅し、真っ暗になる。私は地面に叩きつけられた。


 私は背中の痛みで目を覚ました。真っ暗で何も見えない。手を這わせたところ、崩れた段ボールの山の上に乗っているようだった。

「遥、大丈夫か?!」

 叫ぶが返事は無い。額を濡らしていた液体が眉に垂れてきたので顔を拭う。ぬめりとした不快な感触がした。

 ポケットの中から携帯電話を取り出し、側面のボタンを長押しして懐中電灯を点けた。照らされた指先が、赤く染まっていることに気付いた。額を切ってしまったのかもしれない。ようやく鼻が鉄の臭いを捉えた。

 懐中電灯の光をドアの方へと向ける。ベージュの壁には赤い縦縞模様が描かれている。手首を傾け、下側を照らす。

 そこに遥はいた。

 私は今まで出したことのない大きさで悲鳴を上げた。自分のものとは思えない奇声がかごの中に響いた。


 遥は半分だけ、いた。

 ドアから垂れ落ちた血は床に溜まっており、その上には制服のズボンを身に付けた下半身が横たわっていた。ぬちゃっと生々しい音を立てて、ゆっくりと芋虫みたいな腸が地面にこぼれ落ちた。

 私は必死に離れようとしたが、血にまみれた靴が血にまみれた段ボールの上で滑る。沼にはまって溺れているように、もがく両手は何もつかめず、蹴る足はむなしく滑る。私は血の中で転び、気を失った。


 私は病院で、エレベーターの故障による事故のことを聞かされた。

「全て自分が悪い。遥に手伝いを依頼しなければ、エレベーターの故障に気付いていれば、すぐに駆け寄って体を引っ張っていれば、彼女は死ななかった」

 告別式は二日後だった。白装束に身を包んだ遥は、両膝を伸ばし、両手を胸の上で組み、花に囲まれて棺桶に収まっていた。

 私は遥の両親と共に、お焼香にいらした方に頭を下げていた。遥の友人。遥の恩師。遥の上司。遥の知り合いが次々に押し寄せる。彼らは、遥がどんな良い人だったかを説明した。生前どんなお付き合いをしていたのかは分からないが、彼らは彼女のいなくなったことを心から悲しんでいるようだった。

 仕方が無かったのよと、遥の母は、やつれた顔でそう言った。

 顔色が悪いが大丈夫かと、遥の父は、自分の顔色の悪さを棚に置いてそう言った。

「全て自分が悪い。きっと告別式に来ていた彼らは、俺のことを心の底から憎んでいる」

 帰ってきたアパートは、静かで、広々としているように感じた。一人で部屋の中を歩き回る。脱ぎ捨てられたパジャマが椅子の背もたれにかけられていた。窓際の棚に置かれた青いビンには、水をあげられずに干乾びた花が挿してあった。

「こんな苛酷な現実を背負って、生き続ける自信はない。いっそ、全て忘れてしまえばいいのに。そう思った時、真っ暗だった私の目の前が、明るくなった気がした」

 私は花瓶を手に取ると、床に向かって振り下ろした。

「事故は無かった。俺は遥と別れたんだ」

 粉々になったビンの破片と共に、畑一面に咲いたひまわりを一緒見た、遥との思い出が消えた。そこで一緒に食べた、かき氷が消えた。帰りの渋滞と、交わしたしりとりの記憶が消えた。

 椅子を壁に叩きつけて、足を折る。棚の戸を開けて、中の食器を片っぱしから落とす。クローゼットの中の服を引き裂く。

 壊す度に、いろんなものがぼろぼろと零れ落ちていく。彼女との楽しかった記憶が、彼女と泣いた記憶が、彼女に怒った記憶が、全て零れ落ちていく。体を引き裂かれる痛みを感じ、涙がとめどなく流れ落ちた。


「忘れてはだめ」

 どこからか声が聞こえた気がした。私は振り上げた拳を止めた。手の甲はガラスで切れ、血だらけになっていた。

「遥さんとの幸せだった生活を忘れてはだめ」

 気のせいではない。再び頭の中から女の声が聞こえた。

「俺は自分のしたことの罪の重さに、耐えられない」

 姿の見えない人間と会話ができるとは思えなかったが、私は口から声を発した。

「確かにあんたは、エレベーターの故障に気付けなかったのかもしれない。助けるタイミングを誤ったのかもしれない。でも、事故が起きたのはあんたのせいじゃない。捜査資料を見返していたら、機械室の巻上機に細工がされていたことが分かった。多分、電話線にも。そこまで調べていたのに、証人の証言によって事故として扱われていたの」

 声は私の言葉に対して返事をしたようだった。

「それでも、遥の両親は俺のことを恨んでいる」

「行き先の無い憎しみは、少なからずあんたに向かっていたのかもしれない。でも、あんたは逃げないでそれに向かい合わなければいけなかった」

 力の抜けた拳が開く。

「それに、遥は俺のことを許してくれない」

「遥さんの人となりはよく知らない。でも、自分の死を苦しんでいる旦那のことを、きっと彼女は責めない。それでも足りないというなら、あたしが許す」

 掲げていた腕が垂れ下がった。壊した家具が、破った服が、壁が、床が、全て消えて上空から光が差し込む。

「だから帰って来て、ナカさん」

 光の中から腕が伸び、手が差し伸べられた。その手を私はつかんだ。


 私は診療所のベッドに仰向けに横たわり、天井の照明を凝視していた。握っていた右手を光の前にかざして開く。胸の中は、長らく忘れていた澄んだ感覚に満たされていた。

 私は上体を起こして、診察机の方を向いた。生駒はいつものスーツの上着の代わりに、白衣を羽織っていた。

「イコさん」

 名前を呼ぶと、生駒は円椅子を回転させて、こちらを振り向いた。

「よかった。記憶が戻ったみたいだね」

 生駒が机の上のポットを手に取り、マグカップにお湯を注ぐ。液面からほんのりと湯気が上がった。

「ここ数日の記憶はあるの?」

「はい。静岡にいたことも、記憶を無くして会社に戻ってきてしまったことも思い出しました。すみません、ご迷惑をおかけしました」

 紅茶のティーバックの入ったカップを受け取りながら答える。

「いいの。ナカさんには、まだまだ調査を手伝ってもらわないといけないんだから」

 私は苦笑いをして、お茶を口にした。ブラインドの開いた窓からは、暗くなった外の様子が見えた。診療所を訪れたのは午前中だったはずなので、半日以上横になっていたらしい。

 生駒は再び机に肘をついて、壁に貼られた誰のものか分からないレントゲンを眺めていた。記憶を失っていたときは、この顔がどういうわけか優しそうで頼りになる存在に見えたものだ。

 お茶を飲み干し、空になったマグカップを膝の上に置いた。

「ごめん。辛かったときのことを無理やり聞き出したね」

 生駒が口を開いた。

「いや、いいんです」

 彼女が思い出させてくれなければ、私は遥のことをずっと忘れたままで、義父母に頭を下げることもできず、無責任に暮らしていただろう。

「事故のことがあったから、事件現場に対して耐性があったのかもね」

「そうかもしれないですね」

 生駒が円椅子を回転させてこちらを振り向いた。

「あたしは、ナカさんのことを大切な仲間だと思ってる。だからその敬語、距離を感じて軽く傷つくんだよね」

「ごめん」

 彼女のお陰で、辛い過去を乗り越えることができた。だから気恥ずかしいが口にする。

「――それと、ありがとう」

 生駒が満面の笑みを浮かべる。先生としての印象が残っているのだろうか。今まで憎らしかった顔が可愛く見えた。私は目を逸らした。

「明日、静岡に戻るよ。俺は今日のところは寮に泊まっていくけど、イコさんはどうする? ここ数日どこから通ってたんだ」

「温泉つきの旅館を借りてるから、そこに戻るよ」

 生駒はしれっと答えた。経費で落とすつもりなのだろう。私は苦笑いを返した。

「この後、会社に戻って残業していくつもりなんてないでしょ。旅館まで送ってよ」

「分かった」

 ベッドから起き上がる。明日からきっとまた、生駒や石島との慌しい毎日が始まる。

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