6. ローゼンクロイツの薔薇
前日に引き続き、私はスマホの着信音に起こされた。寝起きの頭で、また生駒からの電話だろうかと考えを巡らせる。だとすると、今度は火葬場にでも連れて行かれるのかもしれない。
ディスプレイには見覚えのある数字が並んでいた。ジャードからの電話であることに気づき、急に目が覚めた。嫌な予感がする中、通話ボタンを押して耳に当てる。
「ジャードの東雲です。中川君ですね」
社長自らの電話だった。その声には、いつものような落ち着きが欠けているように感じた。しどろもどろになりながら挨拶を交わした。
「また、我が社の製品が関係した事件が起きました。すみませんが、調査をお願いします」
恐れていたことが起こり、頭の中が真っ白になった。
社長から指示された場所は、駿河電工の沼津工場だった。電子部品の中でも大型である、ハードディスクやSSDの外枠を作っているらしい。調べたところ近くまで行ける公共交通機関が無かったので、私はタクシーを呼んで三十分走った。
沼津工場は、海岸と国道に挟まれた小さな敷地にあった。一帯にはたくさんの松が茂っており、その間を通り抜けるひんやりした潮風が気持ちいい。コンクリートの塀で囲まれているので、工場の建物は見えなかった。
塀の途切れた場所にある受付の前には、既にマスコミが詰めかけていた。三島重工で受けたインタビューの件があるので、彼らの前を通って入るのはためらわれた。
「ナカさん、こっちこっち」
背後から大きな声が聞こえたので、振り向いた。生駒が塀の横に立ち手を振っていた。いつか見たパンパンのドラムバッグを肩にかけている。
あまりに声のボリュームが大きかったので、工場にカメラを向けていた報道陣が一斉にこちらを見た。関係者だと思われたようで、気づいた各局のテレビ局員が、撮影機材を構えて走り出した。この前インタビューしたジャードの関係者だ、なんて声も聞こえてきた。
「走れ!」
理不尽さを感じながらも、声に促されて走る。生駒がいた場所には、塀に引き戸の扉が設けられていた。アスファルトを蹴って、工場の敷地に飛び込んだ。
私が入ったのを見届けて、生駒が体重をかけて引き戸を閉める。ガシャンと金属音が鳴り響いた。壁の向こうで足音が止まった。
「助かった……」
息を切らせながら、私は言葉を吐き出した。
生駒に案内され、松林の中にできた遊歩道を歩いて事件のあった建物へと向かう。整地されただけでなく、通路の部分にはウッドチップが敷き詰められていて歩きやすい。夜には、等間隔で立つ傘のついた照明が光るのだろう。
しばらく進むと視界が明るくなった。海側には塀がなく、海が光を受けて輝いていた。水平線には白い雲が海面から湧き上がるように集まっている。
「綺麗だな」
飾りの無い思ったままの感想を口にした。感動は共感したいのが人間の性である。同意を求めて隣を見る。
「今の内に、目に焼き付けておいた方がいいよ」
生駒はしれっと言って先に歩いていってしまった。
ここに来た目的は観光ではなく、事件の現場を調査するためだ。沈んだ気持ちで後を追った。
松林を抜けると、大きくはないが壁にレンガの装飾がされた綺麗な建物が、芝生に囲まれて建っていた。今まで訪れたことのないタイプの、お洒落な工場だった。
建物の扉は開かれており、立ち入りを防ぐように胸の高さに黄色いテープが貼られていた。傍では一人の若い警官が見張っていた。
生駒がカードを掲げて近づいていく。
「ご苦労さん。科警研の生駒、参考人と入ります」
「どうぞ。あの凄惨なところに、よく何回も入れますね」
警官がテープを持ち上げて、通りやすくしてくれた。
「へーきへーき、そういう仕事だから」
私は違うんだがと思いながら、テープをくぐる生駒の後を追う。
工場の中は、蛍光管タイプの電灯がふんだんに使われており、光沢のある灰色の地面に反射して明るかった。普通の工場なら入った瞬間から切削液の酸っぱい臭いが鼻につくものだが、あまり臭いがしなかった。壁際に並んだ白い直方体は、空気洗浄機なのかもしれない。外観といい、管理者は工場について大きなこだわりがあるようだった。
「さっきの警官が、凄惨なところって言ってましたよ。どんな事件だったんですか」
「見た方が早いよ」
生駒は床に描かれた黄色のラインに沿って通路をすたすたと進んでいく。
「その理論で痛い目を見ているんで、あらかじめ教えて欲しいんですが」
ようやく説明する気になったのか、生駒は足を止めた。
「残念、話す前に到着しちゃった」
ドラムバッグから黒いゴミ袋を取り出して渡してきた。反論するのを諦め、私は覚悟を決めた。
「グッドラック」
握られた拳から突き立った、親指の先を見る。
安全柵で囲まれたそのエリアは、ハードディスクの外枠をアルミ材から削り出す工程のようだった。小型のマシニングセンタが横に三台並び、それぞれにワークを交換するためのロボットが配置されている。
マシニングセンタは工作機械の一つである。CNCと呼ばれるコンピュータを内蔵しており、プログラムに従って複数の工具を取り替えながらワークの加工を行う。工場で使われていたのは、その中でも立型と呼ばれるタイプで、回転工具のついた主軸が地面と垂直に取り付けられていた。主軸は一分間に五千回以上の速度で回転し、アルミ材を削り取る。また、その下にはワークの載った鉄のテーブルが設置されており、地面と平行に移動させることで、主軸をワークの任意の位置に押し当てて加工を行う。
三台の内、真ん中のマシニングセンタは正面のドアが開いていた。削った金属の屑や切削液が飛び散るので、マシニングセンタの外壁はスプラッシュガードと呼ばれる板金で囲まれている。ワークや工具を交換する際は、ドアを開いて機内に上体を入れて作業を行うことになる。
開いたドアの前で、作業着姿の人間が中を覗き込んでおり、安全柵の外からは下半身だけが見えた。ロボットも機内にアームを差し込んでおり、同時に作業を行っているようにも見える。
ロボットは高速で移動し危険であるため、基本的にロボットと人間は同じ空間で作業を行うことはない。しかし、最近は人間と一緒に作業する協働ロボットが使われている現場もある。これが協働ロボットだとすれば違和感は無く、事件現場には見えない。既に開かれていた安全柵の中に入り、作業者に近づく。空気洗浄機でも抑えきれない鉄とアンモニアの臭いが強くなる。
開いたスプラッシュガードのドアの内側を目にしたとき、その異常さを理解した。
マシニングセンタの機内は赤く塗りつぶされ、天井から粘性のある液体が糸のように垂れ下がっていた。異界や地獄というものが存在するなら、まさにこんな光景なのかもしれない。貼り付いていた肉片が剥がれ落ち、水面で飛沫を散らした。切削液が流れるはずの樋には、大量の血が溜まっていた。
機内に身を乗り出していた作業者は、その首をロボットにつかまれ、テーブルに押さえつけられていた。背中には血の雨を浴びて大小の水玉模様が作られていた。
横たえられた頭は凹凸が埋まった赤い塊と化しており、表情は分からなかった。その側頭部には、主軸に取り付けられた太いドリルが突き立ち、大きな穴が空けられていた。螺旋状の工具は中に入っていたものを巻き上げ、機内に散りばめていた。女性のものだと思われる長いダークブラウンの髪は、ドリルにからまって主軸の上までねじれ上がっている。まるで、耳に一輪の深紅の薔薇が咲いているようだった。
作業者の腕は力なく垂れ下がり、溜まった血の海に細い指先を沈めていた。
ロボットの先端に取り付けられたワークの交換を行う装置は、見た目が人間の手に似ていることからハンドと呼ばれるが、ロボットもハンド周辺が血だらけになっていた。四本の爪のついたハンドが、作業者の首を後ろからしっかりと押さえつけていた。
息を呑む。ねっとりした空気が肺の中に流れ込み、気持ち悪くなった。
「おい、また勝手に参考人を連れ込みやがって」
石島の声と叩かれる音で、私は正気に戻った。今回は精神的に余裕があった。生駒のせいで連日血を見せられているので、耐性ができているのかもしれない。
「痛い、痛いって。ナカさんなら大丈夫だよ」
手帳で叩かれた頭をさすりながら、生駒が私を指差す。
「大丈夫ですけど――次こそは、事前に話してください」
彼女には通じないと思いながらも、心の叫びを口に出した。
石島と生駒と共に向かった休憩室で、私は思わず吐息を漏らした。シックな暗い木目の机を、バーチェアーのような足の長い円椅子が囲んでいる。緑とベージュの座面があり、ツートンカラーになるように交互に並べられている。カフェにでも来たのかと目を疑ってしまう。
「最初見たとき、我々も驚きました。工場によって、こんなに環境が違うのですね。いえ、三島重工の居心地が悪かったというわけではないのですが……」
「お気持ちは分かります。ここまで手が込んでいる工場は、私も見たことがなかったです」
私達は不慣れに座面に手をつきながら、椅子に腰掛けた。地に足が付かずどうも落ち着かない。
「分かっている事についてお伝えしたいと思いますが、先に申し上げますが、中川さんには少しショックが大きいかもしれません」
石島は言葉を切ったが、現場を見る以上の衝撃があるとは思えない。私は軽い気持ちで頷いた。
「今回の被害者は伊藤里香、二十九歳独身。財布に入っていた身分証明書から分かりました。駿河電工の作業員で、入社三年目。ハードディスクの外枠を加工するシステムのオペレーターをしていました」
私は息を呑んだ。読み上げられたのは、思いもしなかった聞き覚えのある名前だった。
「伊藤さんって、岡部と一緒にいた……」
「はい。先日、アリバイの確認のため連絡を取った女性でした。迷いましたが、亡くなったことは既に岡部さんにもお伝えしてあります」
顔を合わせたことはないが、岡部の悲しみを思うと辛い気持ちになった。
「昨日は一人で夜勤をしていたそうですが、二十三時頃、マシニングセンタの回転工具で頭部を貫かれて死亡しました。死亡時刻については、マシニングセンタのアラーム発生時刻から割り出しました。第一目撃者は、交代のため工場に入った葛西という男です」
「あらら。その人も朝からテンション下がっただろうね」
恒例のように生駒が的外れなことを心配し、石島に無視された。
状況は三島重工の事件と似ている。被害者は産業用機械に巻き込まれて深夜に死亡しており、死亡した瞬間を見た人間はいない。
「そんなことより、検視の結果は出ているのか」
「うん」
生駒がクリップボードに挟まれた紙をめくる。
「二十三時という死亡推定時刻は、死後硬直や死斑の状態とも一致してる。壁一面に付着した体液は、血痕の推定材料にはならないけど、これだけ大量となると頭から――多分浅側頭動脈から噴き出したもので間違いないと思う」
「ロボットに押さえつけられ、機内でドリルに貫かれて殺されたってことか」
石島が顔をしかめて言った。
「ロボットの暴走に見せかけるために、被害者を殺害した後で、ロボットを操作して押さえつけたという可能性はありますか」
私としては犯人がいる方針で調査を進めたい。生駒に尋ねた。
「いい質問。でもそれは考えにくいかな。ロボットの先端も返り血を浴びていたし、被害者の首にロボットの爪と擦れた四本の傷がついてた。ロボットに押さえつけられて、暴れた時についたんだと思う」
あっさりと否定されてしまい、私は大人しく引き下がった。
「それから右手に、ドリルによるものと思われる防御創があったよ。手を出して止めようとしたけど、叶わずに意識のあるまま頭を貫かれたんだろうね。どんな気持ちだったんだろう」
「俺達にしてみれば、顔が隠れていて表情が見えなかったのがせめてもの救いだったな」
石島が手を合わせてしみじみと言った。確かに、被害者の死に際の憎悪と無念に満ちた形相を目にしていたら、一生うなされていたかもしれない。
「ATPが急激に分解されて死後硬直を起こしでもしない限り、死体は無表情だよ」
小馬鹿にするように生駒が言った。
「そういうことを言っているんじゃない」
石島がため息をついた。
「そういえば、ポケットにこれが入ってたよ。新品みたいで、中には何も保存されてなかったけど」
生駒が取り出したのは、ビニール袋に入ったUSBメモリだった。
「おかしいな。メディアは工場内に持ち込み禁止だと聞いていたが」
石島がUSBメモリを手に取り軽く目を通し、続いて私が受け取った。側面に書かれた容量は二ギガバイト。聞いたことの無いメーカー製の、安そうなものだった。
「鑑識はそんなところかな。病院をまた貸してもらえることになったから、遺体の回収が終わり次第、解剖してくるね」
石島が頷き、私の方に向き直る。
「中川さんからは、何かありますか」
相変わらず、一瞬しか見ていないというのに無茶振りをされる。
「今回使用されていたロボットも、アレスでしたね」
今回はアームの部分に血がかかっていなかったので、機械の名前が印字されたラベルを確認できた。
「可搬重量は三十キロなので、人間の体を押さえつけることができるのか疑問ですが、背中の方から首を押さえつけられていると、案外力が出ないのかもしれませんね」
「そうかな。三十歳女性の平均背筋力は八十キロくらいだから、動けると思うんだけど」
生駒が自分の首を抑えながら言った。
「試してみましょう。ほれ、お前がやれ」
石島が生駒と机を交互に指差す。生駒の顔が露骨に嫌そうな表情に変わった。
「なんであたしが」
「被害者の身長とだいたい同じくらいだろ」
そうだけどと言葉を濁しているが、私の見立てでは彼女は被害者よりもだいぶ小さく見えたのだが、本人は気にしていないようだったので口を挟むのはやめた。
「知り合いに見られて、職場で変な噂を流されたらどうしよう」
「そんときは婿でも探してやる」
石島が窓の外を見ながら、やる気のなさそうに答えた。
「本当? 嘘ついたら、イシさんが殉職して解剖するときに、舌を切り取って代わりに生殖器を繋げてやるから」
「お前ならやりそうで怖い」
石島の口から亀が頭を出しているところを想像して、ぞっとした。
言いたい放題言ってようやく納得したようで、生駒が机をマシニングセンタのテーブルに見立てて、うつぶせになった。後ろ髪をまとめて、片方に流した。
「このお店に指名制度はあるの?」
首を回して、後ろに立つ石島を睨みながら尋ねる。
「それくらいは構わないだろう。言ってみろ」
「イシさんがやると恨みがこもっていそうだから、ナカさんで」
「だそうです、お願いします」
恨みを果たせず舌打ちをする石島と交代して、私が生駒の後ろに立った。ワイシャツの襟の上に、白いうなじがあらわになっている。まとまらなかった細い毛が生え際から飛び出している。普段見ない部位だからだろうか、無防備な部位だからだろうか、生駒に色気を感じてしまっている。足音を殺してゆっくり近づき、腕を伸ばして細い首に触れる。指先から人の暖かさが伝わってきた。
「冷たっ」
生駒が大きな声を出したのに驚き、私は思わず手を離した。
「ごめんごめん、びっくりしちゃった。大丈夫、手の冷たい人は、心が暖かいらしいよ」
「すみません。じゃあ、触りますね」
今度は一声かけてから首に触れた。生駒の口から息が漏れる。背徳感を覚えながら徐々に体重をかけ、押さえつけた。
「本気で起き上がってみろ」
石島の指示に従い、生駒が背中に力をこめて上体を起こそうとする。そのままでは無理なのを悟ると、今度は両手を机について押し上げようとした。私はあまり強い力で押さえつけているつもりはなかったのだが、結局生駒は起き上がれなかった。
「疲れた、死ぬ」
背中を上下させて荒い息をしながら言葉を搾り出した。
私は生駒の首から手を離した。汗で若干濡れた手の処理に困り、こっそりスーツのズボンで拭いた。
「これで中川さんの仮説が証明されましたね。アレスで押さえつけることは可能だと思われます」
テーブルの上で息を切らしている生駒を放置して、石島は席に戻った。
「それに、被害者の首についていた傷の方向も、逃れようとする時の動きと一致しそうっていうのが分かったよ」
生駒が首を労わるように撫ぜながら言った。
「他には、何かありますか」
「マシニングセンタには安全規格がありまして、作業員を危険にさらさないように、ドアが開いた状態では運転できないはずなんです」
「確かに、ドアが開いているときに工具が回転したら危ないですね」
石島が頷き、手帳に書き加える。
「ひょっとすると、プログラムを改造したり、センサをいじっているのかもしれません」
私が口にしたプログラムというのは、今回はシーケンスプログラムのことを指す。マシニングセンタには多様な使い方への対応が求められる。ボタンを押したら加工を開始したり、ライトカーテンと呼ばれる、光線で物体を検知する装置をドア代わりに使ったり、ロボットを使用してワークを交換したり、本当に様々だ。そのため、プログラムの一部をお客さん向けに開放しており、改造がしやすいように作られている。このコンパイルが必要ないインタープリタ方式の制御用プログラムをシーケンスプログラムという。
「ティーチングペンダントを触れば分かりますか」
石島が手帳を閉じた。
「確認するなら、マシニングセンタの操作盤の方ですね。作り方にもよりますが、一度見てみます」
「分かりました。一通り鑑識が終わったら、準備させましょう。ロボットだけでなく、マシニングセンタも分かるんですね」
「ジャードで工作機械も作っていますから。専門ではないですけど、だいたいは分かると思います」
「助かります。では、第一発見者の聞き込みに同行して下さい。――お前は掃除担当だ」
ようやく息の整った生駒に冷たく言い放ち、石島は休憩室を後にした。
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